葬られゆく軌跡 <4>



 葛城梁の意志。
 それは即ち、かつては恋人として扱った女性もろとも、10人近い人命を奪おうということで
ある。
「リョウにとって、向こうでなにをしてようと過去を探られていいはずはない。CIAにも中国人
マフィアにも追われている身となれば尚更だ。僕らを襲わせる理由はある」
 いつもより抑揚の乏しい彼の声を聞きながら、葉野香は思った。セリザワはもう尋問されて
いた時の影響は窺えない落ち着いた表情をしているが、こう可能性を口にするのは苦痛に
違いない。親友によって殺されかけたのかもしれないのだから。
 ふっと軽く息を吐いてから続ける彼。
「最後の可能性はCIAだね。リョウがシベリアに亡命したなんて事実が知られたら大打撃だ。
事態そのものを隠蔽するために僕たちを始末しようとしてもおかしくない。僕がアメリカ人
だからといって遠慮するほど気のいい連中とも思えないしね。
 今のところ、どの可能性も否定できないけれど、可能性が高いのは・・・・・」
 ここで梢が大きく腕を振って話を遮った。
「可能性で決めるわけにはいかないよ。さっきだってそれで間違ったんだから。なんとかして
ちゃんと納得いくように確かめないと」
「でも、どうやって」
「わかんない」
「わかんないよねぇ」
 由子のため息とともに議論が止まってしまった。既に手つかずの手がかりはなくなって
いるし、この場から出られないのではなにをするにしても制約が多すぎる。各自が使えそうな
方策を脳内で探り始めたとき、ターニャが言った。
「確かめる方法はあります」と。
「私が、シベリアへ行きます。そして梁に会います。そうすればなにもかもがはっきりするはず
ですから」

 暫くの間、疑問も反対も出なかったのは、彼女の毅然とした意志が揺るがし難いものだと
伝わったからだろう。自らの生死を顧みない決意が、微かに緑を反射する瞳に浮かんでいた。
「で、で、できるの? そんなこと。どうやって行くの?」
 何から言っていいものかと、どもる琴梨。
「正規のルートでは不可能です。貨物船なり漁船なり、梁と似たような手段に頼ることになる
でしょう」
「一人で? それって危険すぎる。葛城だって撃たれて死にかけたんでしょ。それにお金だって
かかる。とても無理だよ」
 ナンセンスだとばかり、大きな身振りで却下しようとする鮎。
「お金のことはどうにかします。工作資金としてシベリアからいくらかの資金を委ねられて
いますし<第四部から渡されたお金もありますから、それを遣えば足りるかもしれません。
足りなかったら、その時はその時です。危なくなった時も、その時はその時です。ここで
考えていてもどうにもならないんですから」
 不思議なほど穏やかな微笑みがターニャ・リピンスキーを彩っていた。いつも慎重で、
控えめで、萎縮していたような彼女とは別人のようで。誰の前でも楽観を一度だって示した
ことはなかっただろう彼女が、「その時はその時」などという表現を使った。
 思えば、彼女の生涯で一度でも楽観が現実のものとなったことがあっただろうか。家族を
奪われ、故郷を失い、祖国に欺かれ、やり直す機会は利用され、恋人は傷跡だけを残して
去った。
 あまりにも失いすぎてしまった彼女。
 あまりにも裏切られてしまった彼女。
 どうして微笑むことができるのか。
 それを知りうるものは、きっとここにはいないのだ。

 椅子に座っているにもかかわらず、いと高き存在へと昇華したような彼女に、幻想的な感覚
すら感じていた琴梨たち。セリザワもターニャの微笑みに目を奪われていたのは同じだった。
何秒かの自失の後、言うべき事に思い至った彼。
「シベリアへのルートは僕がなんとかしよう。まだ僕は外交官だからね。休暇が長引いた
せいで解雇されていなければだけど。なんとか君がシベリアに入るための書類を用意できる
はずだ」
 一旦言葉を切り、なかなか正視できないでいたターニャの瞳を覗き込んだ。
「だけど、リョウに会えば解決するとは限らない。もし僕らを狙ったのがリョウなら、無事では
済まない。それでも行くのか?」
 交叉した視線は僅かな距離をおいてすれ違い、それぞれの思惟を変えることはなかった。
「行きます。行かなくてはならないと思います」
「なら、僕も行こう」
「それは、いけないです。セリザワさんまで」
 危険な目にあってはいけないと言おうとしたターニャだったが、言ってしまえばみんなが
ターニャ自身の渡航を止めようとするだろうと思い至り、途中で口を噤んでしまった。
「なに、僕は特別なことをしようっていうんじゃない。君の送り迎えをするだけさ。君がシベリアに
入るなら、アメリカ合衆国の外務官僚の通訳として入るのが一番自然だ。だろう? リョウと
会って話をするっていうのは、君に任せるよ。もし僕が会ったら、殴り飛ばしてしまいそう
だからね」
 冗談めかそうとしてみたが、無表情の枠から外れて笑えたのは唇のほんの一部だった。
「そして、終わったら」
 まっすぐに彼女を見つめるセリザワ。
「アメリカに行こう」

 彼は席を立ち、皮膚が擦り切れて痛む足首のことなど忘れたかのようにターニャに歩み
寄った。
 そしてその両手を取る。
 彼女の作品のように、指先は冷たく、しかし柔らかかった。
「シベリアもロシアも日本も、君を受け入れはしなかった。でもアメリカは違う。アメリカは
自由の国だ。アメリカなら、君の人生を君のものにできる。君が君のために生きることができる」
 彼女の戸惑いを払拭したくて、セリザワは日本語から言葉を探した。
「市民権だってちゃんと取れる。仕事だってあるさ。CIAなんかには何も言わせない。君の
権利は僕が必ず守る。なにも不安なことなんてなくなる。本当になにもかもやり直せるよ。
ターニャ。一緒にアメリカに行こう」
 情熱的に向けられた言葉をどう理解していいのかわからないターニャは、触れ合っている
肌から伝わる感覚を持て余し、左右へと視線を振った。こほん、と意図的な咳払い。
「そういうのは、二人きりの時に言った方がよくなくて?」
 そう薫が言うと、セリザワは慌てて手を放し苦笑いをしてみせた。
「あの、そういうつもりじゃなくて、その・・・・・」
 顔を赤くする彼から、ここ何日も味わっていなかった和やかな空気がもたらされた。
なるほど、という人の悪い笑い方を由子や梢が浮かべる。
 そのなかで、春野陽子だけは真剣な口調で言った。
「スティーブ。私らはターニャがシベリアに行くってのは気が進まないけどさ、あんたがちゃんと
無事に連れ出せるって約束するんなら、二人で行くのを認めるよ。どう? 約束できる?」
「できるさ。この身に代えても」
「・・・・・わかってないね。ターニャだけ脱出できてどうするのさ。それはまたターニャを傷つける
ことになるんだよ。だから、一緒にじゃないと意味無い。あんたがターニャを連れ出す。
それができる?」
「ああ。やってみせるさ」
「それじゃ、それからのことは二人で考えるといいさ。みんなも、それでいいよね」
 敵地であるはずのシベリアに送り出すことには不安を拭いきれない面々だったが、陽子が
ターニャのことを心底案じて出した答えとなれば、頷くしかなかった。
「でさ、その間私たちはどうしてたらいいんだろうね」
 琴梨が問う。
「もう、ここも嗅ぎつけられているでしょう。第四部には。ですから、夜明け前にはみなさん、
ここを出て下さい」
 ターニャの計算では、第四部が離反した彼女を拘束するまでにあと一日は残されていない
はずだった。連絡が内閣情報調査室まで上がり、命令となって現場チームへ届くまで2日。
既にここを制圧するための準備が整えられていると推察しなければならない。
「そして何人かで、どこかホテルのようなところに分散して籠もっていてください。私が
シベリアに入国したら警察へ行って、私の名前を出して、あとは黙秘していて下さい。すぐに
第四部が関与してくるでしょうけど、警察と第四部の関係はよくないですから、簡単に引き
渡されることはないでしょう。その間に、私が真相を突き止めます。もし私が失敗しても、
本当のことを話せばみなさんが罪に問われることはないはずです。
 ただ、黙秘を続けるのは辛いはずです。厳しい尋問になるでしょうから・・・・・」
「安心しなよ。それぐらいへっちゃら。ターニャが戻ってくるまで世間話でもしてるからさ。
気にしないでしたいことをしてきな。後悔しないようにね」
 まだ背中の痛みを隠し切れないでいる由子の言葉に、ターニャは深い決意を胸に頷いた。






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