罪と呼ばれしもの <7>



 浜辺に打ち上げられた魚のように喉を喘がせ、足が止まったのは人影のない小川の畔だった。
 耳鳴りが止まない。
 血管を流れる血流が滝のようで。

 ある記憶が、蘇る。
 シベリアの短い夏が始まる直前の日。父はそっとターニャだけを連れてミールヌイ#17の
後背地にある森へと山歩きに出た。彼女の物心がつく頃から毎年行っていた、名称のない
行事。古びた風景と、道のない隘路を背負われて進んでいた思い出がある。

 最後に行ったのは、11歳の時。日本へ入国する前の年だ。足を雑草や岩に取られながら、
ターニャは森の奥へと進む父の後をついていった。
 夏になれば、薮蚊の大群に占領されてしまう森。
 1時間以上も歩くと、突然、開けた場所に出る。
 かつてはここも針葉樹が天を貫くように林立していたのが、苔むした切り株からわかる。

 中央には、雑草で覆われた1メートルほどの高さの盛り土があった。

 父は、それがなんなのか一度も話したことはない。半日以上かけて雑草を手で抜き、周囲に
花の種を植えるだけだった。ターニャも指先を緑色に染めながら手伝った。それが大事なこと
だと、父の表情からわかったから。
 その種は、パーヴェルが日本に入国するたびに買い求め、密かに私物として持ちこんでいた
日本の花だった。
 シベリアの環境では、まず生育できないものばかり。
 それでも彼は毎年、ここに来て、種を蒔いていた。

 父は帰り際に、いつもこう言うのだ。
「ここのことは、誰にも話したらいけないよ。母さんにもだ。だけど、決して忘れないでいておくれ。
ここに日本の花が咲くのは、とても意味のあることなんだと」

 意味。
 やっと、わかった。

 あの盛り土は、ツガルを建設したシベリア抑留者の墓なのだ。大工の技能があるというだけで
選抜され、強制的に建設に従事させられ、機密保持のために密殺された日本兵の。墓標も碑も
なく、ただ撃ち込まれた銃弾だけを抱いて瞑る死者。
 いや、瞑ってなどいない。
 柴森老人が言った。
 あそこでは、魂になっても凍えていなくてはならないと。
 今、この瞬間も、あの墓には異郷に果てた日本人の怨念が渦巻いているのだ。
 だから、父は日本の花を植えようとしたのだ。
 鎮魂のために。
 決して祖国へ戻れない遺骨のために。

 そして、私を連れて行った理由もわかった。
 ツガルがいかなる犠牲の上に築かれたのかを、いずれ知ることができるようにだ。
 父は、私がスパイになることなんか願っていなかったんだ。
 自分が日本を大切に思うように、私にもこの国を好きになってほしい、好きになっていいんだと
言っていたんだ。


 お父さん。
 ごめんなさい。
 お父さん。
 ありがとう。




 もう、仮面を被って生きていくなんてできそうもなかった。日本の人を騙すのも裏切るのも欺く
のも、それが正しいことだと、必要なことだと教えられていたからこそやってこれたのだ。
幻想から解かれると、自らのこれまでの行動が耐えがたいほどに恥辱的に思えた。
 しかし、もしそんな考えが知られたら、父も母もKGB高官である祖父ですらも叛逆者の家族と
して収容所に送られてしまうだろう。
 どうしたらいいのか。
 旅行から戻って以来、ターニャは父からの手紙を読み返しながら考えあぐねていた。

 そしてある日、妙なことに気付いた。
 改めて、分析的に手紙を読み返して、疑惑は一層高まった。
 いつも「愛する我が孫娘、ターニャ」で始まり、「体に気をつけて」で締め括られる、祖父に偽装
して父が書いている手紙なのだが、どこかおかしい。
一見、いつも変わりがないことがおかしい。

 特に、1991年9月の手紙が。

 1991年、8月。
 歴史の教科書には、こう書いてある。
 「ソヴィエト連邦にて反ゴルバチョフクーデター」

 1991年8月18日午前6時。ソヴィエト連邦国営放送タス通信とラジオ・モスクワは、「ミハイル・
ゴルバチョフ大統領が健康上の理由により職務を遂行できなくなったため、ゲンナジー・ヤナーエフ
副大統領が大統領職を代行する」と発表。「国家非常事態委員会」が結成され、ヤナーエフ、
ヤゾフ国防省、プーゴ内相、パブロフ首相、バクラーノフ国防会議第一副議長、スタロドプツェフ
農民同盟議長、チジャコフ国営企業協会議長が名を連ねた。後に「8人組」と呼ばれた彼らを
主導したのが、KGB議長ウラジミール・クリュチコフであった。

 ゴルバチョフのペレストイカ政策に抵抗する保守派が企てた奪権行為は、わずか3日ほどで
終焉を迎えた。熱心な改革派でありながら、保守派からの圧迫で辞任していた前大統領主席顧問
ヤコブレフと前外相シュワルナゼがボリス・エリツィンを支持してクーデターに立ち向かい、改革と
解放を求めたモスクワ市民は、もはや上からの命令に従うだけの奴隷ではないのだとはっきりと
示した。動員された軍隊も8人組の指揮から離脱し、勇気ある数名の市民の犠牲だけでクーデ
ターは瓦解してしまった。別荘に軟禁されていたゴルバチョフはモスクワへ迎えられ、8人組の
全員が逮捕されるか自殺するという末路をたどった。

 紆余曲折を経て、ソヴィエト連邦という巨大な実験は終幕を迎えた。ゴルバチョフは残骸と
ともに去ることを余儀なくされ、エリツィンが独立国家共同体の一国となったロシア共和国の
大統領に就任した。

 しかし、ターニャにその変化が波及することはなかった。

 国家体制が変わりKGBの議長には改革派であるが素人同然のワジム・バカーチンが就任
した。KGBそのものが「共和国を監督する組織」から「共和国に奉仕する組織」へと再編されようと
していた。数百万の人員は大幅に削減されることになり、教条的な共産主義者は一方的に
僅かな年金だけを代償に解雇されていった。

 彼女は崩れゆく帝国の姿を新聞やテレビで見ながら、父と母がどうしているのか。KGBが解体
されることで苦しんだり困ったりしていないかと心配になった。しかし父からの手紙には平穏な
暮らしばかりが綴られていて、伝えられる食料や燃料の不足などからは無縁だと記されていた。
KGBの特権性から物資の配分が優先的に行われていたツガルでの生活しか知らなかった
ターニャは、届いた時には手紙の内容を疑うこともなかった。西側マスコミの報じるソ連経済の
危機は、資本主義国の国民が共産主義に憧れるのを防ぐために意図的に作られた虚報だと
信じさせられていたからだ。
 だがクーデターの惨めな失敗という現実を自分で判断してみると、KGBの存在そのものが
危殆に瀕し、積み重なった国民の憎悪を浴びている時期に、KGB職員が安楽に過ごして
いられるものだろうか。

 心配をかけたくない。そう思って手紙には本当のことを隠していたのかもしれない。だが、
父ならその機会になんらかのメッセージを送ろうとしたはず。私がスパイでなくなることを望んで
いた父なのだから。
 でも、手紙に変わったところはひとつもない。

 手紙は父が書いてから、ツガルの上層部によって慎重な検閲を受ける。ターニャの正体が
露見するような情報が含まれていないか。偽装と矛盾するようなことが書かれていないかと。
だから、たとえ父が祖国の在り様に疑問を抱いていても決してそのまま書くことはできない。

 しかし、そのままでなければ書ける。

 ツガルでは、当然ながら暗号について学ぶ。単一換語式、転置式、公開鍵方式、素数暗号と
いった各種の暗号方を自ら作成し、解読できるようにならなければスパイは勤まらない。これらは
一見して暗号と分る意味不明なアルファベットやキリル文字と数字の羅列である。
 そして平文に偽装した暗号というものもある。予め発信者と受信者がルールやキーワードを
決めておき、それにしたがってアルファベットやキリル文字を再展開すると真のメッセージが
浮かび上がるというものだ。

 父とターニャの間にそんな取り決めはなかった。
 なかったのだが・・・・・。

 はっと気付いた。
 ツガルを離れる時、父が自分を抱きしめて囁いた言葉を。
 「アクトロイ・スワヨー・セルツェ」
 心を開きなさい。

 どうしてこう言ったのか。
 潜入スパイとして生き抜くには、不自然なアドバイス。

 心を開きなさい。

 私は、今、そうしようとしている。

 まさか、この言葉が鍵?


 ターニャは日本に入国して最初の手紙を取り出した。そしてノートとペンを。
 「アクトロイ・スワヨー・セルツェ」という文のキリル文字を一列に並べ、番号を順にふってゆく。
重複したものは飛ばす。続いて使われていないキリル文字に暗号独特のルールで数字を
割り当てる。さらに中国式算術によって数字を変化させる。こうして文字と数字の組み合わせを
作ってから、父の手紙の一文字ずつに数字を当てはめてゆく。こうしてできる数字の羅列を
鍵語となる「アクトロイ・スワヨー・セルツェ」という言葉を使って再転換する。

 2時間近くかかってノートの上に残ったのは、意味をなさない大量の文字列と、あまりにも短い
父の本当の言葉。ターニャは体調不良を理由に仕事を数日休み、全ての手紙を解読していった。

 1991年1月の手紙。
「自分を信じなさい。自分のために生きなさい」

 1991年2月の手紙。
「逮捕された」

 KGB将校を逮捕できるのは、KGBしかいない。

 1991年3月の手紙。
「エレアナはコリマへ送られた」

 コリマというのは、シベリア北東部にある川と山脈の名。そこには永久凍土とKGBの強制
収容所しかない。意味するところは明らかだった。

 1991年4月の手紙。
「拷問と尋問」

 1991年5月の手紙。
「生きている」

 1991年6月の手紙。
「生きている」

 1991年7月の手紙。
「エレアナが死んだ」

 1991年8月の手紙。
「ティクシに送られる。さよなら。娘よ。」

 ティクシ。北極海に面した、KGBの運営する強制収容所のうちでも最も苛酷と内部でのみ
囁かれる、暗黒の地。看守もいないし柵も監視塔もない。労働や思想教育を強いられることも
ない。
 ただ、放置される。
 家も、着る物も、食料も与えられずに。
 素手だけで住むところをつくり、獣を捕らえて糧とし、皮を剥いで衣服にする。それができねば、
死ぬしかない。
 人間を原始時代に還す施設。それがティクシである。生還者はひとりもいない。この苛酷な
環境では冬の足音が聞こえるだけで命が絶えるのだ。KGBが自らの組織にいた裏切り者を
見せしめとして処断するためだけに存在している収容所。そこに父が送られた。

 次の手紙からはいくら解読しても、でたらめにタイプライターを叩いたような無意味な文字しか
取り出せなかった。






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