託された鐘の詩 前編



 ドアが夏の情熱を招き入れた日。

 空港のロビーで、春野琴梨は従兄の姿を探した。
 子供の頃の面影が残っていてほしいと願いながら。

 わからないくらいに変わっていたらどうしよう。
 やっぱり名前を書いた紙を持ってくればよかったかな。

 エアポートはいくつもの再会を生みながら、空からの旅人を次々と消し去ってゆくステージ。

 流れからすっと外れて立ち止まり、左右を見回す男の子がいた。
 理屈では説明できない感覚で、琴梨は彼が誰なのかを知った。

 どうしてあんな呼び方ができたのかわからない。鷹城さんでも雄吾さんでもよかったのに、唇は「お兄ちゃん」と動いていた。長い空白を経て再会した従兄の容貌には驚きと戸惑いで織られた表情があって、錯覚かと思う僅かな瞬間に別人のような無表情がよぎり、照れくさそうな微笑みに切り替わった。

 しどろもどろになりながら「お兄ちゃん」の言い訳をしかけると、少しも力みのない声で「いいよ」と認めてくれた従兄。
 温かいその鷹揚な優しさは、春の息吹のように琴梨の胸に満ちて、いつまでも去らなかった。

 ざわめくプラットホーム。
 寄り添ったサブウェイ。
 導いてくるホームタウン。
 そしていつもより大きく広げたリビングの窓。
 好きになっていい人なのか。その答えを考えるよりも早く、想いは曖昧でありえなくなっていた。

 親戚の人だから。遠くにいる人だから。私なんかじゃ相手にしてもらえないから。
 どれだけ理由を積み重ねても諦められなかった。
 何度も作ったメニューでも、母と自分のために作るより従兄のために作った日の方がうまくできた。
 札幌の街を案内していても、まるでどこかの知らない通りを歩いているように落ち着かなかった。

 彼はずっと穏やかで、けれど反発する磁石のように距離を保っていた。理由は母から聞いていた。だからこそその距離を大切にしようと思っていた。それは引っ込み思案な自分への言い訳だったかもしれないけれど、彼を閉じこめる陰鬱な過去を解き放つ術がわからなかったから、そっとしておこうと決めたのだ。

 そこに姿を見せたのが川原鮎だった。学校のクラスメートと話すのとはまるで違う積極さで彼に話しかける姿に、心のどこかで疎ましさを感じていた。
 ゲームセンター?
 カラオケ?
 そんな気分じゃないこと、気付いてあげられないの?

 事情を知る由もない親友に分かるはずのないことなのに。大好きな親友なのに。それでもそんな考えを抱いてしまったのは、きっと恐かったからだろう。鮎が従兄に興味をもってしまうことが。それ以上に、従兄が鮎に興味を持ってしまうことが。
 でも理性では、彼の苛まれた気持ちを慰めるには一緒に楽しむことが必要だとわかっていた。だからゲームセンターでは3人ではしゃいだ。こういうことを重ねれば、きっと元気になってくれると。

 そして・・・・・

 運命の振りかざしたタクトは、あまりにも意地悪だった。

 
 小樽で過ごした一日はまるでデートのようで、水族館の中で手を引いてもらったときには、その温もりで鼓動がどんどん高鳴って、肌を通して伝わってしまいそうで恥ずかしかった。作り笑いの中に、時折混じる自然な微笑みを見つけられるだけで嬉しかった。帰ってからは、プレゼントしてくれたガラスの林檎を丁寧に丁寧に磨いた。どこに置くかを決めるのに30分以上かかって、透き通った曲面を見つめては熱い溜息をついた。

 最初は楽しみにしていたクラブの合宿なんて、もう休んでしまいたくなっていた。もっと一緒に行きたいところはたくさんあって、2週間じゃとても足りないと思っていた。
 この街に来たことをいつまでも憶えていてもらえるように。
 想い出の中に私の居場所があるように。
 
 合宿先での夜。
 鮎から散歩に連れ出されて、カラオケに行ったときにデートに誘っていたことを打ち明けられた。
「でもあっさり断られちゃったよ。けっこうあたしタイプだったんだけどな。それでね、その時、『琴梨のことどう思ってる?』ってのも聞いたんだ。あたしと琴梨、比べるとどうなのかなって知りたかったし。そしたら、『とてもいい子だと思うよ』だって。それ以上は答えてくれなかったけど、あたしなんかより琴梨の方が好きみたいだね。だって、あたしをフって琴梨と小樽に行っちゃったんだもん」

 淡い期待を胸に帰ってきた札幌では、しかし、何かが食い違っていた。

 瞼を痛々しく腫らしていた従兄に驚いて、「どうしちゃったの?」と尋ねても、はぐらかされてしまう。母も、「外で何かあったみたいだけど、妙に本人は気にしてないようなんだよ」と首をひねるばかり。
 喧嘩をしてきたにしては他に傷もなく、外出を避けるようになるどころか、毎日どこかへ日が暮れるまで出かけている。悪い遊びでも、と勘ぐるには、普段の会話に陰がなさすぎた。「今日は何していたんだい?」と聞かれると、「あちこち歩いてただけですよ。こういうのもいいですね」とはにかんで笑う。
 なにより、雄吾の表情から険しさが少しずつなくなっていた。2月の太陽に照らされた氷柱のように。
 
 その変化は喜んでいいはずだった。快活さを取り戻してもらうための旅行であり滞在だったのだから。なのに琴梨は、自分の手が携わっていないところで動いてゆく変化に戸惑い、畏怖した。最初はすぐ隣にいてくれた従兄が、急に背中しか見えなくなってしまったよう。彼は何かを見つめているけれど、琴梨は背中を向けられていて視線の先を覗くことができない。きっとそれは東京にはなかったもので、札幌にしかなくて、でも琴梨にはわからないもの。

 合宿から帰ったら。そう心に思い描いていた計画がいくつもあった。
 琴平川の花火大会。
 母と3人でのドライブ旅行。
 波打際。
 
 ただ買い物に出るだけでもよかった。ありふれた品物を買う時にそばにいてほしかった。紅茶の葉を選ぶときになにか言い添えてくれたなら、夏が終わっても、琥珀色の波紋から手を伸ばして前髪をくすぐる温もりがあるだけで、二人だけの瞬間を思い出せるから。

 でもその願いは叶わなかった。彼はいつも一人で出かけてしまって、日が暮れるまで姿を見せてくれない。勇気を出して誘っても、用事があるからと残念そうに、でも決然として断られる。どんな用事なのか教えてくれることもなく、彼は感謝の気持ちを告げて東京へ帰っていった。もっと強く踏み込むことができればという後悔だけが残って、短い夏は幕を閉じた。

 彼の去ったマンションは震えるほどに空虚になっていた。
 一人分の夕食を作り、盛りつけて、いつもの席に座る。得意なメニューだったのに美味しそうには見えなくて、箸を付ける気分が出てこない。テレビを付けて、でもうるさくて音だけを消して、胸と喉を締め付けるような苦しさから逃れようと席を外す。
 そんなことをしてもしょうがない。
 そこには誰もいないんだから。
 わかっていても、手は書斎のドアを開けていた。

 電灯のスイッチを入れる。
 何も残ってはいない。
 彼は忘れ物一つすることなく帰っていった。
 あるのは父の遺品だけ。
 なのに、真っ暗な部屋で座り込んでいて浮かんでくるのは従兄の面影ばかり。

 どうしても届かない想いなんだろうか。
 過去の痛みから逃れることができたなら、私を見てくれるのだろうか。
 血がつながっているから、恋愛の対象として意識していないだけなのだろうか。
 彼と自分を結ぶ糸は、どんな色をしているのだろうか。 

 わからない。

 素っ気なくされたり冷たくされれば諦めることができたかもしれない。でも彼はいつでも優しくて、誰かの気持ちを必要としているように痛々しかった。

 気持ちが知りたい。

 自分から電話する勇気がなかったから、わざと食卓で母に彼の話題を振り、様子を聞いてもらった。

 だいぶ元気になったようだよ。
 アルバイトを始めたんだってさ。
 新しい友達もできたみたい。

 少しずつ、でも着実に彼が取り戻しかけている日常を伝え聞くと、自分が彼のために何かをできたような気がして嬉しくもあり、何もできなかったようで苦しくもあった。
もっと近くでその変化を感じたいけれど、次にいつ会えるかなんてわからなかった。大通公園で「冬にもう一度おいでよ」と話したことを、まだ忘れずにいてくれるだろうか。頷いたことを憶えていてくれるだろうか。東京へ戻る日、空港で母と見送りながら「またいつでも来てね。待ってるから」と、ともすれば潤んでしまいそうな瞳を伏せて口にした言葉を、本気だと感じてくれただろうか。

 彼の修学旅行が札幌だと知ったときは、心臓を硬いもので突かれたように息を呑んだ。もしかしたら会えるかもしれない。5分でも10分でもいい。自分に向けられた視線を感じるだけでも。理屈では無理だと分かっていても、期待は制御を振り切ってふくらんでいった。けれど、彼からは電話一本かかることなく時が流れ去った。

 校舎の窓。
 冴え渡った秋空。
 近くて遠い彼。
 想いを届けるには薄すぎる青だった。


 部活が休みになった夕暮れ。琴梨は鮎に誘われるまま繁華街を歩いていた。今年のマフラーを選ぶんだと張り切る彼女の横顔が、緑と赤で彩られたショーウィンドーに映えていた。

 憶えている最初のクリスマスは幼稚園の時。
 
 母と二人だけで迎えた初めの年は、我慢できずに泣き出してしまった。
 今年は泣いたりしないけれど、今までで一番寂しいクリスマスになってしまいそうだった。

 そんな冬の入り口で、声を掛けられた。
「あのさ、ちょっといい?」
 聞き覚えのない声だった。何の気なしに振り向くまでは。
 琴梨の背中を冷たい戦慄が走った。彼と一緒にいた2週間で、最も思い出したくない記憶のページがめくられていた。

 うるさい。むかつくんだよ。有名な不良。

 あのように明確な悪意を向けられたのは初めてだった。暴力を振るわれたりするのかと恐ろしかった。いつもの自分なら、すぐに謝って、あとは頼れる人の陰に隠れようとしただろう。
 そのつもりで見上げた従兄の表情は青ざめ、酸欠を連想させていた。
 すぐに彼女は悟った。癒えかけてもいない傷口に、今また冷酷な刃が食い込んでいることを。それでも懸命に勇気を引き出して、自分たちを庇おうとしていることを。
 喧嘩はよくないよ。
 鈍く抑揚する彼の言葉。一喝されると砂のように散らばってしまった。彼がどんな気持ちで口にした言葉なのかを思うと、胸が痛んでならない。気丈に反撃する鮎の声も事態を沈静させるどころか感情的にこじらせてゆく。
 何かしないと。
 何か言わないと。
 このままじゃ、お兄ちゃんが・・・・・
 焦るあまりに口を衝いて出たのは、「一緒に遊びませんか」という、自分でも正気を疑うような台詞だった。結果的にはそれで収まってくれたのだけれど。すたすたと立ち去ってゆく彼女の背中をじっと、陰った表情のまま見つめる従兄の心は濃霧がかかったようで見通せなかった。
 気分を一新するようにカラオケへ促した鮎が、さっと彼の腕を取った。それでやっと意識を手元に引き戻した従兄が、僅かな時間、琴梨にだけ向けて微笑んだ。「ありがとう」の替わりに。

 琴梨にとってこのエピソードは、不快なものであっても尾を引くものではなかった。須貝ビルに遊びに行くときだけ周囲に目を配るようにした程度のことで、声を掛けられるまではすっかり忘れていた。従兄のことを思うときも、この一件をわざわざ持ち出す気分にはならなかった。

 だから、3ヶ月ぶりに彼女と向き合って、最初に浮かんだのは、カツアゲでもされるのだろうかという恐怖だけだった。どこか人気のない路地にでも連れ出されて、お金を出せと言われるのかと。 「またなんか文句つけようっての」と強く機先を制した鮎も、同じ事を考えたのだろう。

 瞬間、彼女、左京葉野香は怯んだように見えた。
 二人の視線を避け、口の中で唇を噛むように端正な顔立ちが歪む。

 金属的な苦さと重さを神経に感じる、居心地の悪いいくつかの間をおいて、長く癖のない髪がばさりと上下に舞った。
 
 謝られたことを事実として理解して、琴梨はふと気が付いた。 
 そういえば、眼帯してなかったな、あの人・・・・・

 一方的に難癖をつけられ、また一方的に謝られたわけだが、それでも琴梨は清々しい気分を味わうことができた。次に「お兄ちゃん」に会うときに、必ずこのことを教えようと決めた。
 そして機会はすぐにやって来た。

 「冬にもう一度おいでよ」
 蝉時雨で賑わう大通公園でそう誘った。
 ホワイトイルミネーションが照らす美しい雪の街を見てほしい気持ちで装った、再会への願い。それは口実にすぎなくて、会えるならばどこでもよかった。けれど、「そうだね」という頷きをただの機械的な愛想以上のものとは受け取れずにいた。これから札幌を見て歩こうという時に、再訪を期待するのはあまりに急いていたと、彼女自身が後悔したのだ。

 書斎から何年も前の時刻表を抜き取って、ベッドの上でページを繰る。
 札幌。青森。仙台。東京。視線は南へ向かう。
 お金があれば、東京に遊びに行けるのにな。
 アルバイト・・・・・しようかな。
 でも、そしたら家のことできなくなっちゃうし。
 遠いな。東京って。

 そんな失望が吹き飛んでゆく、彼の再訪の知らせ。母から聞いたとき、体中の筋肉が泡立てられたようだった。自然に喜んでいるふりをしたかったけれど、感激は彼女の胸だけに納まるサイズではなかった。手帳の12月のスケジュール欄に特別気に入っていたシールを貼る指は震え、2回やり直した。夕飯のスープは味見をしたのに薄すぎた。したつもりでも、味のことなど考えてはいなかったから。翌朝になって温め直したときにやっと気付いて、母が何も言わずに食べてくれたことの意味もわかって恥ずかしかった。

 そして去年の12月28日。
 彼女は部屋の中で数分ごとに居場所を変えながら、彼の到着を待った。
 当然新千歳空港まで迎えに行くつもりでいたのだが、「もう迷わないで行けるから大丈夫だよ。空港までは遠いしお金も掛かるから、そこまでしてくれなくても平気」と電話で言われてしまうと、「それでも行く。行きたいから」と言えない自分の性格が情けなかった。夕食の席で「やっぱり迎えに行った方がいいかなぁ」と呟くのを耳にした母が、ちょっと考えてから、「ま、こっちで支度してなさいな」と言った理由に考えを巡らせる気分にもならなくて。

 今思えば、母は彼女の存在に漠然とながらも気付いていたのだろう。鷹条雄吾を出迎える別の誰かがいることを。
 いつも冗談ばかりの陽子でも、娘が心に秘めているー見た目に明らかなのだがー想いに杭を打つような言葉を出せはしない。ただ見守り、幸せが成就する事を願うのが精一杯の愛情だった。

 もう一度、私のいる街を案内したい。そして、あの夏より大きくなった気持ちを今度は言葉にしたい。琴梨はそうできる瞬間がほしかった。澄み切った夜空。優しく照らす街灯。そんなところで二人きりになりたかった。初めての告白のために。

 そろそろティータイム。
 最近憶えたレモンミルクティーの支度をそわそわとしながら思った頃に鳴ったインターホン。
 レモンを洗っていて、手を拭う間に母に先を越されてしまった彼女だったけれど、それでいいような気もした。こみ上げる想いが喉を押し潰すようだったから。
 「お兄ちゃん。久しぶり」
 フライトジャケットの肩に雪片を乗せて、モスグリーンのマフラーを巻いた従兄。上気したように染まった頬。瞳が自分に向けられると、夏の空港のように、ためらいなくそう呼びかけることができた。返ってきた微笑みもあの時と同じだった。
 乾燥しがちだった空気が、急に穏やかに感じた。夏の匂いがした。
「あんたが帰ってから、琴梨、ちょっと寂しそうだったんだよ」
 本当のことを母に言われると、恥ずかしくてもう顔が見られなくなってしまう。

 何度も試作と試飲をしたレモンミルクティーを珍しそうに、そして嬉しそうに飲んでくれる。自分の心のどこか一部分も味わってくれているようで、母と彼との会話に耳を傾けているだけで胸が高鳴ってゆく。
 琴梨が混ざる必要がないくらい、彼はよく話した。4ヶ月前が無口だったわけではない。ただそれは「応じて」言葉を出していただけのよう。抑制されて添削されたような返事しかなくて。
 それが今は自分から話題を持ち出して、冗談で締め括ってくれる。大通公園でも小樽運河工藝館でも見せてくれなかった、本当の姿。新鮮で朗らかで、いつまでも聞いていたかった。

 ふと会話が途切れる。
 琴梨は今思いついたような素振りで、「明日はどうするの? どこか行きたい場所とか決めてあるの?」と訊ねた。8月に案内できなかったところがたくさんある。雪が全てを変えてしまっている場所もある。素敵なところに連れて行きたくて、連れて行ってほしい。

 「あ、うん。もうだいたい決めてあるよ。多分、9時過ぎくらいに出かけると思う。かまわないかな?」

 胸の真下が、木の棒で突かれたように痛んだ。彼に予定があったことよりも、自分と出かけることを考えてもいなかったような表情のせいで。
 「そうなんだ。じゃあ、心配ないね。楽しんできてね」
 反射的に答える自分が、間に合わせで綻びを留めただけのぬいぐるみみたいだった。
 
 やがて母は職場に戻ってゆき、琴梨は後片づけを始めることにした。不意に二人きりになってしまったことを意識してしまい、向き合って座っていられなくなってしまったから。

 陶器の触れ合う音ばかりがリビングを闊歩する。
 洗い物をシンクから出す度に、ちらりと横目で様子を伺ってみると、従兄はどこを見ているでもなく、肘をついた片手で顎のあたりを撫でていた。夏もそんな姿勢をしていたことを憶えている。考えたりするときの癖みたいで、そう気付いたことが少し嬉しかった。
 でも、退屈なのかもしれない。
 何か、話題を探そう。スコッチ&ブライトのスポンジに天然洗剤を振りながら心のポケットを探る。自分と彼に共通した何か。
 何か。
 思いつかない。
 誰か。
 そう、親戚の誰かに、何かなかったかな。
 ・・・・・ええっと、特に聞いてなかった。
 誰か別の・・・・・あっ、そうだ。
「お兄ちゃん。夏に来た時に、カラオケ行ったの憶えてる?」
「あ、ああ。憶えてるよ」
 ぎこちない返事は、急に声を掛けられたからのように思えた。
「あの時に、ケンカになった人いたじゃない」
「ああ、いたね」
「あの人にさ、この間、謝られたんだ」
 僅かな沈黙は、シンクで跳ねる水道の音で埋められていた。
「・・・・・謝られた?」
「そう。鮎ちゃんと買い物してたら、外で声かけられて、『あの時はすまなかった。反省もしてる。ごめん』だって」
「そう、か・・・・・」
「びっくりしたよ。でもさ、あんな前のことをちゃんと謝ってくれるなんて、本当は心のまっすぐな人なのかもしれないね」

 1年の歳月を経て、琴梨はこの会話を思い出すことになった。久しぶりに札幌にやってきた従兄が、会ってもらいたい人がいるんですと切り出してから。
 去年の冬を最後に、従兄からの連絡はほとんどなくなった。受験勉強中だから、という言い訳を持ち出さなくても、彼が自分に興味がないことはもう分かっていた。
 理由は幾つでも思いついた。従妹だから。可愛くないから。遠くに住んでいるから。東京に好きな人がいるからとも考えた。だから失恋なんて珍しいことじゃない。実らなかった想いは想い出にすればいい。

 いつか別の誰かを好きになるまでに。






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