約束の地なき旅路 <4>



 ウラジオストクを中心に情報を吸着する蜘蛛の糸を張り巡らしているのが葛城梁なら、既に
ターニャとセリザワの入国を承知しているとみなすべきだろう。果たして、彼はかつての恋人と
同窓生をどのように饗応するのだろうか。
 札幌や里中家の山荘のように、歓迎の花束ならぬ小銃を抱えた暗殺部隊が送り込まれると
したら、一刻も早くホテルを引き払い、セリザワの外交官の肩書きが有効なことを祈って逃げる
のが最善の対策だ。セリザワは婉曲に言葉を選びながら、彼女に出国の意志を質した。
だが返答は変わらなかった。
 「私は、待つことにします」
ターニャは葛城梁と会うことだけを考えていた。直接に視線が交錯した直後に彼に殺されて
しまうとしても、自らの生涯がそういう形で裁かれるのだと。セリザワや日本に残る大切な人
たちをそれで守れるなら、代償とすら言えない些細な取引にすぎないと。
 この決意はセリザワの説得を決して受け入れないものだった。

 翌日、再びセリザワは一人街へ出た。ロシア語はできないのだが、英語と日本語、それと
身振りで目指す密売人を捜し当てることができた。さらにいくつかの手筈を整えた後ホテルに
戻りターニャの部屋をノックした時、内懐に2丁の拳銃を隠し持っていた。

 いつもの合図をノックで交換してから招き入れられたセリザワは、上着の形を崩す重量物を
必要以上に丁寧に扱い、銃口が自分にもターニャにも向かないよう用心しながら拳銃をナイト
テーブルに置いた。
 一丁はオーストリア製グロック17。もう一丁はドイツ製のモーゼルHScなのだが、買って
きたセリザワは製造会社の名前しか知らなかった。グロッグ17は世界中に輸出された有名
モデルで信頼性も高いと密売人に勧められ、もう一丁小さいものが欲しいと言うとモーゼルを
出してきたのだ。設計は第二次大戦中だというが、これは戦後に再生産されたもので充分
使用に耐えると。
 室内灯の微光がモーゼルHScのステンレス・スチール製銃身を鈍く反射し、凶器に一抹の
美性を施していた。かつて世界で最も美しい銃と呼ばれていたのだ。
「ターニャ。これを持っていてくれないか」
 セリザワは小さい方のモーゼルを押しやった。イスラム教徒が豚の生肉を見るような目で
彼女は激しい嫌悪感を示す。ターニャは火器について素人と大差ない。ツガルでの訓練で
基本的な構造を習ったぐらいのものであり、実際に射撃をしたこともない。自分で使う道具
ではなく、自分たちに向けられる悪意の象徴に思えるのだ。春野陽子はこれで脅されて誘拐
され、桜町由子は重傷を負い、巻き添えで無関係の人々が死んだ。
 銃は大切な人がいるという幸せを壊すことしかできない。
「どこで、こんなものを・・・・」
 ターニャの声にはセリザワも初めて聞く敵意が乗っていた。彼自身への敵意ではないことは
わかる。予想していたことでもあり、これまでの体験からすれば無理もない、と思う。だが、
それではすまないのだった。
「さっき外で買ってきた。銃社会のアメリカよりも手続きが簡単だったよ。いや、冗談はよそう。
僕も、銃は好きじゃない。僕の祖父が軍人だったことは話したよね。祖父は言わなかった
けれど、多分戦争で敵を殺してる。仕方のないことだったけど、ずっとそのことを悔いていた。
人を死なせると、必ず心は罰を受けるものなんだと思う。僕も誰も殺したくない。だけど、これ
からは必要になるかもしれない。僕らが日本にいる仲間を守るためには、使うしかなくなる
かもしれないんだ」
 ターニャは山荘での戦いがどう終息したのか知らない。だが、乏しい武器で抵抗するしか
無かった彼女たちに楽観などできるはずもなかった。もっとあの場に武器があれば、武器
さえあればという考えがよぎった。
 伸ばした細い指先で銃把の滑り止めの溝をそっとなぞる。
 セリザワの胸に抱かれていたのに、砕けたガラスのような終末が持つ冷たさだった。
「私は使いません。もう誰も死なせたくないから。どんな相手でも。だからセリザワさんが
持っていてください。セリザワさんなら、間違えることなく使うことができます」
「二丁持っていても使えるのは一丁だけだよ。スティーブ・マックイーンじゃないからね。君は
撃たなくてもいい。弾を抜いておいてもいい。いざという時、相手を威嚇するためだけでも
役に立つ」
「でも・・・・・」
 尚もためらうターニャの手を、セリザワは両手で包んだ。
「君が無防備になることが怖いんだ。頼む」

 弾倉に弾が詰まっているにしては、女の力で持っても軽さがあった。これまでこの銃を手に
したことのないターニャには他の銃との違いなどわからなかったが、小さめに造られているのは
すぐに感じた。
 安全装置はかかっている。
 銃把は見たイメージほど大きくなく、両手を使えばしっかり構えることができそうだった。

 電話が鳴った。
 元は白かったのではと思われるクリーム色の内線電話をターニャが取ると、外から電話が
かかっていると告げられ、すぐに外線に切り替わった。

 風。
 それとも空電だろうか。
 何かが震える音がした。
「どなたですか」
 ロシア語での問いに、日本語が返ってきた。

「俺だ」

 その声は、鑿で軟らかな要素を全てそぎ落とされ、剥き出しになったなにかの響きだった。
 かつて愛を囁いたことがあるとは思えない、寒い声。
 もし亡霊に声があるなら、きっと似ているに違いない。
 
 拳銃をベッドに落とし、まるで握っているのが彼の腕でもあるかのように、きつく彼女は
受話器を絞った。
「梁! 梁ね!」
 胸にこみあげる記憶。
 喉を狭める圧迫感。
 かつて、葛城梁に抱いたことのない感情が、出口を求めていた。
「そうだ。そこに男がいるだろう。代われ」
「梁、お願い、私の話を聞いて。もうこんなこと終わりにして。お願・・・」
 切り捨てるように懇願は遮られた。
「代われ。奴に」
「梁・・・・・」
「代わるんだ」

 彼女は悄然と、電話をセリザワに委ねるしかできなかった。
 セリザワは、自分の予想が過たず正鵠を射抜いていたことを知った。
「スティーブだ」
「貴様の了見はわかっている。野良犬に喰われちまえ」
「ひどい挨拶をするものだな」
「貴様に挨拶など要るかよ」
「荒んだな。なにもかも裏切るとそうまで落ちぶれるものなのか?」
「うるせぇ。黙って聞きやがれ。明日の午後4時、市の東にある潰れた貯木場に来い。そこで
ケリをつける」
「わかった。ターニャも連れていくぞ。君に会うために命懸けで帰国したんだからな」
「好きにしろ」
「彼女に代わ・・・・・」
 電話が公衆電話に叩き付けられることで、通話は終わった。
「切れたよ」
 俯く彼女に、反応はなかった。
「少なくとも明日の午後までは、ここに押し掛けてくることはなさそうだ。休んでおこう。明日は
きっと、永い一日になる」
 そう言って、モーゼルを残したままセリザワは部屋を出た。
 
 ケリか。
 それはこっちの台詞だ。
 リョウ・カツラギ。
 全てを償わせてやる。






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