じょ
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 頭上で鳥の声がした。
 思わずカメラを構え直し、仰向けのままファインダーを覗く。鮮やかな青い色が瞳に飛び込んできた。ここしばらくの間で陽射しは真夏の様子を帯び、きらめく光は公園の木々のそこかしこに宿っていた。
 透はファインダーから目を離し、空に向けて腕を真っ直ぐに伸ばしてみる。彼の自慢の一眼レフは木洩れ日を受けて誇らしげに輝いた。透は満足そうに微笑むと、胸の上にそっと下ろし、目を閉じる。
 このカメラを手にするまでは、険しくはないが、かなりの道のりがあった。
 最初の難関は高校受験。将来カメラマンになりたい彼にとって高校なんてどうでもいいものの一つだったが、父と母の強硬な説得を無視できず、高校だけは渋々受けることにした。
 とりわけ参ったのは母の泣き落とし作戦だ。しかしその交換条件として、高校在学期間で一眼レフを手に入れる計画に協力すると約束してくれた。
 だからと言って母が全額面倒を見てくれるわけではない。むしろそんなものは何も期待していなかった。母は、頑固な父が息子から簡単に楽しみを奪えないよう、盾になってくれたのだ。
 そんなわけで入学してからの一年間は父を説得することで明け暮れた。説得期間中、透の成績は少しも下がらないので、さすがの頑固者もやっと態度を軟化させたのだ。
 ところが父は抜け目がなかった。
 アルバイトに没頭して学業が疎かにならないよう毎晩のように説教を垂れ、少しでも成績に影響があると思ったらアルバイト先にでも押しかけて来る始末。そのせいでクビになったりもしたし、テスト期間中などは少しもアルバイトをさせて貰えなかった。テストには自信があったのにも関わらずだ。
 過保護なのか厳しいのか定かではないが、そんなに透の成績が気になるのかといえば実はそうではない。父の家は貧しく、幼い頃から学業のために苦労した思い出があって、我が子にまで同じ苦労を味わわせたくなかったのだろう。子供にとっては甚だ迷惑な話だ。結局父は、家族のほどほどな幸せのために懸命に働き、息子には安穏に大学まで通わせたいと願う、平凡な一家の主なのだ。
 そんな逆境にもめげず、透のがんばりが功を奏して、あとひと月ほど働けば目標金額を手にできそうになった三月半ばの頃、突然、父が封筒を差し出した。
 中を覗くと思いがけない金額。今までのアルバイト代と足してみれば、もうワンランク上の機種が狙えそうなくらいだ。
「……父さん、これ……?」
 父は照れくさそうに、
「おまえががんばっているので安心したんだよ。いいからカメラの足しにしなさい」
 そう言うと、食卓に肘をつき両手で湯呑みを包み込む。呆然と父を見つめた。
 厳しくて口やかましい父。時には疎ましくて何もかも投げ出しそうになった。最後にはやっぱりひとりっ子に甘い親馬鹿な父。そんな父の態度が、とても好ましく思えた。
 父の気持ちは痛いほど良くわかる。本当のところ有難いのだが、袋の封を丁寧に折り返すと、透は封筒を父に押し戻した。
「ありがとう。気持ちだけもらっとくよ」
 父は困惑した視線を投げかけたが、彼は笑顔で無言の問いに答える。
「父さん、僕はもう十七だから欲しい物は自分で手に入れなくちゃ。夢は自分の力で実現させるから夢なんだよ」
 父の瞳が僅かに潤んだように思う。急に俯き、だが次の瞬間には苦笑しながら、
「そうか」
 と一言呟いて、あっさりと封筒をしまった。
 世間一般では親が頼りないと子供はしっかりすると言われるが、透の場合は違っている。両親とも堅実で実直なタイプ。彼も真っ向からその性格を受け継いでいた。
 だが幼い頃から、何かが同年代の子供たちとは違っていた。何が違うと一言では言えない。何処か冷めているというか、悟っているというか。現実的過ぎると言われてしまえばそれまでだが、とにかく、子供の時から妙に肝の据わった少年だった。
 だから親離れするのも早い。
 年端も行かないうちから確固たる将来の夢を持って一歩一歩前進してきた。自分の力と可能性を信じているから、いつでも前向き、後ろは振り返らない。端から見ればあまり可愛くない子供だったのかも知れない。
 そう言えば、物心がついた頃から彼はサンタクロースなどいないと感じていた。いくら何でも、一晩で世界中の子供たちのところへ行けるはずがないではないか。だから子供の幻想を壊しちゃいけないと自分の親がサンタクロースをやっているのだ。ずっとそう思っていたし、両親にもそんな風に話した記憶もある。
 彼らはさぞかし心配になっただろう。子供のくせにあまりにも夢がなさ過ぎる、と。その気持ちを引き摺っているせいか、父も母も共働きで忙しいのに執拗に構ってくれる。
 透にしてみれば、単に夢の描き方が他の少年たちと違うだけなのだと思う。目のつけどころが、親に甘えていることすら自覚しない、思春期の少年たちとは全く違うだけなのだ。自分の考えを主張して暴れるだけなら簡単だが、それでは何の解決にもならない。言うべき事と言わざるべき事の分別は既に持っている。
 だから、透は敢えて両親を不安にさせない選択肢をとった。子供のうちは子供らしく無邪気に、成長すればそれなりに自分を変えていく方法を選んだのだ。《いい子》を演じているのではなくて、《いい子》の要素もまた、自分の一部なのだと考えていたから。
 ほどほどに明るく、ほどほどに素直、ほどほどにワガママも言って、ほどほどに自分を主張する。それで両親は安心するし、彼は概ね、平凡で幸福な時間を過ごすことができた。
 肝心なのはこれからだ。透の内には未知数の夢と希望が光り輝いている。父の信頼も得て、ついに彼が第一の夢を叶えたのは、桜がほころび始めたこの春のことだった。
 
 
 初夏の芝生は心地いい。思わず胸の上のカメラが手元にやって来た経緯を、つらつら回想してしまったくらいだ。
 このカメラを初めて手にした夜、浮き浮きした心で透は考えた。
 ――このカメラで何を撮ろう
 手に入れる前からあれこれ考えていたのだ。それなのになかなか被写体が決まらない。いきなりひとつに絞る必要もないから、取り敢えず身近な風景を撮ってみようと思った。
 カメラのファインダーを通して見ると、地球の風景は限りなく美しい。何気ない景色であればあるほど彼の心はときめいた。裸眼では感じられないものをファインダーは感じさせてくれる。透の最初の被写体は、近所の川に沈む夕陽だった。
 週末ごとにこの公園に来るようになってからは、被写体に動物も加わった。この辺りに棲む鳥や野良猫、散歩に来た犬たち。人物はまだ被写体の仲間入りはしていない。
 もちろん将来的には人物をモデルにしてみようとは思っている。そしていつかは、人の心をも写し撮ることのできる、凄腕カメラマンになるのが第二の夢なのだ。今の透には大それた野望だが。
 さし当たって、頭上の木に止まった鳥でも追っかけてみようかと体を起こしかけた時、ふいにすぐ側に人の気配を感じた。慌てて起き上がり後ろを振り返る。いつの間に現れたのか五・六歳の少女が少し離れた木の側に佇んでいた。
 少女は金の髪を赤いリボンで結わえ、赤いワンピースの裾を風に遊ばせている。その澄んだ紫の瞳にはいったい何を映しているのか。少女は微動だにしない。
 まったく失礼な話なのだが、俄かにはその少女がこの世の者だとは信じられなかった。今にも消えて行きそうな不確かさ。初めて風景や動物以外に心を奪われた瞬間、透は無意識のうちにカメラを構えシャッターを切ってしまっていた。
 とたん、少女は驚きの表情をこちらに向けた。 無理もない。いきなり断りもなく写真を撮られたのだから。
 透は座り込んであぐらをかいたまま、何とか少女の表情を和らげようと笑って見せた。言い訳がましく話しかけてみる。
「あの、ゴメン。断りもなく勝手に撮っちゃって。でも住所教えてくれたら写真送るからさ……って、この子、日本語通じるのかな……?」
 幼い少女らしくない険しい表情で、彼女がゆるゆると歩み寄ってきた。
「あなた、私が見えるの?」
「え……?」
 苦もなく日本語は通じたらしい。と言うよりも、少女の言葉が日本語だったかどうかは定かではない。何故か意味が理解できたのだ。
「あなたには私が見えているのね」
「……??? そりゃあ見えるよ。見えたから、あんまり君が可愛かったから、思わずシャッター切っちゃったんだよ」
 お世辞ではなく本音だった。少女は険しい表情をしていても、尚、愛らしく感じられたのだ。
「……あなた、危険だわ」
 幼さに似つかわしくないセリフを言う。
 少女は俯いたが、目だけは透を捉えていた。その瞳は異様にギラギラと輝き、まるで紫の炎が燃えさかるようだ。
「……君は……」
 思いもよらない禍々しさを少女に感じ、彼の身体は硬直した。言葉も詰まる。
「あなた、危険だわ、この世界で私の姿を見ることができるなんて。……いつかあなたは私の障害になる。……だから、このままあなたを放っておくわけにはいかない。……私と一緒に来てもらうわよ、透……」
『どうして僕の名前を……』
 その言葉は声にはならなかった。
 金縛りにでもあったのか、身体は動かず声も出ない。蛇に睨まれた蛙と同じ。全く身動きができない。
 少女は透の額を見つめ続ける。その瞳に何かの力でもあるのだろうか。彼の額はキリキリと痛み始めた。
『……や、…やめてくれ……』
 少女の視線は額に貼りついたまま。不敵に微笑うとこう付け加えた。
「あなたがどんな能力を持つか私は知らない。だけど、私の障害になるくらいなら、あなたを永遠の《混沌》の中に閉じ込めてあげる……」
 突然、経験したこともないほどの激しい衝撃を額に感じた。瞬間、透の意識は、深い深い闇の中に吸い込まれるように落ちていった。
【荒野】へ続く
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