約束の地なき旅路 <3>



 既にターニャに下っていた日本総理爆殺のタイムリミットは切れている。この任務が何を
目指したものなのかが、今もってターニャにはわからない。
 報道を見るところ首相はシベリアの反ソ事情に理解と同情を示し、言を左右にしてアメリカの
期待する協力姿勢をとろうとしない。国連でのシベリア非難決議に棄権する可能性が官邸筋
から漏れて週刊誌を賑わしたり、在日米軍が国内の基地からシベリアを空爆するのは国民
感情からも受容しがたいと口にしている。低い支持率を国会内の数の論理で無視してきた
総理とは思えない態度である。
 このような統治者を自由シベリア党が殺害させて、いかなる政治的効果を得ようとして
いるのだろうか。当面の敵であるロシア共和国やアメリカ合衆国よりよほど味方に近い
権力者を、である。
 ホテルのロビーに置かれている唯一のテレビではヴィツェンツキー党首の強硬論を緩和
するかのように、独自の仲介案を提示して講和を実現させたいと意欲的に演説する日本国
首相の姿が相変わらず報じられ、「イスクリィ」を操る自由シベリア党上層部は既にターニャの
消息を掴もうと動き始めているはずだ。いかなる理由があったとしても、かつてのKGB強硬
派が任務の失敗を許容するはずがない。拘束、尋問、そして処分という片道切符が用意され、
執行要員が彼女を捜索しているだろう。
 彼らがそういう状況を知りながら、敢えて一日動かずに様子を見るという選択を取ることが
出来たのは、ターニャの追っ手はまず日本に向かっていると推測されるからだ。まさか膝元で
あるウラジオストクに潜入していようとは考えないであろう。
 しかし、その猶予も長くない。
 山荘を襲ったグループが自由シベリア党と関係があるのなら、ターニャとセリザワが銃撃戦に
先立ち脱出していたことをそう遠くないうちに知る。いつかはシベリアに入国していることも
伝わる。彼女たちは一日に一度ずつ、弾丸の数すら知らないままロシアン・ルーレットの引き
金を引いているようなものだった。

 ホテルでそれぞれ室内に閉じこもり、薄い夕闇のカーテンが降りる頃、ターニャはセリザワの
部屋へ繋がる内線電話の番号を押した。コール音を聞きながら、余った腕を少し挙げてみる。
気持ちが安らぐことはなかったにしても、ベッドで微睡みながら体を休めたことで肉体的な疲労
だけは軽減されたように思える。
 かちりという、受話器を上げた音がした。
「あの、私です」
「何かあった?」
「いえ、なにもないです。でもおかげで少し楽になりました」
「よかった。じゃ、もう少ししたら夕食に出よう」
「はい」

 二人は肩を並べてどこか小樽を連想させる街並みを歩いた。煉瓦造りの倉庫。高く掲げ
られた街灯。月のかけらをちりばめる夜空。午後まで降り続いた雪も止み、オホーツクを
疾駆してきた風が張り紙を踊らせる。

 静かだった。
 古びた日本車がかき立てる轟音。
 酒場から筒抜けのろれつのまわらない合唱。
 じゃれあいながら走ってゆく子供たち。
 路面電車の警笛。
 シャッターが下りたままの店。
 ごみが溢れる屑籠。
 老人たちの憂鬱。
 
 静かだった。

 空虚であることが許されずにいた過去が清算されようとしている。

 何者かであらねばならず、そして本当は何者でもなかったターニャという名前が。

 ターニャ・リピンスカヤと呼ばれたのは12年。

 ターニャ・リピンスキーと名乗った6年。

 同時にその歳月は「イスクリィ」しての6年であり、「白樺」としての4年であった。



 私は結局、誰だったんだろう。
 誰かにとっての誰かでいなければ、私は私でありえないのだろうか。


 
 不意に体が震えた。
 ここは小樽よりもとても寒い。
 そっとセリザワが肩に手を回す。
 彼の肩も袖も湿っていたのが、触れた頬で感じられた。
 しかし冷たさを通して伝わる温もりがあった。
 彼女は彼を見上げず、彼も彼女を見なかった。

 ホテルの裏手、細い路地を少し歩いたところに小さなレストランがあり、ウラジオストク潜入
以来彼女たちはよく利用していた。善良そうな夫婦が経営する店だけに危険を感じなかった
点と、窓から路地の様子が見渡せる点が通うことになった理由だが、ターニャにはどこか
懐かしい味の家庭料理が食べられたことも遠因になっているだろうか。
 最後に人前でロシア料理を食べたのは、12歳で日本に入国した直後のことだった。運河
工藝館の先輩たちが小樽市内のロシア料理店で歓迎会を開いてくれた時以来。日本に
馴染んだ存在になるために、ロシアに関係する店は飲食店に限らず全て避けるよう命じられて
いた。下された多くの命令のうち、最も従いやすかったのがこれだった。レストランの壁に
掛けられた油絵には祖国の風景があり、民芸展の棚に整列しているマリョースカの柔らかな
表情は、2重の意味で彼女を苛むからだ。
 そこには故郷に似た匂いがあり、そしてまがいものでしかない臭みがあった。
 まるで彼女と同じように。
 まるで彼女と同じように。

 食事の代金を好まれる日本円でもアメリカドルでもなくルーブルで支払い、レストランを出る。
その瞬間に二人はそっと目配せを交わした。
 誰かいる。
 背後から、降り積もった雪に足音を隠すことも出来ずに4つの靴音が近づく。
 走ってホテルまで逃れるか、危険を承知で対抗するか、振り返りたい気持ちを抑えながら
判断の狭間で揺れるターニャに、セリザワはそっと囁いた。
「僕の後ろにいて」
「どうするんですか」
「中国の諺にあるだろう。虎の仔を捕まえたければ虎の巣に入らなくてはならないって」

 路地から大通りに出る手前でセリザワは立ち止まり、振り返った。弱々しい街灯の明かりが
彼の影を雪面に伸ばす。
「僕らに何か用かと聞いてくれ」
 セリザワの日本語をロシア語に換えて肩越しに投じるターニャ。
「私たちに何か用ですか」

 暗がりの中から二人の男が、ためらいがちに現れた。年は50絡み。いや、もっと若いの
かもしれないが、髭と上等さのかけらもない服装が彼らをくたびれた存在に見せていた。
背中に照明を受けるセリザワとターニャの表情がわからないのだろう。目を眇にして、なぞる
ようにこちらを窺う二人に気味悪さを禁じ得ない。 
「あんたが、噂の日本人じゃねぇのか?」
 ロシア語で、そう問われた。セリザワに翻訳しながら「噂」という単語が意味するところに
不安を感じた。
「黙ってちゃわかんねぇぜ。そうなんだろ」
「俺たちゃ、わざわざあんたに会いに来たんだぜ」
「買ってくれるんだろ。ネタをさ」
 ターニャの翻訳を待っている様子で、彼らの慇懃な態度が、突然野卑になった。
「ん? あんたロシア語喋れねぇのか?」
「相棒よ、こいつぁ人違いかもしれねぇぜ。大鴉は話せるはずだ」
 風向きが変わりかけたのを察し、セリザワは慌てて言った。ターニャも急いで訳す。
「僕たちは、ええと、違う。そうじゃない。その、取り次ぎみたいなものだ」
「私たちは取り次ぎ役です。大鴉ではありません」

 顔を見合わせ、ぼそぼそと言葉を交わす二人組。嘘を見破られたら逃げるしかないと、
ちらりと脱出路を確認するセリザワ。この二人が銃を持っていなければなんとかなるだろうか。
自分は雪道でコメディアンのように転ばずに走れるだろうか。
 そんな心配をよそに、男たちはにやけた、媚びるような笑いをした。
「そうかい。そんな奴がいるとは知らなかった。じゃあ、大鴉に取り次いでくれよ。もうここには
いなくなっちまったのかと思って弱ってたんだ」
 ターニャには彼らのロシア語がひどく訛ったものに聞こえた。悪く言えば田舎者の口調だ。
少なくともこのウラジオストクの住人ではない。彼らは「大鴉」のことをさほど知らないのでは
ないだろうか。そうセリザワに日本語で教えると、彼ははったりを通す覚悟を決めた。
「あ、ああ。取り次ごう。だが、まずはこっちも確かめなくちゃならない。あなたたちは何を売る
つもりなんだ?」
「決まってらぁ。シベリア党の連中についてのネタだ。他になんか金を出す話があったのか?」
「いや、そうじゃない。で、いくらぐらい出せる話なんだ?」
「ドル払いで50万は下らねぇぜ。なぁ。とびっきりだからよ。なぁ相棒」
 肩で突つかれた男が大きく頷く。
「そうよ。高いたぁ言わせねぇぜ。新聞で読めそうな話にだって札束を弾んでるのは知って
るんだからな」
「わかった。ならこれから伝えるよ。あんたたちは明日、ここに同じ時間に来てくれ。迎えを
寄越すから。いいね」
「ああ。かまわねぇさ」

 長居は無用だと、踵を返して路地から出る二人。セリザワがターニャに先を歩かせたのは、
彼女の背中を男たちに晒したくなかったからだ。走り出したい衝動を抑制し自信ありげな歩調を
保つのに、空気よりも冷たい汗が肌に滲んでいた。
 一度も振り返らず、市電に飛び乗る。ホテルには歩いて戻れるが、二人組に尾行されて
いないとも限らないからだ。
 ぎしぎしと車体を歪ませながら走り出した市電に、追っ手らしい客が乗ってくることは
なかった。最後尾の座席からそっと見ても、尾行していそうな車はなかった。

「どういうことなんでしょう」
 ひとまずターニャの部屋に戻り、コートを脱ぎ捨てる間も惜しんでバスルームの扉を開ける。
盗聴防止の古典的対策として水道の蛇口を限界まで捻って水流がバスの底を叩き、狭い
空間が騒然とするのをのを待って、ターニャが口を開いた。
 『大鴉』という通称。
 ここウラジオストクにいる男。
 情報を金で買う。
 恐らく情報屋であろう男は五十万ドルと言った。かなりの掛け値をふっかけている様子
だったが、それだけの支払い能力が「大鴉」にはあるのだろう。
 それが自由シベリア党についてのことならば。
 
 「大鴉」は葛城梁なのか?
 情報屋は「噂の日本人」と言った。
 鴉という異名は、男が黒い髪と瞳を持つことに由来するものだろうか。
 
「リョウがロシア語を話せたとは聞いたことがない。だけど、君に接触していた3年間があれば、
修得は可能だろう。君をリクルートするために接触した彼が、ロシア語を学ばなかったという
方が不自然だ。
 あれは、リョウのことだよ。
 これから酒を出している店を当たる。そういう地下の世界ならもっと詳しくわかるだろう」
 そして声を落とす。
「本当は、そんなところへ君と行きたくはないけれど・・・・・」
 内戦が近づき、人々の気性は激しくなっている。法の支配がなされているとはいえ、
マフィアの跳梁するシベリアの夜はスリルでありすぎる。だが、ロシア語ができないセリザワが
一人でできそうなことは少なかった。
 「行きましょう」
彼女は水道を止めた。

 紫煙とウォトカの混在する空気を吸い続けた二人がホテルの部屋に戻ったのは、日付が
とうに変わってからだった。話を聞くために重ねねばならなかった濃厚なアルコールが
セリザワの頭の中でドラムサウンドを叩きまくっていたが、ただの聞き込みでは知り得なかった
事実が掴めた。

 大鴉と呼称されている若い男は、二ヶ月ほど前からウラジオストクのごく一部で囁かれる
ようになっていた。
 シベリアの政治情勢全般について特別な関心を示し、数日待てば新聞に載るようなことで
あっても、信憑性の乏しい裏付けのない話でも、米ドルの現金で情報を買い漁るという。
もちろん内容によって男の支払い額は違うのだが、クズやでっちあげと承知していても、
「次はもっとましなネタを持ってこい」と鷹揚に札びらを切る。情報の信憑性を判断する慧眼は
かなりのもので、報酬をふんだくろうとしてちりばめた尾鰭など、男の耳に入ると同時に
こそぎ落とされてしまうらしい。
 情報屋と呼ばれる連中は金払いの良さだけでなくその力量にも一目を置くようになり、
今では男の眼球代理となって辺境まで足を運ぶ者まで出ているという。
 ジャーナリストのやり方ではない。無尽蔵とも思える資金力によって、男は東シベリア地域に
独自の諜報網を築き上げていると言っていい。内戦の導火線が日々短くなり、地方官憲は
この男をスパイ容疑で逮捕しようとしているらしいが、いっこうに成果は上がっていない。
 
 男の出現時期とドルの現金の組み合わせから、男が葛城梁であることは容易に推定できる。
外観についても背の高さは一致した。ただ風貌となると、誰もはっきりと見た者がいない
らしい。人種的には東アジア人らしいがロシア語でしか会話をしないというし、どこに住処を
置いているかもわからず、どこに行けば会えるかも定まっていない。日本人というのも風説の
域を出ていないようだった。
 「お前がいい話と空の財布を持っているなら、夜と霧の彼方から奴が現れるだろうよ」と
ある老いたバーテンダーは呟いた。

 葛城梁は何を考えている?
 シベリアの情報を集めるために密入国したのか?
 亡命ではないのか?
 CIAの命令だったのか?
 自由シベリア党とどういう関係なのだ?
 諜報網の構築とターニャたちへの襲撃はどう繋がる?
 
 収斂してゆく真実は、まだ犠牲を求めているのだろうか。






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