「日本史を語る」

18.憂鬱の継体朝


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 今回は、晩年の継体天皇とその後のお話です。


 継体天皇の晩年は二つの大きな問題が発生していました。

 一つ目が、朝鮮半島政策のミスです。

 当時、辛うじて任那(みまな:現、韓国釜山周辺)に日本府を維持していたものの、高句麗(こうくり:現、北朝鮮地区)の南下政策により苦しい状況となっていました。任那より北に位置する百済(くだら:現、ソウル周辺)と新羅(しらぎ:現、慶州周辺)は直接高句麗の南下に遭い、国の存在に関わる重大な局面にありました。
 特に百済は深刻で、首都である漢城(今のソウル)を475年に失い、さらに熊津(今の公州)・サビ(今の扶餘)と拠点を転々と変えざるを得ない状況にありました。

 そこで512年。百済の高官が日本府を通じて、大伴金村に任那割譲の交渉をして来たのです。

 どんな交渉を行ったのか、詳しい話は伝わっていませんが、大伴金村はこの件を承知し、百済に任那の四県(どれも百済に隣接)を割譲したのです。

 大伴金村は、当時大和朝廷の大連(おおむらじ)として絶大なる権力を誇ってました。武烈天皇即位の為の軍事行動で頭角を現し、継体天皇擁立に際しては、反対派の意見を無視し押し通す程の実力者でした。

 しかし、この割譲劇は大きな問題となりました。同じ隣国の新羅が黙っていなかったのです。

 「百済が土地を貰えるなら、我が国(新羅)だって任那の土地を貰う権利がある。」とばかりに、つぎつぎと任那地域を併合して行きました。

 これに慌てた大和朝廷は、ようやく飛鳥に宮殿を移し、基盤が整ったとみて翌年(527年)、新羅征伐の軍事行動を起こそうとしました。しかし、筑紫に地盤を持つ大豪族磐井氏の反乱に遭い、その翌年ようやく反乱を鎮圧するものの、時既に遅く、任那退潮を止める事が出来ないでいました。


 もう一つが、王位継承争いです。

 前項でも述べましたが、継体天皇は大伴氏の力を借りて大王になりました。力でねじ伏せた結果、ずっと抵抗勢力がくすぶっていた事と推測されます。
 その為かどうか定かではありませんが、継体天皇は武烈天皇の妹を后として迎えました。

   (継体天皇略系図)

      后(武烈天皇妹)
      ‖
      ‖――――――――[29]欽明天皇
      ‖         ‖
    [26]継体天皇      妃(蘇我氏娘)
      ‖
      ‖┬―[27]安閑天皇
      ‖│
      ‖│
      ‖│
      ‖└―[28]宣化天皇
      ‖
      妃(尾張氏娘)


 この婚姻は明らかに、守旧勢力との妥協を図る為の政略結婚だと思われます。この事によって応神−仁徳朝の子孫は母系によって繋がる事となり、継体天皇はやっと大和の地に宮殿を移す事が出来ました。

 もし、もう10年ほど早くこの婚姻があったなら、継体天皇からすぐに欽明天皇へと政権委譲された事でしょう。(前項の王位継承の仕組み参照)
 しかし、欽明天皇がまだ成人しない、もしくは成人間もない頃に、継体天皇は亡くなりました。(531年)

 この後、王位継承を巡って混乱が起きました。当時、大王を継ぐものは立派に成人した王族でなければならなかったのです。普通なら、中小豪族の娘の子供は継承権無しだったでしょう。しかし、大王を継ぐ者(欽明)はまだ若かったのです。

 ここで、紛糾しました。一方で今までの継承方法に従い欽明天皇を推せば、一方はまだ若い皇子より年長でもある皇子(安閑・宣化)に任せた方が良いと推す有様だったと思われます。

 結局、安閑天皇が即位するまでに二年間かかり、天皇家まれにみる空位時代が出現したのでした。

 やっと大王になった安閑・宣化天皇ですが、結局年を長じていた事が災いし、両天皇で六年という短命な治世となりました。

 そして若き欽明天皇の時代となって行きます。


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