ろうとこえ
牢と声
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
 聞こえる……
 闇の中から……
 嘘や冗談なんか言ってやしない……
 本当に聞こえるんだよ……
 
 まるで奈落にでも続くかと思えるほど、暗い石の階段。光源は揺れるロウソク。足元が覚束(おぼつか)ない。
 
 ほら、聞こえる……
 あの声だよ……
 今でも耳にこびりついて離れない、哀しい声……
 僕にしか、聞こえない……
 
 狭い空間に反響する足音。淀んだ空気が黴臭い臭気を放つ。夏だというのに冬より寒いかも知れない地下への通路。ほんの悪戯心が齎した不可思議な白昼夢。
 
 やっぱり聞こえる……
 呼んでるじゃないか……
 あの場所から僕を呼ぶ声……
 誰にも聞こえてなくたって、僕にはずっと聞こえてた……
 
 不確かな炎に揺られる奇妙に長い影。自分たちの影なのに、悪魔や妖怪を連想させられ、首を竦める。小さな掌が、ぎゅう、とばかりに腕を掴んだ。生唾を飲み込む音。闇が支配する世界へ下り立つ。
 
 呼んでるよ……
 僕を呼んでるんだ……
 何故僕を呼ぶんだろう、声に聞き覚えはないのに……
 けれど、何処か懐かしい感触がする……
 
 思いの外、広い空間に唖然とする。古びた時代の大気が、突然の侵入者に掻き乱され、蠢いている。何処かの部屋か通路へ続くらしい場所に板が打ちつけられ、薄ぼんやりと浮かぶ視界に白い物が映った。板には紙が幾つも貼ってあるらしい。ロウソクを掲げて見る――御札だ。
 
 なんて哀しい声なんだ……
 僕にどうして欲しいのか……
 もっと大きな声で言ってくれ、聞こえない……
 何を要求している……
 何が望みなんだよ――
 
 灯りを掲げたついでに、側にある物も視界に入ってきた。赤錆びた鉄の棒が地面から生えている。何本も何本も生え揃い、こちらと向こうの闇を隔てている。
 牢屋だ。
 地下の岩盤を利用した岩の牢。
 薄気味悪い――。
 いや、薄気味悪いからここに入ったのだっけ。退屈な気分を紛らわす冒険のつもりで入ったはずが、これほどまでとは思わなかった。薄気味悪いだけでなく息苦しい。今まで空気が解放されなかった分、酸素が腐っているのだ――きっと。
 腕を掴む手に一層力が篭り、
「お兄ちゃん、コワイ〜。もうヤダぁ、もう出ようよぉ」
 妹が半泣きになっていた。
「大丈夫だって。ジイちゃんが言ってたじゃんか。ここにはもう何もいないってさ。でも、昔はいたんだよぅ。こわぁ〜い、こわぁ〜い鬼がさぁ……ほらっ、そこっ!」
「ぎゃあぁあぁぁっ! お兄ちゃんのバカっ! バカバカバカぁー! うわあぁぁーん!」
 妹が本気で泣き出した。少々脅かしすぎたようだ。ぎゃあぎゃあ泣きながらも逃げ出す様子はなく、抱きついて離れやしなかった。
 いつもは鬱陶しいだけの妹だが、さすがにこの時ばかりは側にいてくれて助かった。でなければ気が狂っていたかも知れない。妹が騒ぐから逆に冷静でいられたのだから。
 あの闇の奥、錆びた鉄の臭いが鼻を衝く空間の彼方、はっきりと見た――人の形を。ぼやけて白く浮かぶだけだったが、不思議なくらい明確にわかった。あれは女だと。
 そして、影だけのくせに声を上げたのだ。妹には聞こえない、僕にしか聞こえない声で。
 白い女は間違いなく、こう言った。
 
 ――ああ、漸(ようや)くお逢いできましたなぁ……
 ――この日をどれほどお待ち申し上げておりましたやら……
 ――もう、離れませぬ、離しは致しませぬ……
 
 身震いした。恐怖の余り。
 単純に幽霊だから怖い、といった感情ではなく、会ってはいけない者に会ってしまった、魂の底から揺さ振られる後悔。まだ小学三年生の僕にそんな気持ちが湧き起こったなどとは、今思っても納得の行く出来事ではない。
「佐緒里(さおり)、今、ヘンな声しなかった?」
 僕が呟くと、
「おっ、お兄ちゃんのバカぁっ! これいじょう、オドカシっこなしだよぉ〜!」
 可愛い瞳をめいっぱい見開いて、涙を溢れさせていた。二つ下の妹は懸命にしがみついてくる。万が一、急に走り出しても置いて行かれないようにと思っていたらしい。
 だけど、妹の言葉で声が僕にしか聞こえていないと知った時、本当は駆け出すどころではないくらい足が竦んでしまっていたのだ。妹の温もりが辛うじて理性を繋ぎ止め、寸前のところで身体を金縛りから救ってくれていた。
 恐怖が心を支配した。それが何処から来るのか少しもわからなかったのに、何故だか深い意識の底で、誰かが叫んでいた。あの女に捕らわれたら、きっと永遠に離れられない――逃げ出せなくなる。
 禁じられた、重ねてはいけない魂を持つ相手。巡り会ってはいけなかった相手。けれど、どうしようもなく魂が引き合い、心惹かれた相手。どうしてそんな事情を、たった八歳の僕が直感的に感じ取れたんだろう。
 声が呼ぶ。
 僕を呼ぶ。
 引き摺られる――。
 でも、すぐに何かが起こるわけではないと、本能で悟った。あれは出られないのだ。影しかないはずなのに、あの鉄格子の向こうの闇からこちらへは出て来られないのだ。自分からあの錆び臭い鉄を越えない限り、あれは――僕に何もできない。
「い、行こ、佐緒里」
 やにわに妹の手を握り締め、後を振り返ることなく、頭上の明かりを目指して歩き出した。
 背中から声が追ってきた。ずっと叫び続けていた。涙ながらの声で。切実に懇願する響きで。僕ははっきりと聞いたんだ。この耳にこびりついている。
 
 ――ああ、どうか、お側に……
 ――妾(わらわ)をお見捨てくださいますな……
 ――御前(おまえ)様の世界へお連れくださりませ。……様……な、に……と、ぞ……
 
 外へ出て、蔵の床にぽっかりと開く、地下牢への扉を堅く鎖した。
 あんなに空気が冷たかったのに汗が噴き出している。気温の落差が急激に頭痛を呼び起こす。この日から三日、僕は熱を出して寝込んだ。
 夏休みに遊びに来た祖父の家。退屈しのぎの慰めに――と話してくれた伝説を探りに、遊び半分で下りてみた闇。
 肝試しなんて二度とするものかと思った。最初は《怖いもの見たさ》だったかも知れないけれど、怖いモノなんて本当は見ない方がいいに決まってるじゃないか。
 今でも覚えている――いいや、年を重ねる毎に記憶が明瞭になる。こうして思い出す度に、恐怖が反芻され、詳細まで蘇り、成長する自分に合わせて感慨も変化していった。白い女の言葉も、呼んでいた名前も、脳裏から離れることは決してなかった。
 あれは僕の名ではない。だけど多分、僕を呼んでいたのだろう。あの女の声は僕にしか聞こえないのだから。
 今でも夢の中で聞こえるのだ。あの、物悲しく切実な声が。
 
 ――妾をお見捨てくださいますな……未来永劫、御前様だけをお慕い申し上げておりまする――と。
【冬休みと計画】へ続く
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