てすと
第二回エントリー作品  テスト
うおのめ文学賞タイトルロゴ
 夕焼けの帰り道で、要〔かなめ〕は溜息を吐いた。今日返ってきた算数のテスト。とても見せられた物ではない。
 ――どうしてそんな点数で平気な顔をしてるの。
 ――お兄ちゃんを見習いなさい。
 母の凄まじい形相を思い浮かべると、ひどく足が重く感じられた。テストが入っているランドセルは、もっと。
 
 母のお小言は夕食まで続いた。その間中、ダイニング・テーブルに情けない答案を広げられ、時折指先でコツコツと叩きながら何故この答えが書けなかったのかと問われる。まるで拷問だ。
 父が帰ってきた。すぐに夕食。やっと解放される。だが食事中も母の眼光を浴びると、急に胃が縮むような気がして箸が進まなくなる。それを目にした母がお小言。ますます箸は進まない。
 今日も食卓に兄の姿はなかった。
 兄の尊〔たかし〕は高校受験を控えている。少しの物音や話し声にも気を乱されるのか、この頃は、あまり家族の前にも姿を現さない。生活のパターンは学校と家の往復のみ。家では部屋に閉じこもってばかり。全ての時間が受験勉強に当てられている。
 食事を運ぶのは母の役目。母は、まるで腫れ物のように兄に接していた。しかし母はそれを誇りに思っている。何故ならば、母にとって兄は最高の自慢だから。頭脳明晰で容姿も申し分ない。子供の頃から礼儀正しく、全てに於いて非の打ちどころが無い、期待を裏切らない息子。それが母にとっての、自慢の息子の姿だった。
 要がガミガミと叱られる時、必ず兄と比べられた。「尊がおまえと同じ頃は……」と、その口癖を、今までに百万回くらいは聞いたに違いない。兄の足元にも及ばないのはわかっている。だけど自分は兄と同じ人間ではないのだ。全く同じに生きられるわけがない。何故その事実を理解しようとしないのか。
 幼い頃、兄はいつも要と遊んでくれた。近所の犬に追いかけられた時も、棒切れ一つで守ってくれた。友達と遊びに行くのにも連れてってくれた。大抵の場合、七つも年下の要が兄たちの足を引っ張ってしまう。同級生たちに置いて行かれても兄は見捨てたりはしなかった。最後にはいつも要の手を引いて、同級生たちと別れ、家まで二人で歌を歌いながら帰った。兄はいつも自分のせいで同級生に置いてきぼりにされる。わかっていても、いつも一緒にいたかった、大好きなお兄ちゃんと。今では口を利くこともほとんどない。
 ふと思う。少しでも、兄が自分と同じ思いをした経験があったのだろうか、と。テストの点数が悪くて母に叱られたりしたのか、と。
 そんなはずはない。兄に限って。そう考えると、急に自分が惨めに思えてならなかった。机の上で拳を握り締める。兄は自分とは頭の出来が違うのだ。
 徐にランドセルから教科書と地図帳を取り出す。明日は社会科のテストだ。復習しなくちゃ。勉強しなくちゃ。少しでも、いい成績を取らなくちゃ……。隣の部屋で兄もひたすら勉強しているのだ。耳を澄ませても、コトリ、とも音はしないが。もしかして、仮眠しているのだろうか。
 
 答案用紙が配られると、要は愕然と目を見張った。まるで見当違いなところを勉強していたらしい。鉛筆を握る手が震える。喉がからからに渇いていた。わからない……一問目がわからなかっただけで頭が混乱した。その直後、要の時間は止まってしまった。
 終業のベルが鳴る。用紙が回収されていく。真っ白な頭と同じように、要の答案も真っ白なままだった。そして止まっていた時間が氷解し、慌てて立ち上がった時には先生の姿はなかった。
 白紙で答案を提出したことで、後日、母が学校に呼び出された。その日の夕方、要が帰ると、いつにも増して手厳しい母のお小言が待っていた。
 わざとではなかった。焦りから頭の中が真っ白になった。何故そうなったのか今もってわからない。ただ心の中で叫んでいた――いい点数を取らなくちゃ……母さんに叱られる!
 母にはそんな気持ちはわからない。わかるはずがない。母の言葉は要の心を抉り、日増しに萎縮させていく。何のために勉強するのだろう? どうしていい成績でなきゃいけないのだろう? 叱られながら、堂々巡りな疑問が頭の中を駆け巡っていた。とにかくこの場から解放されたい。息が止まるほどの激しい渇望を覚え、もう我慢できない、そう思った瞬間、
「母さん、少し静かにしてくれよ。気が散って勉強できないじゃないか」
 兄だ。珍しく、キッチンの入口に兄の姿を見た。
「あら尊、ごめんなさいね。もう静かにするから勉強を続けてちょうだい」
 母はそう言うと、今度は要に向かって、
「お兄ちゃんを見習いなさい」
 と、目で二階を指し示した。部屋に戻って勉強しろと言いたいのだ。
 要はランドセルを抱え、そろりと立ち上がる。兄と目が合った。その兄の瞳がひどく寂しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
 部屋に入ってすぐ机に向かった。来週また算数のテストがある。もう社会科と同じ失敗はしてはならない。教科書と参考書とノート。机いっぱいに広げ、ペンケースの鉛筆を全部削った。復習しなくちゃ、勉強しなくちゃ。今度こそ、いい成績を取らなくちゃ……。
 だが、小一時間もすると睡魔が襲いかかって来た。精神的な疲れが睡魔を助長する。こめかみを押さえ、頭を振ってみたところで、無駄な抵抗にすぎない。
 
 夢を見た。同い年くらいの少年が側にいた。タカシと言うらしい。兄と同じ名だ。
「そっか。テストできなかったんだ」
 タカシが要に視線を据えている。
「でも、次のテストでがんばればいいじゃんか」
「……うん……でも……」
「自信ないのか。じゃ、一緒に勉強しよう」
 タカシがそう言って笑った。
 答えを返そうとした時、激しく誰かに揺さぶられた。目を開けると父が顔を覗き込んでいる。
「要、ゴハンだぞ。それに寝るんだったらベッドで寝なさい。風邪引くからな」
 要は目を擦り、父と共にのろのろと階下に向かう。夢は既に色褪せていた。
 その日の夜、勉強疲れてついにダウンすると、また夢にタカシが現れた。
「約束だよ。一緒に勉強しよう」
 共に学んでみて気づく。タカシは思いの外、秀才だ。要と違って勉強を楽しんでいる。そんな姿が兄とダブった。受験、受験と言われる前、兄もこうして勉強を教えてくれたから。
 要がわからない所はタカシが教えてくれる。タカシが苦手な教科は要が教えた。教え教えられするうちに、少しずつ、要にも勉強というものがわかり始めてきた。一人で勉強してもきっとわからない。タカシがいたからこそ気づいたのだ。
 この言葉はどういう意味? どうしてこの式を使うとこの答えになるの? この国はどこにあるの? 海や山には何がいるの? 全ての発端は『疑問』――その動機は『好奇心』だ。勉強は押しつけられてするものではない。学びたいから学ぶのだ。謎を解明したいと思うからこそ勉強は楽しくなる。思わなければ勉強など無意味でしかない。楽しいと思えば知識は自然と頭に入るものだ。成績は、それに伴う付属品でしかない。
 夢の中でこそあれ、要は初めて勉強が楽しいと感じた。
 その夜から、不思議なくらい毎晩同じ夢を見た。目が覚めた後は即座に印象が薄れていく夢。それでも夢の中では同じ世界だという実感がある。
「へえ。お兄さんと比べられるんだ」
 タカシが人懐っこい笑顔で言う。
「何かさ、頭のいいアニキがいると弟は形見が狭いんだよ」
 自嘲気味に、少し大人びた言葉を使ってみた。
「僕は比べられるアニキなんかいないからわからないな……でも、それって間違ってるよ。お兄さんとカナメは同じ人間じゃないんだから」
 日頃、不満に思っていたことを、タカシははっきりと指摘した。
「そうだよ、そうなんだよ。個人差があるんだから比べられても困るんだ。アニキとは頭の出来が違うんだからさ」
 タカシが眉を下げる。
「それも違うと思うよ。お兄さんだって努力して頭が良くなったんじゃないかな? 最初から何もしないで勉強のできる人間はいないって」
「そうかな? ……じゃあ、タカシもそう? 努力して勉強したら、タカシみたいに頭良くなるの?」
「ただ勉強したってダメだよ。お腹と一緒。お腹いっぱいなのに無理に食べたらお腹壊しちゃうだろ? 勉強だって同じ。無理に詰め込んだってこぼれていっちゃうだけなんだ」
 わかりやすい喩えで教えてくれる。タカシは人にモノを教えるのが上手い。それは夢の勉強会で身をもって知ったわけだが。
「タカシはお母さんに叱られたことある? テストの点数が悪くてガミガミ言われたことある? 僕は毎日そうだよ。だから、勉強しなくちゃいけない、っていつも焦ってる。タカシと一緒に勉強するまでは、楽しいと思ったことなんて一度もない」
「僕だって叱られたことぐらいあるよ。よっぽど点数が悪い時はさ。でもきっとカナメとは違うんだね。カナメにはお兄さんがいて、お兄さんが成績いいから、お母さんはカナメにも期待してる。僕もそれなりに母さんに期待されてるけど、弟の方がきっと大事なんだ、母さんは。だって、弟はまだ赤ちゃんだからさ、母さんが必要なんだよ。僕はどっちかって言うと放ったらかし。それで勉強に興味持った、って言うか、それしかすることなかった、って言うか。つまりそう言うこと」
「そっか、弟がいるんだ。でも羨ましいな。弟のおかげでお母さんから叱られないで済むんだからさ」
「そんなことないよ。僕はカナメが羨ましい。そんなにお母さんに構ってもらえてさ。……母さんと話したくても、母さんは弟の世話で忙しい。大変なのわかってるから甘えられないし。いつも独りでいるから勉強に没頭するだろ? 成績が良くなったら母さんともっと話ができるかも知れないと思ってさ。でも良くなったら良くなったでやっぱり構ってもらえないんだ」
「何で?」
「心配するところがなくなったからだよ、きっと」
 初めて知った優等生の苦悩。非の打ちどころが無いために手にしてしまう孤独。不意に兄を思った。兄もタカシと同じだったのではないだろうか。時折見せる兄の寂しげな表情。こんなところに理由があったのかも知れない。もしかして、自分のせいで兄が寂しい思いをしていたのだとしたら……そう思うと要の胸は詰まった。
 俯いて膝を抱え、要は上目でタカシを見つめる。
「あのさぁ……弟のこと、うっとうしいと思う? いなきゃいいのにって思ったことない? 弟がいなきゃ、お母さんはタカシだけのものなんだからさ」
 一瞬、目を見開いて黙る。次に人懐っこい笑顔でタカシは言った。
「僕、弟が生まれてすごく嬉しいんだ。弟がもう少し大きくなったら一緒に遊べるし。そしたら僕、勉強だってキャッチボールだって、何だって弟に教えてやるよ。母さんはあんまり抱っこさせたがらないけど、僕が抱っこすると弟はすごく喜ぶんだ。僕を見て笑うんだよ。可愛いんだ。……僕、弟の笑顔を見るとすごく元気出る。だから弟にはいつも笑っていて欲しい。弟が笑ってくれるんなら、僕、何だってするよ」
 熱っぽく語るタカシの姿が兄とダブり、要の胸のつかえは跡形もなく消えていった。
 
 その朝、初めて夢の尻尾を掴んだまま、目が覚めた。色濃く残った夢の少年。タカシが言っていた。
「算数のテスト、がんばれよ」と。
 そうだ、今日は算数のテスト。しかし要には自信がなかった。夢の中で勉強した記憶が朧げにあるとはいえ、実際にはほんの少ししか、机に向かって勉強していないのだから。
 重苦しい気持ちが粉砕されたのは答案が目の前に来た瞬間。「あっ!」と叫びたくなるのを必死で堪えた。
 深呼吸してよくよく答案を見る。並べ立てられた問題の数々。どれを取ってもわからないものはない。あの夢はただの夢ではなかった。夢の中の勉強会は実際の要にも影響を及ぼしていたのだ。タカシと勉強した何もかもが、全て頭に入っている。スラスラ答えが書ける快感を生まれて初めて味わった。
 数日後。算数のテストが返ってきた。要が受け取ろうとすると先生が、
「良く頑張ったな。偉いぞ」
 と、力強く肩を叩いた。きょとん、として答案に目を移す。信じられない数字が書き込まれていた。百点満点だ!
 嬉しくないはずがない。母に誉められるから、なんて次元じゃない。要自身が心の底から嬉しかった。頑張ったことは頑張ったが、苦しみに満ちた勉強でなく、自主的な楽しい勉強の成果がこんな形で現れるとは。その事実が、何よりも要を小躍りさせた。
 全てはタカシのおかげだ。夢の中の勉強会がなければこんな喜びは経験できなかったはず。算数のテストの日からタカシと会っていない。いや、夢を覚えていないだけかも知れないが。どちらにしても、タカシにきちんとお礼を言わなければ。
 これだけの点数を取ったのだから、隠しておいた悲惨な答案はもういらない。学校から帰るとすぐ自分の部屋に飛び込み、過去の答案の隠し場所をそっと探る。要が幼い頃のアルバム。こんなもの頻繁に開きはしない。恰好の隠し場所だ。
 お宝を引っ張り出すと一枚の写真が剥がれて床に落ちた。思わず目を取られ、要は叫ぶ。
「タカシだ!」
 写真の中の同じ年頃の少年。赤ん坊を膝に抱えている。その姿は紛れもなく、夢に登場したタカシ。けれどその赤ちゃんは要だ。と言うことは……。
「お兄ちゃん……タカシはお兄ちゃんだったんだね?」
 要はそう言うと、ランドセルから算数のテストを取り出した。高々と掲げながら写真の少年に見せる。
「タカシ……お兄ちゃんのおかげで、僕、今日初めて百点満点取ったんだよ。お兄ちゃんと毎晩勉強したからだよ。ありがとう! お兄ちゃん」
 窓から差し込む陽の光が笑顔を輝かせた。全ての事実を悟った時、要には兄という存在が誰よりも大切に思えた。タカシは夢の中で「弟が生まれて嬉しい」と言ってくれたのだから。
 いつまでも、テストを掲げる要の姿を、細めに開けた扉から尊が見つめていた。安堵の笑顔を浮かべながら。
−Fin−
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