今回は、応神天皇の系譜を継ぐ継体天皇の話です。
継体(けいたい)天皇は、記紀によると応神天皇の5世の子孫という事となります。つまり、応神天皇の庶子の子孫という事です。 前回の話で、今まで大王を継いでいた応神−仁徳天皇の男子の子孫が絶えた事を述べました。 本当に一族みな絶えたのでしょうか? それは違うと思います。詳しい資料が手元に無いので、断定は出来ないですが、きちんと子孫は存在していたと思われます。 では、何故傍系の継体天皇が大王の位を継ぐ事が出来たのでしょうか? それは幾つかの要因があると考えられます。 @ 独特の相続方法の為 当時の天皇家の相続方法は独特でした。まず大王が亡くなると、子供達の中で一番有力な后(きさき)の長子が位を継ぎます。その後、その子が無くなると、弟が大王を継ぎます。そうして有力な后の子供達が全員亡くなると、一番有力な后の子の、そのまた有力な后の子が次世代を継ぐ形となっていました。 簡単に図解します。 (相続概念図 []内は相続順を示す) 后(有力な王族・豪族) ‖ ‖――――――――[2]皇子 ‖ ‖ [1]大 王 ‖―――[4]皇子 ‖‖ ‖ ‖‖――[3]皇子 后(有力な王族・豪族) ‖‖ ‖后(有力な王族・豪族) ‖ ‖―――皇子(相続権無し) ‖ 妃(身分の低い豪族等) 上記のような仕組みとなります。よって、各大王の子孫達はかなり残っていると思われます。それなのに何故継体天皇が後を継いだのでしょうか?それには、さらにもう一つの要因があると思われます。 A 大王一族同士の内紛 前回の項でも説明しましたが、大王一族は葛城氏や平群氏らの豪族達と一緒に権力闘争に明け暮れていました。当然追放だけに留まらず、暗殺や攻め滅ぼす事も何度かありました。この事によって、他の王位継承者が次々と消えていった為に、継体天皇におはちが回って来たと想像出来ます。 しかし、それでも身分が低くても王族は居たはずです。同じく庶子の子孫(高位の后の子孫かも知れませんが)でしかも、大和に地盤を持たない(越前)継体天皇が何故大王になれたのでしょうか? B 大伴氏・継体天皇による政権掌握 内紛が絶えない大和朝廷内では、ついに権力の空白が生まれたと推定できます。それまで政権を担ってきた大王一族・葛城氏・平群氏が内輪もめのさなかに、とうとう共倒れになった可能性が高いのです。 その状態に目を付けたのが大伴氏でした。大伴氏は応神朝の当初から軍事を担った家柄ですが、他の有力豪族が没落したチャンスを逃さず、一気にクーデターを起こしたのではないでしょうか?その為に越前にいた継体天皇を呼び、朝廷を我がモノにしようとしたのではないか?そう推測します。 さて、大王の位に就いた継体天皇ですが、その道のりは険しかったようです。最初継体天皇は507年2月4日に樟葉宮(くずはのみや)で即位します。樟葉宮は現在の大阪府枚方市楠葉の辺りと云われています。 ところで、当時大王達が宮殿を定める場所は何処だったのでしょうか?実は奈良県内明日香村周辺を宮殿にするのが通例なのです。 奈良・平安時代は1都(平城京・平安京)に何代もの天皇が鎮座していますが、当時は大王が代わる毎に新しい宮殿を建て、そこで政(まつりごと)を行う慣例がありました。 その慣例に従って、継体天皇も宮殿を定めたのですが、何と宮殿は飛鳥(明日香村)ではなく、難波(大阪)だったのです。この事から新たに大王として君臨したものの、旧来の勢力に抵抗され、仕方なく飛鳥周辺に宮殿を構え、様子をうかがった事実が浮かび上がってきます。 その後宮殿を替えながら継体天皇は施政を行ったのですが、ようやく磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)に宮殿を定める事が出来たのは526年、即位から20年程経った後の事でありました。 この事から、旧来勢力がかなり抵抗していたと思われます。(ちなみに大友皇子VS大海人皇子が争った壬申の乱はほんの数週間程度の対立) しかし、大きな長い抵抗に遭ったものの、ようやく飛鳥に入る事が出来たのです。多分抵抗勢力の有力者達が寿命を終えたのか、それとも命を短くさせられたのかも知れません。 そして、継体天皇の子孫が現代に至る皇統の始祖となりました。 |