白のシルエット 前編



 空に融けてしまう寸前の、鐘の響きの欠片。
 雑踏の喧噪の隙間から届いた純粋に、彼女は誘われるように見上げた。
 いつもの札幌の空。
 午後にはまた雪を降らす空。
 都会から運んできたようなオフィスビルが似合わない空。
 これからは懐かしく思い出すだろう空。
 今日は二人のためだけに澄んでいる。

 雪祭りの会場は平日の午前中だというのに、肩と肩がピンボールのようにぶつかる混雑ぶりだった。毎年のことだから、もう慣れたつもりでいる。だけど東京では毎日がこんなだと言う。修学旅行で行った原宿もそうだった。都会の札幌生まれで札幌育ちの葉野香でも、息苦しさを感じたのを憶えている。

 季節が移ろうように、なだらかに変われないだろうか。
 そんな弱気もなくはない。
 だけど、彼女は知っている。
 短い夏で、受け止めた手のひらで夕日の結晶が融けてゆく一瞬で変わることだってできることを。
 二人でなら、それができることを。

 早く来ないかな。

 
 人の高波から外れ、大きな雪像と雪像の間で一休み。
 ふうっと白い息を吐いて、また見上げてみる。
 この雪像はなんだろう。人かな。2本の腕と足。有名人の像?
 子供が雪のプレートに刻まれた文字を大声で読み上げている。
 「イェティだってー! でけー!」
 ああ、雪男か。たしかにそんな感じだ。
 本当にいるのかどうかは知らないけれど、いないよりいた方が面白いかな。
 なかなか姿は見せないけれど、実はちゃんと遠くから見ていたりする。
 見た目は取っつきにくいけど、ユーモラスで愛嬌だってある。
 けっこうお人好しでいい奴。
 誰かみたい。

「彼女、一人?」
「地元の子?」
 観光客風の若い男たちが声を掛けてくる。大学生だろうか。
「彼氏待ちなんだ。悪いけどお断り」
 さらりと答えると、粘ることもなく二人は引き下がって人混みに消えた。
 昔はああいう誘いが虫酸が走るほど嫌いだった。下心丸出しで野卑な男が出てくると、こっちまで臭みが付きそうで。無視したり、しつこいのには怒鳴りつけたりして追い払っていたけれど、今は自然に断れる。
 結局、寂しかったんだろうな。
 寂しかったから、そんなことないって主張しなくちゃならなくて、刺々しく反応してた。誰にも頼らず、誰も必要としないで一人でいることを選んでいたけど、弱さの裏返しだってことが分からないでいた。
 今だって寂しい。
 でもこれはかつての寂しさとは違う。
 会いたくて感じる寂しさ。
 もっと辛かったけれど、もっと耐えられる。
 もうすぐ終わるってわかっているから。

 早く来ないかな。

 
 電車のように左右に流れてゆく人たち。
 仲睦まじい恋人達の姿も多い。
 以前会ったことがあるかもしれないギターを抱えた小柄な娘と、大学生風の若者。
 少し年下だろうか。燦然とまばゆいばかりに輝く金髪に青い目の外国人と、すらりとした長身の青年。
 これから自分も仲間入りすると思うと、頬だけが寒さを感じなくなった。


 そろそろ約束の時間。
 携帯が鳴る頃だ。
 彼は昨日の最終便で千歳に着いて、親戚の家に泊まっている。
 今日の待ち合わせ場所は大通公園近くの喫茶店だった。だけど葉野香は自動ドアの前まで行ってから、外にいることを選んだ。寒いから屋内での待ち合わせにしたのにと彼は言うだろう。だけど、少し舞い上がった頭を冷やしておかないとみっともなく振る舞ってしまいそうだったから。
 近くにいるから、喫茶店に着いたら電話してってメールしてある。
 もう少しここにいてみよう。


 コートの内ポケットには一通の封筒がある。
 ずっと欲しかったもの。
 このために頑張ってきたもの。
 東京へのパスポート。
 

 聞き慣れた着信メロディが聞こえた。手袋をしたままストラップを引いて鞄から取り出す。
彼とお揃いのピンクパンサーが耳元でぶらついていた。
「もしもし、雄吾?」
「今着いた。どこにいる?」
「雪祭りの会場の中。これからそっち行くから、中で待ってて」
「いや、俺がまずそっち行くよ。わかりやすい場所、ない?」
「じゃ、ビートルバムにいるから」
「わかった」

 一度、歩き出す前に自分を見直してみる。
 髪型はおかしくない。
 コートは汚れてない。
 中も今日のためにとっておいた新しい服。
 ブーツは茶色の雪がこびり付いているけれど、これはしょうがない。
 去年の誕生日に貰ったネックレスも忘れてない。
 もうひとつ、貰ったものも忘れていない。
 
 やっと会える。


 踏みしだかれて融けた雪でぬかるむ雪祭り会場を、葉野香は慎重に歩いていった。もう焦ることはないんだと、逸る気持ちをなだめながら。
 程なくしていつもの通りが見えてくる。
 ここからビートルバムまでは5分足らず。
 その方向に目をやると、もう彼を見つけられた。 
 走り出したくても足元と人混みのせいで急げない鷹条雄吾を。


 背、また伸びたんだな。
 

 そんなことを思った。

 
「久しぶり。この寒いのに元気そうだね」
「元気そうかぁ? 今まで来たなかで、一番寒いよ、今日は」
 手袋をした両手でごしごしと顔をこする雄吾。バナナの代わりに鼻と顎と額で釘が打てそうだ。
「葉野香が平気そうにしてるのが信じらんないよ。地下とかで待ってたらいいのに」
「なんか、外にいたい気分だったんだ。じゃ、行こう」
 いつかコマーシャルで流れていた映画のような、再会の勢いのまま抱き締めるなんて真似はできなかったけれど、でも掻き立てられる喜びが行き場を求めて、彼は隣を歩く葉野香の手を握った。
 彼女は何も言わなかった。
 少し握り返すだけで充分だから。
 長い秋、葉野香によって編まれた手袋同士にも、待ち焦がれた再会だった。


「ええっと、まずは合格おめでとう、だな」
「そうだね。お、お互いにね」
 二人はティーカップで乾杯した。陶器の縁が震えているのは重さのせいじゃない。こぼしそうになるのをなんとか免れてから、ポケットから封筒を取り出した葉野香は合格通知書を広げて渡した。
 都内の私立女子大の学長印が、朱色も鮮やかに捺されている。
「春から女子大生になるなんて、なんかまだ信じられないよ。本当に受かったんだよな。私」
「大丈夫だよ。俺だって見てきたんだから」

 彼女が受けた大学は3つ。本命と滑り止めを2つに絞ったのは、主として資金のせい。ただ大学に行きたいのなら道内にも大学はあるし、学力からすれば地方の国公立大学も合格圏内だった。
 しかし、彼女にはどうしても東京にこだわりたい理由がある。
 わがままだとわかっていても譲れない。
 だから彼女は受ける大学の数を減らすことで受験料や受験の際の宿泊費や交通費も倹約できるようにした。いい学校ほど学費が安いから寸暇を惜しんで勉強した。

 高校2年の秋から始まった受験戦争が終わったのは、つい先週のことだった。
 本命の大学から正式な合格通知書が届く前に、電報の合格者通知サービスで受かったことはわかっていた。しかし、どうしても不安が拭えない彼女のために雄吾は女子大の門を潜り、掲示されている合格者リストを見てきたのだ。確かに電話で彼女が伝えた番号が載っていた。
「もう一回見てくるってのはやだからな。女子大に入るってのは勇気が要るんだから」
「実は嬉しかったんじゃないの? 秘密の花園って感じするでしょ」
「バカ言え。トイレに行きたくなったらどうしようかと思ったんだぞ。男子トイレなんてないかもしれないから」
「あはは。ちゃんとあるよ。でも、ありがとうな。雄吾はまだ試験が残ってたのに」
「いいよ。近くだし。結果に影響したわけでもないしな」
 彼は合格通知書を畳んで返した。
「雄吾のは?」
「俺のはまだ。今日ぐらいに届いているんじゃないかな」

 雄吾もまた、第一志望の大学に合格していた。都内の公立医科大学という狭く厳しい門を正面から突破したのだ。
 絶たれた野球生命。今も左肘には長い手術跡が残り、凍てつくこの季節には疼くことがある。いろいろなものを傷つけてしまったから、もう野球をすることは考えていない。けれど怪我だけのせいでスポーツを諦める人を、もう一度グラウンドに帰してあげることができたらという夢を持っている。
 楽な受験ではなかったが、幸いにも努力は報われた。

 報われないなんてことがあっていいものか。
 あんなに葉野香との時間を犠牲にしたんだから。

 二人の再会は、ほぼ一年ぶりになる。
 先の春休み。あまりアルバイトができなかった雄吾は飛行機ではなく電車で札幌へ向かった。片道だけで1日半。葉野香と一緒にいられたのは1日だけだった。往復の時間だけを考えたら、馬鹿馬鹿しい旅。それでも彼は、次の逢瀬までの空白を少しでも少なくしようとプラットホームに立った。
 札幌駅で待っていた葉野香も、「わざわざ来なくてもいいのに」なんてことは冗談でも口にしなかった。彼の腕に抱かれながら見つめたホワイト・イルミネーションから2ヶ月しか経っていなくても、一人でいることが辛すぎたから。孤立には耐えられたけれど、孤独は寂しい。
 何を見物するでもなく、何を買うでもなく、こぼれてゆく砂時計の砂粒を惜しみながら、二人はただ一緒にいた。ただ影を重ねていた。新しい絆を結んで。


 もう、暫く来れないと思う。

 プラットホームで唇が離れると、雄吾はそう告げた。
 分かり切っている言葉だったが、鷹条雄吾にも左京葉野香にも自分たちの
無力を痛感させていた。

 高校という枠から卒業して新しい毎日を始めるときに、もっと互いが互いを側に感じることができるように。
 好きになってくれている人が誇れる恋人になれるように。
 彼のために。
 彼女のために。
 自分のために。
 支えてくれる人たちのために。
 もう一度、二人は別れていなくてはならなかった。

 4月2日。
 誕生日に届いたネックレスはひんやりと肌に冷たく、やがて彼の温もりを伝えた。

 夏休み。
 空っぽの大通公園。
 大学の下見という口実で葉野香は上京することも考えた。しかし悲しいかな、それだけのお金がなかった。兄夫婦からは、それぐらいのお金は出してあげるから行ってきなさいと勧められたが、これからかかる負担を考えたらおいそれと甘えることはできなかった。北海軒の経営状態は好転したが、まだ借金はかなり残っているのも知っていたから。
 控えめな電話とメールと暑中見舞いだけが、二人を繋いだ。
 
 一日として、彼のことを想わない日はなかった。
 このままじゃどこか遠くの人になってしまうんじゃないかと、冷たい恐怖に肩が震えたこともある。
 5月の連休も夏休みも冬休みも、机に向かっていた。深夜、疲れた体を伸ばしながらフォトフレームを見ると、白く輝く札幌を背にした二人と目が合う。
 大通公園でクラスメートにシャッターを切ってもらった写真。
 照れくさそうな彼。どこに目線を置いたらいいのかもあの時は分からなくて、戸惑った表情になっている自分。
 写真はいつまでも変わらない。
 私たちだって変わらない。
 変わらないけれど、側にいてほしいときはある。
 どうしてこんなに弱くなってしまったんだろう。
 両親がいないのにはずっと耐えてきた。友達がいなくても平気なふりができた。
 離れていてもちゃんと連絡は取れていて、声だって聞けるのに、独房にいるようにひとりぼっちが襲ってくる。週に1回と決めた電話を終えて受話器を置こうとすると、いつのまにか自分が涙を溢れさせていたことに気付く。このまま切ってしまったらなにか細くて脆くて見えない線を断ってしまうように思えて、ツーツーと電子音を繰り返す受話器を持って躊躇っていた。
 好きでいることが苦しくて、愛されることに渇えていた。
 このままじゃどうかなりそうだと、受験を諦めることすら考えた。大学はやめて東京に就職することにすればいい。そうすればすぐに会いに行けるし、距離の隔たりもなくなるんだと。
 でも、それはできなかった。
 彼の受験の邪魔になってしまう。
 自分から大学を目指しておいて、あっさりやめたりしたら失望される。
 一緒に受かろうなと言ってくれた約束を破ることになる。
 できるはずがない。
 
 ある夜の電話。
 身の回りにあったことや勉強の進捗状況、最近の模試の結果といったことをいつものように話す雄吾が、突然黙り込んだ。
「どうしたのさ。ねぇ、どうしたの? どこか悪いの?」
「葉野香」
「何?」
「会いたいよ。葉野香を抱きしめたい。抱きしめて、絶対に放したくない。これから走ってでも会いに行きたいんだ」
「雄・・・・・吾・・・・・」
「・・・・・ごめん、俺、ガキっぽいこと言ってるよな。情けないな。弱音吐いて。あと暫くの我慢なんだってわかっちゃいるけど、けど、な・・・・・」
 葉野香の手が震えたのは、雄吾の震えが伝わったからではない。
「雄吾」
「・・・・・うん?」
「私のこと、好き?」
「ああ好きだ。大好きだ。心の底から愛してる。愛してるよ」
「私も、雄吾が好きだよ。雄吾だけが大好き。雄吾と同じように愛してる」
 きつく握られた受話器から、プラスチックの軋む音がした。
「だから、頑張れるよ。私だって会えないのが苦しくてしょうがない。いつだって一緒にいてほしいよ。自分だけがそうなら、挫けてしまうと思う。だけど雄吾も苦しいなら辛さだって分け合えるよ。雄吾の苦しみなら、どんなに大きくても私は受け止められるから」

 ゆっくりとした温もりが、二人の頬を伝う。
 
「葉野香」
「うん」
「葉野香を好きになってよかった」
「よ、よせよ、今更」
「俺だって、葉野香の苦しみなら背負ってみせる。もう泣き言はなしだ。約束する。二人で頑張ろうな」


 そして2月。
 葉野香は5日のホテル滞在で3校を受験した。その間、二人は会うことを自分たちで制した。
 電話をして30分もすれば待ち合わせができるけれど、一緒にいれば気が緩んでしまうのはわかりきっていた。そこで歯止めが効くと思う自信は、どちらにもなかった。ここまできて台無しにするわけにはいかない。もう少し先に霞んで見えるゴールの幻想を信じようと、未練を振り解いた。

 そして。
 終わりと始まりがここにある。
 最初に出会った時よりも、最初にデートしたときよりも、遙かに互いを意識して鼓動を乱しながら、ろくに顔を見られなくなって。
 もしここが喫茶店じゃなくて、喫茶店でも客が他に誰もいなかったら、店員もいなかったら、激しい衝動が二人の間の障壁を砕かせていただろう。もうこれからは距離と時間に苦しむことはないという余裕があるはずなのに、そわそわと相手の様子を伺ってしまう。

「えーと、あとは引っ越しするだけなんだよな」
「そ、そう。再来週にはすることにしてる」
「手伝いに行くのは、どうしても駄目なのか?」
「そういう規則なんだ。うちの寮。トラックから荷物降ろすだけでも、家族以外の男性は出入り禁止。手伝うって言ってくれるのは嬉しいけど、そんなに荷物もないはずだし、気持ちだけ受け取っておくよ」
 葉野香が東京で住むのは、北海道が自治体として運営する女子学生寮である。都内西部の閑静な住宅街にマンション風にそびえる姿は、寮らしくない高級感すら醸し出している。北海道出身者のみが入居できるのはもちろん、親の収入などの経済的要因によって希望者から選抜されないと入ることはできない。両親のいない葉野香は問題なく許可が下りた。
 当然に男子禁制。手伝いに行くという名目で彼女の新居を見ておこうという彼のささやかな目論見は、あっさりと散った。

「自分が東京で大学生やるなんて、なんか柄じゃない気がする。去年の夏休みまで、そんなこと考えもしてなかったんだから」
「どうするつもりだった? 卒業してから」
「何も考えてなかったかな。適当に就職するしかないだろうし、なかなか今の北海道じゃ仕事がないから、公務員試験とか受けてたかも。特にやりたいことがあったわけじゃないし。雄吾と違ってさ」
「俺も、夏休みの頃は目標なんてなかったよ。秋になって、葉野香のことを考えていて、自分もしっかりしないといけないって思えて、それで医者を目指すって選択肢が出てきた。それに、本気で目標にしたのは・・・・・」
 ティーカップサイズの琥珀色をした鏡に、少しだけ目を落とす。
 いつもの自分の顔。
 左目の上にあった傷跡はもうほとんど消えている。
 あの頃は、世界で誰よりも見たくない顔だったよな。
「・・・・・したのは?」
「葉野香が俺のことを好きだって言ってくれたときからだよ」
「えっ、そ、そうなのか? 冗談だろう?」
「実は本当だったりする。自分に自信が持てなかったら、ずっとうじうじしたまま生きてて、頑張って医学部に入ろうなんて考えもしないよ。だから、けっこう葉野香は俺の人生変えちゃってるんだぜ」
 わざと、ぷいと横を向いてから答える葉野香。
「お互い様だろ。そんなの。それに、今の自分が気に入らない?」
「そう悪く無いだろって思えるくらいには、いけてるんじゃないか。俺」
「もっといい男になるんだぞ。私の彼氏なんだから」
 彼女は少し冷めた紅茶を口にして、照れ臭さを誤魔化した。

 そしてティーカップの底が渇く頃。
 椚色の窓枠。
 そして湿気に曇ったガラスに指を滑らせる。
 舞い降りてゆく夕暮れと下弦の月。
 愛すべき街は、いつまでも二人を待ってくれている。






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