葬られゆく軌跡 <5>



 脱出のために再び琴梨と梢を見張りに立て、ターニャとセリザワはすぐに山荘から退去
する準備に取りかかった。今の彼女たちにとって時間は最大の敵だとも言えるのだ。

 「イクスリィ」に与えられた暗殺命令の実行期限まであと二日。それを過ぎればシベリア側が
疑惑を抱き、国内外で彼女を捜し始めるだろう。内閣情報調査室からの追跡からも逃れなく
てはならず、まだ仮定の話ではあるが葛城梁が再び送ってくるかもしれない刺客のこともある。
 現段階で、どの組織も個人もターニャがシベリアに向かうとは予想していないはずで、その
隙を可能な限り迅速に突かなくてはならなかった。

 ターニャはみんなの前で自分のバッグの中身をぶちまけた。手帳やハンカチ、化粧道具と
いった女性にとってありふれたものが転がるが、彼女はそれらには目もくれず、バッグの裏地を
力任せに破った。
 外皮との隙間から引き出したのは、白い粘土でできているような長方形の板だった。厚さは
1センチほど。その表面にはターニャの指の跡がつき、その硬度の低さが見て取れた。
 まさか、と由子が言い出す前に、ターニャが「セムテックス。プラスチック爆弾です」と告げた。
 爆弾と聞くや、鮎は慌てて腰を引き自分との距離を置いた。葉野香は、どこが爆弾なのかも
わからずに、ただ目を丸くして乳白色の塊を見ていた。
「これがそうなんだ。初めてみたわ」と薫。
「由子は、見たことあった?」
「隊の研修ビデオでね。でもそれっきりだよ」
 彼女の記憶では、セムテックスというのはチェコだかハンガリーだか東欧のどこかで作られて
いた。アメリカ製のがコンポジション4。通称C4だったはず。
「えっと、ターニャ、危なくない、よね。まだ」
「このままなら、落として衝撃を与えたりしても全く危険はありません。爆発させるには雷管を
付けて起爆させるんです。万一のために、置いていきます」
「使い方は私がだいたいわかる。でも、雷管なんてここにある?」
「これを使って下さい」
 ターニャが自分の携帯電話を差し出した。いくつかのボタンを押してみせると、液晶画面に
時間をセットするモードが表示された。
「爆発させたい時間を入力したら、下の充電するところを埋め込んでください。そしてこの
ボタンを押すとカウントが進みます。ゼロになったらこの携帯が雷管の役目を果たして爆発
しますから、時間設定には気をつけて下さい。あと、これだけの量を一気に使うとかなりの
威力が出ます。この山荘が吹き飛ぶぐらいだと思っていてください」
 もしそうなったらどう父親に言い訳したらいいものかと、梢が渋い顔をした。こんなものを
使うはめにならなければいいなと思いながら、由子は携帯とセムテックスを受け取った。

 いくらもない荷物を手に、ターニャとセリザワは玄関へと続く廊下に立った。
「ここからは無事に出られるんだろうね。それが無理なら、私は二人とも行かせないよ」と陽子。
「夜が明けたら監視が強まるでしょう。今が最後のチャンスです。車で警戒線を突破すると
みせかけて、鉄道に・・・・・」
 語尾は階段を飛び降りるようにしてやって来た梢の足音で潰れた。
「外に誰かいるよ!」

 一瞬目を見合わせてから、セリザワは階段を足音を響かせないようにしながら駆け上がる。
追うターニャと梢。
「コトリさん、頭を下げて!」
 押し殺した声で、山荘と麓を結ぶルートを凝視している琴梨を制するセリザワ。彼女は
はっとして身を乗り出していたベランダからしゃがみこむ。全員、似たような姿勢のまま、星も
少ない夜空の彼方に視線をさまよわせる。
「どこにいた?」
「あの大きな木の陰に、一人いたはず。あと、あの柵の向こうに一人。はっきり見えた訳じゃ
ないけど、何かが動いてた」
「動物の可能性は?」
「わかんない。でもそんなに小さくなかった。人っぽかった」
 ゆっくりと探照灯のように暗闇を精査していたセリザワの首が止まる。
「どうやら二足歩行の鹿らしい。あそこに一人いるな。今動きがあった。しかも丸腰じゃなさ
そうだ」

 琴梨とターニャに監視を任せ、セリザワたちは急報に駆けつけた由子たちが集まっている
廊下へ戻った。
「敵だ。まだ偵察しているところのようだが。寝込みを襲うつもりで来たんだな。どうする?」
「話し合いはできそうかな」
 鮎が言う。聞きたくもないし答えたくもない答えが出る。
「そのつもりなら、コソコソ近づいてこないでしょう。襲うつもりだよ」
 張りのない声を葉野香がこぼした。
 いくらかの灯油と台所の包丁を除けば、撃退する手段になりそうなのは一発のプラスチック
爆弾だけ。相手が一人ならともかく、恐らくは銃を持っている相手にどれだけ効果的に使える
だろうか。
 降伏したところで命があるとは思えない。逃げようにも車まで近づけそうもない。八方塞がりの
状況に、誰もが恐怖に囚われていた。

「じゃ、やっつけるしかないね」
 そう言ったのは梢だった。彼女だけは沈滞した雰囲気に呑まれていない。
「こういうこともあろうかと、ってのが決まり文句よね。こういう場合。葉野香、鮎、手伝って」
 二人の手を握り、梢はキッチンルームへ向かう。
「ちょ、ちょっと、なに?」
 半ば引きずるように連れてゆく彼女の背中を、陽子たちも追いかける。注目を一身に集め、
梢は床に目立たないようはめ込まれていた板を持ち上げようとする。かなりの重さがある
らしく、鮎たちが手を貸す。それはよくある床下収納かと思いきや、長さ1メートルほどもある
ロッカーが横置きにされていた。更衣室にあるようなロッカーと違うのは5桁のダイヤルロックが
3つもついていて、さらに二つの鍵穴まである点だ。
 梢は次々とダイヤルを回し、たやすく解錠してゆく。そして最後にポケットからステンレス
スチールの鍵を取り出して差し込む。ガチンという派手な音を立てて抑制を解かれたロッカーが
開かれると全員がプラスチック爆弾を目にしたとき以上に仰天した。
 一目で、中身がが猟銃だとわかったからだ。
 しかも2丁。
 一丁は鹿などを撃つライフル。弾倉には5発入る。もう一丁は2連装散弾銃。引き金が2つ
付いていて、2本並んだ銃身の好きな方を発射できる。散弾銃を渡された葉野香は、その
本物だけが持つであろう質感と重量によろけそうになった。鮎には洗濯石鹸でも入っていそうな
サイズの箱が6つ押しつけられる。描いてある絵からすると弾薬だ。
 もう一丁を手にした梢が、不敵というか、不適当な笑みを浮かべた。
「『セーラー服と機関銃』って感じかな」
 そんな服着てないしこれは機関銃じゃないだろうと思ったのは葉野香だけではなかったが、
とりあえず何も言う者はいなかった。

 まず確実に武装している人数不明の敵にどう対すればいいのかと絶望感すら抱いていた
彼女たちにとって、この銃は望外の期待だった。由子が葉野香から一丁を受け取り安全装置を
確認してから、痛みに耐えつつ構えた。
「本物だね。ちゃんと整備もされてる」
「そりゃそうだよ。パパが毎年使ってるやつだもん。こういう風に保管してるのって違法なん
だけど、重いからって持って帰らないで置いてあるんだ。こっちはライフル。それは散弾銃。
弾もけっこうあるよ」
 銃を下ろした由子はみんなを見回してそれぞれに強い視線を送った。喜んでやるような事じゃ
ないけれど、やらなければ死ぬだけだ。
「じゃ、これで射撃チームを2チーム組もう。射手と観測手と助手。琴梨を観測手にするから、
梢、あなたはライフルを持って上へ行って。まず一発威嚇に撃っていいわ。それからは近づいて
くるのだけを撃って。とにかく、時間を稼ぐのが目的だと思って。向こうも狙ってくるから、撃つ
時以外は陰に隠れているのよ。陽子さん。助手をやってください。弾丸の補給とか」
 二人は頷いて階段へ向かう。
「それと、もう一丁は私が撃つ。葉野香、観測手をお願い。敵の動きをよく見て教えてくれれば
いいから。鮎が助手。散弾銃は射程が短いから、リビングの出窓から前庭まで入ってきた
敵を撃つことにする。行くよ」
 早速射撃位置につこうとする由子を、とんでもない、というように薫が肩に手を置いて止めた。
「由子、その体じゃ無理よ。反動で傷が開くわ。私がやる」
 包帯の巻かれた腕を上げ、その手を外す由子。
「薫」
 その声は、表情は、あらゆる心配を受け止めてなお、毅然としたものだった。
「薫には全体の指揮を執るって仕事があるでしょう。敵がどう動くか予測して効果的な反撃
方法を考えて。そして、私たちを助けて。それは薫にしかできないよ」
 由子にはわかっていた。セリザワのことを見誤ったことで薫がいかに自責し、判断に自信を
失っているかを。しかしそれでも、やはり薫の叡知でなければこれから始まる戦闘を冷静に
受け止め、分析することはできない。
「頼んだよ」
 一方薫も、由子の言いたいことはよくわかる。だが医師として見れば、由子の肉体が実弾
射撃の反動に耐えうるものでないことは明らかだった。傷が開けば、もし敵を撃退できたと
しても、今度こそ出血死してしまう。みすみす犠牲になるのを認めるなんてできなかった。
 その狭間で、葉野香が由子の手から散弾銃をもぎ取った。
「じゃ、私が撃つよ。由子さんが観測手やって。それならいいでしょ。薫さん、後よろしく!」

 廊下には薫と、ターニャとセリザワが残された。
 数秒の沈思を経て、吹っ切った薫は二人に命じた。
「裏から出なさい。二人で」
 山荘の裏手は斜面になっていて、人が通れる道などない。ほんの数百メートルも入れば
フェンスで遮られた狩猟解禁区なのだ。そして北海道の背骨である山脈への入り口でもある。
出口の存在すら怪しいが、他にルートはなかった。
「そ・・・・・」
 みんなを置いて、そんなことできないと言おうとしたターニャは、薫の手で乱暴に突き飛ば
された。
「行きなさい! まだ裏には回られてない。ぐずぐずしてたらシベリアに行けなくなるのよ!」
 セリザワがターニャの手首を握る。
「ターニャ、行こう」
 押し殺された声が、苦渋に満ちていた。
「僕らの使命は、この戦いそのものを止めることだ。ここにいてはできないよ。カオルさん。
後は頼む」
 頷いて、薫は状況を確認するために二階へと上がろうとした。
 途中で振り向いて言った。
「・・・・・そうだ。裏の山は熊が出るから気を付けなさい」
「道案内でも頼むさ」
「そうして」



 パーン。



 梢が引いた引き金が、動物たちの安らかな眠りを妨げた。






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