「日本史を語る」

16.応神の子孫たち


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 今回は、古代に大いなる王朝をうち立てた応神天皇の子孫が、その後どのような運命を辿ったのか、説明します。


 応神天皇・仁徳天皇の時代、大和王権は当時としては最大規模に膨れ上がりました。古墳も大きく、また民も安寧の日々を送ったものと考えられます。
 しかしこの繁栄もそれ程長くは続きませんでした。それは、東アジアの動揺が彼らを放って置かなかったからかも知れません。

 応神天皇から数代を経た時、彼らの内と外では大きく環境が変化しました。
 元々大王(おおきみ)を代表とした豪族連合政権だった大和朝廷でしたが、次第に豪族間による勢力争いが激しくなって来ました。
 水も長く留まれば澱むように、彼らもまた政争に明け暮れ澱んでいったのです。  

 そんな中にも、強力な豪族が生まれました。「葛城氏」です。

 彼らは大王一族に次々と后を送り、姻戚関係を結ぶと強固な勢力を築いていったのです。
 しかし、このことが大王家どころか、葛城氏の勢力も削ぐ事になるとは当の本人達も知らなかったでしょう。

 葛城氏は、自分の都合の良い大王の子息を位に着かせようとします。しかし大王一族も、その誇りにかけて臣下の言うなりだけは避けたいと思った事でしょう。
 どんなやり取りがあったかは、日本書紀でほんの一部しか伝わっていません。

 かくして、大王一族と葛城氏を中心とした血みどろの抗争が始まりました。

 皇子同士が暗殺を繰り返し、即位してはまたうち負かした一族を捕らえて一族皆殺しをし、そして大王が死ねば恨みを持った王族が即位し、という無秩序な抗争が続きました。

 天皇の代でいえば、安康(あんこう)天皇から武烈(うれつ)天皇までの間です。


 さらに外に目をむけると、朝鮮半島で新しい勢力が勃興しつつありました。

 新羅(しらぎ・しんら)がそれです。

 最初、新羅は朝鮮半島西部の片隅に根付く小さな諸国連合でした。朝鮮半島といえば高句麗(こうくり)・百済(くだら・ひゃくさい)・任那(みまな)という3つの勢力が激しく争っていたものでした。

 その中でも任那は、日本が間接的に支配していたのではないか?と云われている朝鮮半島南部の諸王朝群です。

 当初は朝鮮南部及び百済に、大きな勢力を誇った任那でしたが、大和朝廷国内のお家騒動が続く中、次第に影響力が弱くなり、諸国の中には反旗を翻す者も現れました。

 しかし、時の大和朝廷首脳陣は有効な手段を出せず、そして動いても「時既に遅し」という状態が続いたのです。
 そして、やっと軍を半島に進めようとしたその時、吉備の国で内覧が勃発。結局なにも手だてをうつこと無く、時間だけが過ぎていったのです。


 このように、応神天皇の子孫たちはもがき苦しみ、そしてとうとう最後の時を迎えました。

 25代武烈天皇死後、後を継ぐ直系の子供がいなかったのです。

 そして、新しい皇統の始祖となる継体(けいたい)天皇を迎える事となったのです。
     
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