葬られゆく軌跡 <3>



 スリーパーに与えられた最後の命令。
 それは、自らの存在と引き替えに、日本政府の総理大臣を暗殺することだった。

「あ、暗殺!?」
 思わず裏返った声で単語を繰り返してしまったのは梢だった。
 ターニャは答えない。
「そんな、そんなの、できないでしょ。ターニャにそんなこと。できないでしょ。ね」
「私は射撃や格闘術の訓練は受けていません。ひととおりの知識があるだけで。ですから、
もっと単純で確実な方法が指示されました」
 全員が無言で続く言葉を待つ。
「・・・・・服の下に、プラスチック爆弾を巻いて、接近して起爆させるという方法です」
 生理的な嫌悪感すら感じさせる自殺任務を、彼女は静かに語った。
「Not so smart bomb....」
「え? なんて言ったの」
 セリザワの呟きに鮎が訪ねる。
「ノット・ソー・スマート・ボム。日本語だと、そう、『愚かな爆弾』かな。ハマス(イスラム原理
主義のテロ組織)やタミル人のテロリストがよく使う手なんだ。体中に爆弾を巻いてバスの中や
人混みで爆破する。当然テロリストは死ぬけれど的確に望む時間に狙ったところで爆破が
できる。事実上防止のしようがない。
 スマート、つまり『賢い』トマホークミサイルのような精密誘導爆弾と似た性能があるけれど、
狂信者でないとできない手段だから、軽蔑の意味を込めて『愚かな』爆弾と言われてるんだ。
相手が政治家なら必ず市民と接触する機会がある。そこを狙えば、いくら護衛がいても
確実に成功するだろう」
 春野陽子が鋭い視線をターニャに向けた。
「そんなこと、本当にするつもりなの、ターニャ。そんなことで死ぬつもりなの? 絶対にそんな
ことしちゃいけないよ。どんな理由があってもね・・・・・」
 自爆テロという醜き犯行などさせるものかという慈愛に裏打ちされた強い意志が、厳しい
言葉の中に満ちていた。頷くことも首を振ることもできずに、ターニャは俯いた。
「それを決めるのは、私ではなく第四部の人たちでした。私の偽装、二重スパイになったと
いう事実を秘匿するために首相を見殺しにするか、爆破はしても首相は難を逃れた形に
するか、未遂で逮捕することにするか、いくつかの対応が考えられます。まだ結論は届いて
いません。期限はあと10日。8日後に首相が街頭で演説をすることになっていますので、
その時が最後の機会でしょう」

 チェスボード上の駒のように、先を読んで動かされる彼女。より大きなメリットのためには
餌として敵前に投げ出され、罠にかけるために捨て駒として進まされる。一度盤面から退場
すれば、再び戻ることのないデス・ゲーム。そが彼女の世界だった。
「ですけれど、私は暗殺を実行するつもりはありません。ここに来て、そう決めました。もう
シベリアからの命令も第四部の命令も受けません。この事件を終わらせます。方法はきっと
あります。みなさんが元の生活に戻れる方法がきっとあるはずです。それを見つけ、実行する
ことが、私のできる唯一の罪滅ぼしになると、思っています」


 彼女の優しさも純真も通用しない病んだロジックに、誰もが冷たく圧迫されていた。


「僕はターニャの話を聞きながら、これまでのことを見直してみた。そして、わからなかった
ことに説明がつけられるようになった。聞いてほしい」
 そう前置きしたセリザワは、ゆっくりとテーブルの側を行き来しながら語り始めた。
「この一件には、大きな4つの勢力が関わっている。CIAすなわちアメリカ合衆国政府。
ロシア共和国。自由シベリア党の支配するシベリア。そして日本政府。この四ヶ国が最も
強い利害関係を持っているのは、当然シベリアの独立問題だ・・・・・」

 シベリアとロシアの交渉は決裂寸前で、内戦の勃発は確実視されている。各国の立場は
こうだ。

 ロシア共和国は経済面でいくらかの妥協をしてでも平和的な解決を望んでいる。停滞しきった
経済状況では戦費の負担に耐えられないし、チェチェン紛争で白日の下に晒された軍事力の
衰退が一層喧伝されるからだ。
 しかし、シベリアはロシアの将来にとって不可欠な富を埋蔵している。もしここを失えば21
世紀のロシアは農業国としてしか生きられないだろう。独立を認めるぐらいなら、いかなる
軍事的犠牲を払ってでも反政府勢力を鎮圧に動くだろう。


 一方自由シベリア党の行動は不明瞭である。もともと経済的な不均衡を改善するよう求めて
始まった政治活動が、いつの間にか反クレムリンというイデオロギー的対立になっている。
シベリアの軍事力は離反したロシア軍からなっているが、兵数の面でも武備の面でもロシア
軍には及ばない。ただ戦略ロケット軍部隊も一部合流しているので、核兵器とそれを飛ばす
能力を備えているため核抑止力は充分である。
 最大の弱点は兵站で、生産力の低いシベリアでは長大な戦線で長期間抗戦することは
無理な話であり、内戦となれば山岳部を中心にしたゲリラ戦を行うしかなくなるだろうと
見られている。


 アメリカ政府はシベリアの独立には反対の立場をはっきりと示している。理由はいろいろ
あるが、ロシアとの協調体制を維持したいという理由と、核保有国が増えることを認めないと
いう国是が表向きはある。正直に国務省の立場から言ってしまえば、現在の東アジアの
秩序を変えたくないというのが本音だ。
 開戦すれば国連軍を結成してでも阻止に動く。仮に諸外国の同意が得られなくても、地上
軍はともかく海軍の機動部隊と在日米軍の航空機で空爆してでも介入するつもりだ。


「あとは、日本政府の対応なんだが・・・・・」
 ここまで外交のプロフェッショナルらしく理路整然と国際情勢を分析してみせたセリザワが、
言いよどんだ。
「僕は日本に来る前、韓国でこの問題を討議する会議に出ていた。日本と韓国の担当官とね。
韓国はアメリカの立場をよく理解してくれた。アメリカはかつて韓国のために血を流したから、
貿易交渉で懸案があったりしても安全保証問題ではまず意見が対立することはないんだ。
日本の場合も、このシベリア独立問題については同じような対応が望めると思っていたん
だが、そうはならなかった」

 在日米軍基地の使用には難色を示すだろうとは予想されていたが、国連安保理に提議
する予定だった対シベリア非難決議にまで同調しない可能性をほのめかされた。この決議
自体は実行力を備えたものではないが、後々経済制裁を加えるための決議や国連軍結成に
向けた対応が視野に入っており、ここで非常任理事国であり東アジアの大国である日本が
消極姿勢を示せば国際社会でアメリカが支持を求めるにあたって大きな障害となる。
 なによりも、そうする理由が判らないという点が不自然であった。

 日本にとってシベリアで起こる内戦など迷惑なだけである。かつて朝鮮戦争で享受した
戦争特需などこの場合はまるで望めず、地域の緊張が高まり経済活動に支障をきたす
だけのはず。

 水面下で日本の外務省に探りを入れたところ、官邸すなわち総理周辺の意向が働いている
らしい。現在の総理、伊勢原正和はかなりのタカ派として知られており、アメリカと協調しながら
国際的な影響力を増大させようする政治姿勢はワシントンで好意的に受け取られていた。
国内の支持率は低迷する経済のせいで落下の一途を辿っているが、アメリカとしては日米の
パートナーシップにのっとった対応が期待できる政権のはずだった。

「結局僕らには日本の消極姿勢の表していることがわからなかった。でも、ターニャの話を
聞いて、日本がアメリカとは違う形でこの問題に関わろうとしている気配を感じたよ。
なにか策があるんだ。その切り札のひとつがターニャなんだ。その筋書きに沿って彼女は
取り扱われる。もし死ぬことになっても。国家のためならやむを得ない犠牲だということでね」
「冗談じゃない」
「そんなこと、させるもんか」
  激が次々に吐き出された。国だろうか政府だろうが、ターニャを人身御供にして得をしよう
などという考えなど決して許せるものではない。
「待ってくれ。僕も同じ気持ちだけど、ここは感情的になるべきじゃない。冷静に対策を考え
よう。ターニャが言ったように、僕ら全員が無事に逃れられるような方法を考えなくちゃならない」
 みんなの考え方が沈静化するまで待って、セリザワは続けた。
「まず、原点に戻ろう。リョウ・カツラギとは何者か。CIAからターニャを獲得するために派遣
された工作員。これは間違いない。そして今はCIAから追われて、大金を手にロシアへ、いや、
シベリアへ渡った。あの時点で、沿海州の港はどこもシベリア独立勢力が押さえていたわけ
だし、モスクワに行きたいならわざわざ船は使わないだろう。ここまではいいね」
 同意を確認してから語を継ぐ。
「お金の入手先は不明だけれど、まともな性質のものではないと思うしかない。CIAに追われる
原因がそこにあるんだろう。中国人に襲われたこととも関係があるのかもしれない」

「自分が死んだことになるために、追っ手の一人を犠牲にしている。そうやって時間を稼いで
なにをしたのか。シベリアで何らかの活動をしていると教えてくれたのは風祭さんだね。
そこがわからない」

「一方僕たちは二度の襲撃を受けている。陽子さんの誘拐事件は中国人マフィアが葛城梁を
探してのことだとわかった。でも僕らが一斉に命を狙われたのは別の組織によるものだろう。
彼らには理由がもうないしね。
 他の可能性は三つ。まずは日本政府が僕たちの口封じをしようとした。あまりにも知りすぎ
た僕たちが危険になったからだ。ターニャにシベリアからの命令を実行させる障害になると
判断されたのかもしれない。そしてもう一つのの可能性は、リョウの意志だ」






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