託された鐘の詩 後編
そうしてこの1年は過ぎた。
いっそ他人だったらどんなによかったろう。諦めてしまえば、もう二度と出会うことはない。でも従兄妹だから、どこかでいつも重なっている。どこでどうしているかわかってしまう。だから振り切れなかった。
そして、決めた。
次に会う時が、私の中でさよならを告げる日だと。
笑顔で出迎えて、送り出して、そしてこの恋は終わるんだと。
その決意を挫くほどに、彼の言葉は衝撃だった。
「今、札幌に付き合っている人がいるんです」
あの日のことは忘れるはずもない。
大通公園。狸小路。川原鮎。そしてゲームセンター。
左京葉野香。
いきなり怒鳴りつけられて、その相手に、彼が想いを寄せてしまっていたなんて・・・・・
その瞬間に立ち会っていながら、全く気付かなかった。
睨み付けてくる片目と無機質な眼帯。
言いたいことを言って出ていった彼女。
なかったことにしたい記憶でしかなかった。
どうして、彼はそう思わなかったんだろう。
私の知らないところで、彼は彼女を好きになって、彼女は彼を好きになっていた。
ケンカをした間でも、遠く離れていても、受験勉強で忙しくても、気持ちを結んでいた。
それがあまりにも、悔しかった。
想いの届かない言い訳をするばかりで何もしようとしなかった自分の弱さが、嫌いになった。彼が人を寄せ付けたくないように見えたから、いたわるつもりで強引なことはしなかった。けれどそれは勇気がなかっただけ。
左京葉野香がしたことは、雄吾が傷ついた過去を知らなかったからこそできた蛮勇とも言える。感情的な難詰をぶつけた彼女はそのことを悔いているが、あの不躾な激しさが与えた衝撃こそが、彼の精神を無彩色な虚空から弾き出した力になった。全てを知り、理解した春野琴梨に真似が出来ることではない。立場が逆であっても同じ事だろう。
しかし、従容と現実を微笑んで受け入れることは、できないことだった。
春野琴梨の部屋の壁時計は、音もなく日付を一つ進めていた。
学校のこと、洋服のこと、音楽のこと、家族のこと、部活のこと。彼女と左京葉野香は一つのベッドをソファー替わりにして、尽きない話題をキャッチボールしていた。
やがて、琴梨が立ち上がって椅子に腰掛ける。
そして尋ねた。
「いつから、雄吾さんのことが好きになったんですか?」
葉野香は気付いていなかったが、二人がこの部屋に入って、雄吾のことが持ち出されたのは初めてだった。
古くて大切な日記帳のページを思い浮かべる彼女。
「わからない・・・・・。いつの間にか、好きになってた。私を庇ってくれた時も、家のことを手助けしてくれた時も、今みたいな気持ちじゃなかった」
最初は、感謝の気持ちだけだと思っていた。身代わりに殴られたこと。新しい食材探しに付き合ってくれたこと。そんなことをしてもらえる理由なんてないことを考えもせず、差し出された善意を受け取って、人のいい奴なんだなと思っていた。
誰も頼れる人がいなかったから、誰にも頼らずにいた。どんなことでも独りで立ち向かうしかなかった。世界には自分と他人しかいなくて、その間にあるのは損得と上辺を取り繕う暗黙のルールだけ。
だから眼帯をして、自分を守ろうとした。
いつまでもずっと、そうしていくはずだった。
二条市場で彼を見失った。
群衆と喧噪に囲まれているのに、大洋に投げ出されたみたいだった。
探して、探して、やっと背中を見つけた。
安心したのは、頼っていたから。
「でも、いつ気が付いたかは憶えてる。明日東京に帰るって言われて、辛くなった。また会えるって言われて嬉しかった。もうあの時、雄吾のことが好きになってたんだ」
「たった2,3日のことだったのに?」
「時間の長さなんて、意味なかった。一緒にいられるか、いられなくなるかってことしかなかったんだ。もう独りではいたくないって思ったから、待つことができたんだと思う」
「そっか。信じて、待ってたんだ」
天井を見上げながら、小さく呟く琴梨。
「うん・・・・・」
湿った砂のような沈黙が降り注ぐ。
不意に葉野香は、硬い針金が部屋中を貫いたような圧迫を感じた。
琴梨が言った。
「私、あなたの知らない雄吾さんを知ってるよ」
交錯する視線は、冷やかだった。
「だって、彼は私で、男になったんだから」
混沌とした闇の中で、昏い炎が揺れている。
「知らなかったでしょ。言えるわけないもんね。これは私と彼だけの秘密だったの。去年の夏。彼が辛くて寂しくてどうしようもなかった夜に、ここで、この部屋で私を抱いたの」
「彼の心の傷を癒したのは、自分だと思ってたんだよね」
口元が歪み、笑ったように動く。
「でも違う。私を抱いて彼は自分に自信を持つようになったの」
ただ唇を小刻みに上下させる葉野香を一顧だにせず続ける。
「私も初めてだった。痛くて、でも嬉しくて泣いてたら、ありがとうって言ってくれた。そして、好きだよって言ってくれた」
「いつの間にか、裏切られていたんだけどね」
ふっと息を吐く。
「去年の冬、来てくれた時、私に会いに来たんだと思ってた。なのに朝から誘いもしないで出て行っちゃって。でも夜にはまた愛してくれた。だから信じてたのに。ずっと待ってたのに」
組んだ両手が、別の意志を持つかのように握られ、震える。
「待っていたら、あなたを連れてきた」
琴梨は、左京葉野香を見据えた。
「見せつけるように。これでもう諦めろって伝えるために」
「それが、鷹条雄吾なんだよ。あなたが好きな、雄吾さん」
軽蔑すら漂わせて、彼女はくすくすと笑った。
「どう? 気分は」
判断と願望が渦となり、葉野香を巻き上げる。
真実?
嘘?
どうして嘘を?
どうして真実を?
できた?
できない?
雄吾が?
雄吾が?
雄吾は・・・・・
「そんなの・・・・」
弱々しく出された言葉は、毅然と続けられた。
「そんなの、信じないよ」
ずっと視線を逸らさない琴梨に、もうたじろぐことはなかった。
「雄吾はそんなことしない。雄吾はあなたのことを大切に思ってた。あなたのお陰で心を取り戻すことができたって言ってた。でもそれは、関係したってことじゃない。絶対に違う。そんな嘘をつくはずがないんだ」
「じゃあ、これから行って聞いてみようか? まだ起きてるよ。きっと」
平然と、そう言ってのける琴梨。
「えっ・・・・?」
「二人で行って、はっきりさせようよ。私は二人に見せるものもあるし、言いたいこともあるから」
勝ち誇るような余裕。
最初からそれを望んでいたような微笑。
本気としか、葉野香には思えなかった。
だが。
「わかった」
葉野香は立ち上がり、言った。
「行こう」
声は震えていた。しかし、揺るがしてはいけないものがあることを、もう彼女は知っていた。
ついと、視線を外す琴梨。
聞き取れないほどの囁き声。
「やっぱり、だめなんだね・・・・・」
後ろを向いて、髪をかき上げるふりをして目元を拭う。泣く資格なんてないんだから。
「座って。葉野香さん」
10秒ほども過ぎてから、スプリングを軋ませて葉野香は元の場所に座る。
「ごめんなさい。ひどいこと言って」
彼女は疲れ切っていた。でも、全てを尽くして謝らなくてはならなかった。
「全部、嘘。なにもかも嘘。見せるものなんてなにもないの」
力無く首を振る。
「雄吾さんは私を抱いたことなんかない。夏に来たときも、冬に来たときも。好きって言ったのもでまかせ。ただ、私に優しかっただけなんだ」
呆然とする葉野香は、ただ浮かんだ言葉を口にした。
「どうして・・・」
「わからないはずないでしょう? 葉野香さんなら。私があなたに負けないくらい、雄吾さんのことを好きだから」
ああ、そうだったのか。
なんてことなの。
苦衷を隠しきれずに途切れそうな言葉を紡いで、琴梨は詫びた。
「ごめんなさいって言って済むことじゃないけれど、ごめんなさい。残酷なことばかり言って、あなたを傷つけて」
激しい自己嫌悪が身を苛む。覚悟してやったことであるからこそ、罪は重い。
「葉野香さんには雄吾さんの次くらいに嫌われたくなかったんだけど、でも試さずにいられなかった。もし雄吾さんに会いに行かないって言ったら、まだチャンスはあるって思えるはずだったから」
あんなひどいことは言えたのに、本当に大切なことを言えなかった。
「一度だけ、踏み出そうとしたことがあるんです。去年の夏、泊まってた時に、二人きりの夜があって。私のことどう思っているのかわからなかったけれど、あと何日かで帰っちゃうと思ったら焦っちゃって、お風呂上がりにバスタオル一枚巻いただけで部屋に行って」
ひときわ大きく、葉野香の鼓動が乱れた。
「卑怯な方法だけど、自分を投げ出せば受け止めてくれると思った」
外見や普段の振る舞いからは感じ取ることのできない激情。
自分らしさを捨ててでも、叶えたかった願い。
その浮沈したマイルストーンを葉野香は見ていた。
「だけど、ドアが開く寸前で、逃げたの」
自嘲するように笑おうとした表情が、変わりきれずに打ち悄れてゆく。
「後悔、してたんです。恥ずかしいとか断られるのが恐いとかの言い訳に逃げてしまったことを。でもあなたのことを聞いてからは違う意味。あなたのような勇気さえあればっていう後悔。私だってよかったはず。私だって雄吾さんのこと・・・・・大好きだったんだから。せめて東京の、近くにいた人が相手なら、諦めた。だけど、同じくらい遠くにいる人ってわかったら、止まらなかった」
そして今は、想いを分かち合うことができたかもしれない人を傷つけてしまったことを悔いている。
「ほんとうに、ごめんなさい」
葉野香は、いいとも良くないとも、許すとも許さないとも口にしなかった。
そんなことを言いたいと思わなかった。
聞きたいことが、一つだけ。
「気持ちを、伝えないの?」
ためらいがあった。
そして琴梨は左京葉野香の瞳を見つめて、答えを出した。
「うん。言わない。その方がきっと、好きなままでいられるから」
きっと、その想いにはいくつもの姿があるのだろう。
好きになった人。
好きだと言えなかった人。
好きだった人。
好きでいたい人。
二人はやがて眠りにつき、想いを巡らしながら思い出せない夢を見た。
きっと、いつかは。
明け方に止んだ雪は、眩しい光に姿を変えて朝の街を輝かせる。
寝息を立てている琴梨を起こさないように身支度を整えた葉野香は、そっと書斎のドアをノックする。
「おはよう」
熟睡したらしい雄吾が寝間着替わりのスウェット姿のまま顔を出す。
「おはよう。って、もう出るのか?」
「うん。ちょっとあってね」
「少し待っててくれよ。準備するから」着替えを探そうとする雄吾。
その背中に、声を掛ける。
「雄吾、今日は送らなくていい」
「え? 何でさ」
怪訝な表情が浮かぶ。
「明日東京に戻ったら、もう暫く札幌には来ないんだろう?」
「そうだな。別に用がなければ」
「だったらさ、今日一日くらいここにいなよ。いろいろお世話になってたんだし、琴梨ちゃんとだってなかなか会えなくなるんだから、一緒にいてあげるといい」
「うーん、それでもいいけど」
「そうしな」
「ああ」
「それと忘れ物」
両手を伸ばして彼の頭を引き寄せる。
ゆっくりとした、静かなキス。
やがて唇とともに体が離れ、腕が解かれてゆく。
そのまま、葉野香は雄吾の首を絞めた。
「鈍感なんだからっ!」
「は・・・・や・・・・・・・・・・しぬ・・・・・・・・・・」
わけもわからず、身悶えする雄吾。
「もうっ!」
首に赤い手形が付いたくらいのところで、手を放す。
「いっきなりなにすんだよもうっ!」
「大好きだからっ」
「えっ・・・・・?」
「じゃ、また明日っ」
昨日より少しだけ暖かい風に吹かれて、 ローズヒルを振り仰いで思う。
雨は陽光と手を取り合い虹となれるけれど、北風に囚われると雪になってしまう。
積もった雪が緩むまでは、もう少しかかるのだろう。
だけどいつか、彼と私が出会ったような、暑い夏が必ず訪れるよ。
白い街に、想いを託された鐘が響いていた。
<了>

