日本史を語る

9.日本武尊と神功皇后(1)

 日本武尊(又は倭建命)は、第十二代景行天皇の皇子として生まれました。景行天皇は崇神天皇から始まる系譜の三代目にあたります。
 
 古代歴史書の一つである古事記によると、彼は青年時代から猛々しく、まさに武人として描かれています。
 また、彼は三太子の一人でもあり、皇位を継承出来る資格を有していたとあります。
 
 その後日本武尊は天皇の命により九州にあって朝廷に背く熊襲を攻め、これを平定したあと天皇に疎まれ、今度は東国の遠征を命じられます。東国遠征は危機の連続でしたが、妻の犠牲で何とか平定を果たし、都へ帰還中その生涯を終えます。
 
 ところで日本武尊は架空の人物であるというのが定説です。名前の「倭建」という部分は「大和朝廷の勇者」という普通名詞であります。つまり当時多くの将軍達が犠牲を強いられながら遠征を行った記憶が一人の勇者を生み出していったのだと思われます。
 
 神功皇后は日本武尊の息子である第十四代仲哀天皇の皇后です。仲哀天皇は「朝鮮半島を攻めよ」という神の意志を無視した為、神によって命を取られた何とも悲劇的な天皇です。
夫の死後、妊娠した神功皇后は神の命により朝鮮半島に渡り、地元勢力(新羅)を征服してゆきます。
 
 日本に戻った後九州で子供を産みます。これが応神天皇です。
 
 神功皇后は昔から「邪馬台国の卑弥呼の事だ」といわれることの多い人物です。しかし、時代が違うのと、魏志倭人伝の記事と神功皇后の征服行為が全く食い違っており、今ではこの2つは別な事であるというのがもっぱらです。
 
 同じ歴史的事実と照らそうとするなら、朝鮮半島に存在した国の歴史書「百済記」及び高句麗の広開土王建立である「広開土王碑」碑文の内容が神功皇后の記事とオーバーラップしてゆくと思われます。
 
 しかし、細かく検証してゆくと神功皇后の行動は架空の物語である事が浮かび上がってきます。
 4世紀の国際関係として、日本は任那(朝鮮半島南部の小国家群。昔は「日本が支配していた」とされてきたが、現在では直接統治が否定されている)に勢力を張ろうという行動を取っていました。
 
 新羅はまだ朝鮮半島では弱小国家であり、日本がライバル視したのは6世紀以降の事です。その新羅を征服しようというストーリーは、古事記・日本書紀が作られた国際関係を元に生まれた創作であり、おのずと神功皇后の存在も希薄化してゆくのです。
 
2000年作

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