白のシルエット 後編



「それでさ。今日はこれからどうする? 雪祭りは見るんだろ」
「もちろん見るよ。この時期に来たことってないからな。全部見るとどれくらい?」
「暗くなるぐらいの時間帯かな。ライトアップされるから綺麗だよ」
「じゃ、ロマンチックな雰囲気に浸ろうか」
 席を立ち、マフラーを巻く雄吾。
 一年前と変わらない温もり。
 そんな当たり前のことが嬉しくて、誰にも分からないように口元を緩ませた。

 ありふれたカップルとして雑踏に溶け込んだ彼と彼女。
 再会直後のようなぎごちなさもなくなって、寄り添い歩く。
 世界には足りないものがたくさんあるけれど、彼らに欠けているものはなくなっていたから。
 そして二人の時計は7時を指し、ショータイムに一区切り。
「夕食なんだけどさ」
 雪祭りの会場から離れてゆく流れに乗って歩きながら、雄吾がゆっくりと切り出した。
「うん」
「行きたいとこがあるんだ。っていうか、連れて行きたいところがあるんだ」
「いいよ。どこでもつきあうよ。特に食べたいものとかあるわけじゃないしさ」
「いや、そういう意味じゃないんだ」
 寒さにも痛みを感じることが少なくなってきた左手で、顎を撫でる雄吾。
「今、俺が泊まっている親戚の家、あるだろ。そこで食事をしていかないか」
「え・・・・・」
「大げさな意味はないけど、紹介したいんだ」
 葉野香の足が止まった。
 人波を避けようと、端に寄る。
「ちょ、ちょっと待ってよ。いきなりそんなこと言われてもさ。ほら、格好とかも普段着だし、いきなりお邪魔したら失礼だし」
「服とかは問題にならないよ。それに、いきなりってわけでもない。葉野香がOKしてくれたら連れて来るって言ってあるんだ」
「わ、私・・・・・駄目だよ。会えないよ。こんながさつで、ひねくれた私なんか紹介したら、雄吾が恥かいちゃう」
「そんなわけ、あるわけないだろ」大きくゆっくりと首が振られた。「なぁ。そんなに心配しないでいいんだよ。交際を認めてもらうとかって話じゃない。すごくいい人たちだから、葉野香を紹介したい。葉野香だから、二人に知っていてほしいって思うんだ」
「でも、でもさ・・・・・どんな顔して会えばいいのか・・・・・わかんないよ・・・・・」
 力無く降ろしている腕。右手と左手の居場所に困るかのように、握ったり掴んだりしてためらう。
「あのこと、気にしてるのか」
「・・・・・」顔を上げられない。
「最初に会った時、喧嘩したこと」
「・・・・うん」

 そうなんだと思う。
 夏のドアが開いた午後。ざらついた感情を苛立ちに任せて投げつけてしまった。自分が最低の
ところにいた瞬間だったと思っている。あの時ああしたことで雄吾と出会えて、自分を見つめ直す
ことができたけれど、彼の親戚の子を傷つけた事実は消えないし免罪符にもならない。

「でも、ちゃんと謝っただろ」
 はっと、雄吾の目を見つめる。
「聞いて・・・たんだ」
「去年、冬に来たときに。思い出させることもないかなって、言わなかったけど」
 あの時はまだ、過去の檻に囚われたままだった雄吾。離れていた一つの季節が終わると、鼓動の高鳴りに反比例して沈澱してゆくものがあった。
 失うこと。傷つけること。
 大切なものを守るにはあまりにも無力だった自分は、少しも変わっていないから。

 けれど、彼女はそうじゃなかった。

 湿った殻を脱ぎ捨てていた彼女は眩しかった。濁った記憶の深海に沈んでいた自分にさえ届く澄み切った光を感じた。だから、俺も変わることができた。 
「琴梨ちゃん、言ってたよ。あの時は謝られたのが突然だったから返事ができなかったけど、葉野香のこと、本当は心のまっすぐな人なんだろうって。根に持つどころか、とても嬉しそうだった。葉野香の気持ちは伝わってる。心配いらないよ。二人とも、とても会いたがってるんだ」
「二人って、その子の?」
「琴梨ちゃんのお母さんで俺の叔母さん。陽子さんっていうんだけど、俺が葉野香に巡り会えたのも、
元を正せば叔母さんのおかげなんだよ」

 雄吾は事情を説明した。
 起こしてしまった不祥事のせいで、人との繋がりを放棄した自分のこと。
 様子を聞き、心配した春野陽子が母親と相談して、札幌へと招いたこと。
 気に掛けながらも、傷口に触れないように自然なもてなしをしてくれたこと。
 誰かに殴られて帰ってきた彼を見ても、丁寧に手当するだけで問いつめもせず、間違ったことはしていないと信じてくれたこと。
 いつ、なんのために訪れても、面倒を快く引き受けてくれていること。
 葉野香と自分のことを心から祝福してくれていることを。

「本当は、俺が顔を腫らして帰ってきたのを見て、ショックだったはずなんだ。喧嘩沙汰で野球部を出場停止にした俺が、また似たようなことをしてきた。そういう乱暴な人間だと思われてもしょうがない。
 でも、叔母さんも従妹の子も、俺がただ喧嘩をしたとは思わないでくれた。ちゃんとした理由があって、やむなくそうしたんだと、説明も聞かないで、根拠もないのに信じてくれた。そうじゃなかったら、俺はきっと家に送り返されていたよ。こんな危険人物、預かれないって。葉野香のことだって悪い友達扱いだろう。信じてもらえたから、こうして一緒にいられるようになった。
 だからすごく感謝してる。
 だから葉野香にも会ってもらいたいんだ」

 雄吾の手を取った葉野香は、両手で包み込んで、そこからなにか大切な力を得たように、頷いた。

「もしもし。雄吾ですけど。琴梨ちゃん?」
「うん。琴梨だよ」 
「今朝言ってたことだけど、一緒に行くことにしたから」
「あっ、そうなんだ。来てくれるんだ。よかったね」
「そう。それでさ、支度を頼むよ。多分8時くらいになると思うんだけど、問題ない?」
「うんとね、大丈夫。材料は一通りあるし、これから準備しても間に合うし。頑張って作るからね」
「はは。頼もしいな。ありがとう。じゃ、地下鉄に乗る前にもう一度電話するから。叔母さんは?」
「今はゴロゴロしてるよ」
「(人聞きが悪いねぇ。これは寛いでいるんだよ)」
「聞こえた?」
「聞こえた。あはは」
「あははっ」
「それでさ、叔母さんも一緒に食べられるよね」
「うん。遅くに出ていくみたいだけど」
「わかった。それじゃ、また後で」

 夕闇に浮かび上がる雪像にテールランプが朱色のアクセントを付ける頃。二人は大通公園に想い出を残しに来た人々に紛れながら、足跡で白い彫刻を残していた。
 やがて彼女は手を引かれるままに、一度だけ降りたことのある平岸の駅へと歩き出す。
 足が重いのは積雪のせいだけじゃないけれど、悟られたくなくて、ショーウィンドーから、人混みから、夜空から、地下鉄の広告から、話題を拾い集めて取り替え続けた。
 除雪された階段を登り切ると、そこは平岸の町。来たのは二度目の葉野香だが、全く風景から思い出せるものがない。雄吾に話したことは憶えている。雄吾に言われたことも憶えている。あの日の彼女には他のことなど考える余裕はなく、ただ彼のことを想っていたかったから、街並みの佇まいは薄く霞んでいたのだろう。
 地下鉄の中で外していた手袋をもう一度付けて、彼女の手を求めた雄吾。
 しかし葉野香はその腕を取り、すがるように組んだ。
「この方がいいよ。雄吾、背、伸びたから」
 出会った夏から二度目の冬まで、二人の距離は遠いままでも気持ちは近づいていた。離れていったものは肩の高さだけ。もう雄吾は少年ではなく、葉野香も少女ではない。その象徴が、今の二人の身の丈なのかもしれなかった。


 また、密度を濃くしてゆく雪。

  
「やっぱり、よそうか?」
 最後の曲がり角で、彼は尋ねた。
「なに言ってんのさ。もう近くなんだろう?」
「だけど葉野香、やっぱり気乗りしてないみたいだしさ。事情があったってことにすれば済むわけだし・・・・・」
「雄吾。それはすっごく失礼だと思うよ。親戚の人たちに」やんわりとたしなめる。「・・・・・大丈夫。別に嫌なわけじゃないから。なんて言うか、やっぱり緊張してるんだよ。話が雄吾の実家に伝わって、そんな子とうちの一人息子は付き合わせられません! なんてことにならないかってな。私、雄吾の次に雄吾の家族には嫌われたくないから、さ」
「いつもの葉野香でいいよ。それが一番好かれる葉野香だから」
「嬉しいよ。そういう言葉。さ、行こう」

 ローズヒルのエントランス・ホールで雪の欠片を振り落とし、ハンカチでお互いの上着を拭う。
 
 エレベーターを出るとすぐ、「春野」の表札。
「ただいま」
「お帰り。雄吾君」
「あの、こんばんは」 
 目を合わせにくくて、すぐに頭を下げてしまう葉野香だった。
「ああ、ちゃんと連れてきたね。甲斐性無くて逃げられてないかって心配だったんだよ」
「そりゃないですよ。もう」
「これで上着拭きなさい」と大きめのタオルをそれぞれに渡す陽子。
「琴梨、ちょっとおいで」
「はーい」
 エプロン姿の従妹がスリッパの音をBGMに姿を見せる。

 脱いだコートを玄関脇のハンガーに掛け、自分のものより少しだけ丁寧に葉野香のコートを
掛けた雄吾が、照れながら言った。
「紹介します。左京葉野香さん。俺の彼女です」
「あ、あの、左京、葉野香です。あの、はじめまして」
「はい。はじめまして」
「私も、ちゃんと会うのは初めてかも。こんばんは」
「で、こちらから俺の叔母さんで、春野陽子さん。それと従妹の琴梨ちゃん」
「今日はようこそ。寛いでってちょうだいな」
「どうぞ、上がって下さい」
 琴梨に案内されてリビングに向かった葉野香の背中を眺めていた陽子が、いかにも
感心したように息を吐いた。
「しっかしまぁ、綺麗な子だねぇ」
「そうでしょうそうでしょう」
「純情そうだし」
「そうでしょう」
「雄吾君にはもったいない」
「そうでしょう、って、そこは違いますっ」
「あはは。でもまぁ、なかなかお似合いだよ」


 程良く温められたリビングで葉野香が凍てついた指先をほぐしている間に、4人分のコーヒーカップがテーブルに揃った。漂っているのはキッチンから流れる食欲を誘う香り。炬燵と座布団が常備される純和風の家に暮らす葉野香には、必要以上に居住まいを正してしまう雰囲気があった。
「さて、まず馴れ初めを聞かせてもらおうかい?」
 何よりもそれが楽しみだったように、陽子が切り出した。
「お母さん、それじゃ新婚さんが出るテレビ番組みたいだよ」
「冗談だよ。左京さんは、雄吾君と同い年なんだよね」
「はい。そうです」
「じゃ琴梨の一つ先輩だ。そうそう。大学合格したんだってね。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「2年生になってから受験勉強始めて、それで第一志望に一発合格なんて、たいしたもんだよ。琴梨、あんたも見習うかい?」
「私には真似できないよ。だからすごいなぁって思う。何かコツとかあるんですか?」
「べ、別にコツなんて、ない」
「全然?」
「えっと・・・・・ただ・・・・・」
 ちらりと隣を見上げる。
 陽子と琴梨の視線が追いかける。
 3人に注目されて表情に困る雄吾。
「ははぁ、そういうことか。愛は強いねぇ」
 どこかでスイッチが入ったかのように、葉野香は瞬時に赤面した。

 やがて工夫を凝らした料理の数々がテーブルを埋め尽くし、「張り切り過ぎちゃった」と悪戯っぽく
笑う琴梨と陽子に勧められるまま、二人は凝った家庭料理を味わった。陽子の落ち着いた立ち居振る舞いと、控えめに言葉を受け止める琴梨の柔らかさで、次第に葉野香も再会がもたらすはずだった気まずさを忘れていた。

「ああ、そうだ。ちょっとすまないけど雄吾君。コンビニに買い物に行ってきてくれないかい? 明日のパンが切れちゃってて困ってたんだ」
「あ、いいですよ。行って来ます」
 時計は午後10時を回っていた。ソファーから立った雄吾に会わせて、葉野香も腰を浮かす。
「あ、じゃ、私そろそろ・・・・・」
「え、あ、それはっ」
 どうしてかうろたえる従妹が気になった雄吾だったが、深く考えるより早く陽子が言葉を続けていた。
「左京さんまで行くことはないだろうさ。行き帰りに10分くらいだから。それに、今日は泊まっていっておくれよ。私は夜出ちゃうから、休むには私の部屋を使えばいいし」
「い、いえ、そこまでしてもらうわけには」
 そんなことを全く想定していなかった葉野香は大きく首を振った。
「若い子は遠慮なんてしないもんさ。これから帰ったら終電近くになるだろ。そしたら送っていく
雄吾君が帰れないよ」
「葉野香、そうしなよ」

 廊下の向こうで、ゆっくりとドアが閉まる音がした。 
 雄吾がいなくなると、やはり落ち着かない。自分が彼を頼りにしていることをひしひしと感じる。視線の落ち着き先を探して、淹れ替えられた紅茶からたなびく温もりのリボンを見つめてしまう。
「ひとつ、聞いていいかい?」
 表情は柔和なままだったが、改まった口調で陽子が訊ねる。
「はい」
「雄吾君の、どこを好きになったんだい?」
 何度か、彼女自身考えたことのある質問だった。考えた数だけ、空白の回答欄が残っていた。
「どこ・・・って言われても、どこってことはないんですけど・・・・・」
「ひとつじゃなくていいよ。思いつくことを教えてくれれば」
「それは・・・・・優しいところ・・・・強いところ・・・・」
 自慢げに話すことではないとわかっていても、少し誇らしい気持ちを感じながら、葉野香は口にしていった。
 一つ一つに頷いていた陽子。
「あの子に何があったかは知ってるんだろう?」
「怪我をした理由ですか? 彼、教えてくれました」
「私も琴梨も、一昨年の夏まで何年も雄吾君には会ってなかった。親戚とは言っても、うちの亭主と雄吾君のお母さんが兄妹だったという関係だから、うちの人が亡くなるとなかなか会う機会がなくってね。野球をやってることは聞いてたし、高校に推薦で入れた時にはたいしたものだと思ったよ。それが、あんなことになって・・・・・」

 拳が砕け、肘には癒えることのない傷が残った。
 正義感にかられてしたことによって、望んだ未来像はすべて壊れた。
 予選試合の辞退、出場停止処分、そして監督の辞任。
 孤立。嫌がらせ。自責。

 義妹が悩みながら打ち明けた甥の様子は、あまりにも無彩色だった。誰とも話をしたくないし、何もしたくない。だけど、それじゃまた周囲に迷惑をかけてしまうから、苦しいのを隠して普通を演じていた。普通であれば集団の一部として隠れていられるから。あらゆる個性をそぎ落として、自分らしさを消していった。

 そんなことがいつまでも続くはずがない。
 彼のしていることは精神的な自殺未遂の連続なのだから。
 事件が風化しても、怪我が治っても、かつての鷹城雄吾は戻ってこなかった。
 苦慮した両親の相談を受け、陽子は彼を呼び寄せたいと申し出た。何ができるかはわからなかったが、立ち直るきっかけを用意してあげたかったのだ。
  あれからもう2度目の冬。かつての陰鬱さはもう彼のどこにもない。
「本当によかったと思ってる。雄吾君と出会ってくれて。最初、この子らとケンカしたんだってね。昨日聞いたよ。それでも雄吾君を拒まないで、支えてくれたから、あの子は事件の前以上に明るくなった。
大学にも受かって、自分で決めた夢に向かって行ってる。それがとても嬉しくてね。私らなんかが言うことじゃないかも知れないけれど、あの子を助けてくれて、ありがとう」

 陽子が語っている間、少しずつ、左京葉野香の顔が伏せられていくのを琴梨は見つめていた。

 そして突然、俯いたまま彼女が立ち上がった。

 無言で、外へ走り出してゆく。



 ビニール袋を左手にぶら下げて、いつかこの寒さを懐かしく感じるときが来るんだろうなと、振り止む気配のない空を見上げながら戻ってきた雄吾。
 ローズヒルの入り口が照らす灯りへと足を早めようとしたその瞬間、長い髪をなびかせた人影が走り出てきた。
「葉野香っ!」
 シルエットになっていても、間違うはずがなかった 。
 雄吾とは逆の方向に、雪に足を取られることもなく走ってゆく。
「待てよ、葉野香っ!」
 何度もよろけ、ガードレールにつかまって転倒を防ぎながら、セーターに包まれた細い背中を追う。
 コートすら、着ていなかった。

 葉野香が立ち止まったのは、小さな公園だった。
 子供の代わりに雪を座らせたブランコ。
 どこにあるのかもぼやけている砂場。
 乱れた吐息で表情が隠れた葉野香。 

 佇立する山毛欅の足元に、彼女は寄りかかっていた。 
 水銀灯が、俯いた頬にいくつもの滴を照らす。
「泣いてる・・・のか?」
 腕に手を沿える。セーター越しに感じる彼女の震え。
「ごめん・・・・・雄吾・・・・・ごめん・・・・・」
 白いシルエットが、暗く伸びていた。

 そっと、そっと抱きしめられて、出口を無くして奔流となっていた気持ちが緩やかな渦になってゆくのを、葉野香は感じていた。
 どれほどそうしていただろう。
 瞼から強ばりが取れた頃になって、彼女は彼と視線を合わせた。
「ありがとうって、言われたんだ。雄吾を好きになって、ありがとうって」
 無言で頷いて、促す雄吾。
「私さ、親、いないだろ。母さんの記憶はあまりないし、親父も中学入る頃にはいなかった。兄貴が
揉め事起こすようになってからは、親戚も縁遠くなった。平気だったわけじゃないけど、何したって
二人が生き返ってくるわけじゃないから、家族の安らぎとか、幸せとかって、過去にしかないもの
だって諦めてた」
 途切れてしまった絆。
 なくなることはないけれど、変わることも増えることもない絆。
「だから、あんな風に優しくされると、どうしていいかわからなくなる。自分の中にないものだから、
受け取った気持ちの置き場所がわからないんだ。みっともないよな。親切を素直に受け取れない
なんて。こんな自分は大嫌いなんだけど、どうしてもうまく言葉が出せなくて・・・・・」

 彼は、彼女を強く引き寄せた。
 耳元で囁く。
「俺はまだ、全然葉野香をわかってやれてないんだと思う」
「そんなこと・・・・・」
 愛しい人の背中に手を回す。
 すがりつくように。
「愛してるって何度も言ったけれど、それじゃ足りないってことに気付かなかった」
 まだまだ、俺とお前は始まったばかりだったんだな。
「聞いてくれ」
 心の灼ける熱が彼女に届くことを願って、彼は腕に力を込めた。
「約束する。俺は絶対、葉野香を独りにしない。葉野香のためなら、どこからだって帰ってくる。この約束を、いつまでも信じていてほしい」

 愛することはたやすい。
 愛されることは難しい。
 だがなによりも大切なのは、彼女とともに生きること。
 彼女のために生きることだ。

「・・・・・うん」
 見上げると、視線が結びついた。
「信じる。信じてるよ。雄吾」

 やがて葉野香が肩をぶるっと震わせる。
「さっ、それじゃ早く帰ろう。このままじゃ風邪引いちゃうよ。向こうでは心配しているだろうし」


 コートを脱いで葉野香に羽織らせた雄吾は、まず携帯で春野家に電話を入れた。琴梨が葉野香の上着を持って探しに出ていると聞かされて、すぐに戻りますから彼女に連絡して下さいと伝えた。

 とりあえず冷えた体をそのままにはできないと、半強制的に入浴させられた葉野香がリビングに戻ったときには、もう琴梨もお茶を飲みながら待っていた。
 春野陽子さんのものらしいパジャマに身を包んだ葉野香は、どうして飛び出してしまったのか、その理由を不定型な心から取り出して、雄吾に伝えたように伝えようとした。時に言葉に振り回されたりしながの彼女を、二人は焦ることも急かすこともなく、受け取ったかけがえのない思いに感謝するのを聞いていた。
 二人に会えて嬉しかったと、葉野香は結んだ。
  

 やがて陽子は仕事に出て行き、雄吾はいつもの書斎で、葉野香は陽子のベッドではなく琴梨の部屋に布団を敷いて休むことになった。






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