罪と呼ばれしもの <8>



 慈しんでくれた父と母。
 いつか任務を果たせば、また一緒に暮らせる。
 そう信じていた。

 なのに。





 2年も前に、私は一人ぼっちになっていたんだ。







 どうして自分が12歳という年齢にも関わらず出国させられたのか、やっとわかった。体制への
叛意が見抜かれていた父は母と祖父と共に、私の入国が確認されるとすぐに逮捕されたの
だろう。そして尋問と拷問を受けながらも、私への手紙を書かされていた。
 私をスパイにさせ続けるために。
 きっと書きたくなかっただろう。
 でも、書かなければ筆跡を偽造して書かれるだけのこと。
 1991年9月からの手紙がそうであるように。だからこそ、父は複雑な暗号を必死で脳裏に
組み立てながら偽りの平穏を書き綴った。いつか私が心を取り戻す日のために。いつか私が
心を開く日のために。

 母は、コリマ川近くの収容所で辛苦に喘いでいたのだろう。もともと体の強くない母が3ヶ月も
耐えられたのが驚きですらある。きっと、父の口を割らせるために人質として生かされていたの
だろう。考えたくもないことだが、肉体をKGBの慰み物とさせられて。

 そして、死んだ。
 老いていた祖父もそうだろう。

 父はそれでも屈しなかったのだ。共産主義体制が自壊しかけていたあの日々に、いずれ
ロシアに新しい時代が来ると信じて。だからこそ、KGBは父を生かしておけなかったのだ。
裏切り者はこういう末路を辿るのだと、父を使って証明したかったのだ。

 母の墓は、父の墓は、どこかにあるのだろうか。
 愛し合っていた父と母は、どれほど遠くに眠っているのだろうか。
 誰かが、花を供えてくれることはあるのだろうか。
 ツガルの奥にあった日本人抑留者のように、墓標もなく横たわっているのだろうか。





 もう、ロシアはふるさとじゃない。





 数日後、仕事に復帰したターニャは1通の手紙を投函した。
 記した宛先は、東京都千代田区霞ヶ関にある公安調査庁。

 そこに全てを告白した。
 スパイとして入国していたことを。
 ツガルという機関のことを。
 自首し、罪を償うつもりだということを。
 そしてもし叶うのなら、亡命者として受け入れてほしいということを。

 雨の日曜日。
 夜の帳が下り、秋が落葉に最後の恵みを与えているのを膝を抱えながら感じていたターニャ。
いつ職場に警察官が現れて連行されてもいいように私物をまとめておいた部屋は、光が
なくなるとさらに空虚だった。
 みんなの前で手錠をかけられて、従容としていられるだろうか。
 みんなの顔を見られるだろうか。
 お別れを言えるだろうか。
 私は何と言われるだろうか。
 どんな目で見られるだろうか。

 いつか、許されるときが来てくれるだろうか。

 空にした机の引き出しに謝罪の気持ちを書いた手紙を入れて、彼女は待っていた。

 そして寮の電話が鳴った。受けた寮母が廊下を歩いてくる。
 「ターニャ、手紙を貰ったって人から電話だけど、心当たりある?」

 翌日の昼休み。彼女は電話で取り決めた待ち合わせ場所である小樽運河沿いの倉庫跡へと
1人、出向いた。
 仕事が終わってから、ここを散歩するのが好きだった。川面を走る風が季節の香りを運んで
きてくれるから。夕焼け色の街灯が石畳の舗道に描く模様がきれいだったから。少しだけ偽の
故郷、ナホトカを思い出せたから。
 もし、本当にナホトカが私のふるさとだったなら。
 もし、私がガラス職人の娘としてだけ産まれることができたなら。
 もし、ソ連なんて国がもっと早く滅びていたなら。

 「ターニャ・リピンスキーさんですね」
 待っていた壮年の男性2人のうち、年長の方がそう声をかけた。どちらも帽子を被ったラフな
服装で、観光客然とした土産袋を下げていた。目立たないための偽装だと彼女には一目で
わかった。きっと見えないところに複数の銃器を備えたた支援者がいるだろう。しかし、わざわざ
探す気などなかった。
 「そうです」
 ひとつ咳払いをして男は帽子を被り直した。彼女の視線から顔を隠すように。
「最初に申し上げておきますが、私は公安調査庁のものではありません」
「でも、昨日の電話では・・・・・」
 当惑するターニャの語尾を遮って、名刺が差し出された。
「方便を使わせてもらいました。そうしないと来て頂けないかと思いましてね。私は、こういうもの
です」
 
 内閣情報調査室 第4課 課長 馬場守人
 馬場は名刺を渡さずに上着のポケットへ戻した。
「申し訳ないが、この名刺は差し上げられません。私の表向きの肩書きはまた別のものでしてね」
 内閣情報調査室の存在は潜入スパイとして新聞の報道には敏感だったターニャも知っていた。かつては内閣調査室と呼ばれていたが、最近、元警察官僚の政治家が中心となって政府の
情報収集能力を向上させようと設置した組織だと。
「日本で防諜を管轄するのは、警察庁の公安部と公安調査庁のはずですけど、どうしてあなた
が?」
「手紙はちゃんと公安調査庁に届きましたよ。いろいろあって、私どもの部署があなたの話を
伺う事になったんです。よろしいかな?」
 実際は激しい縄張り争いがなされた挙句にターニャを所管する部署が決定したのだが、そう
いった事情を教えるつもりなど馬場にはなかった。
 乱数化された手紙が届いてから、公安調査庁では事情を知る少数の幹部職員が左右に
別れての大論争を連日続けていた。文面を信じる者と、なんらかの目的を持って意図的に
送り込まれて来た逆スパイだと断じる者との対立である。それぞれに根拠を持ち、信念と
個々人の洞察力によって主張しているようにも見えなくはないが、非公式なルートで公安
調査庁の内情を知る事のできた内閣情報調査室(情調)の上層部にしてみれば、事態は
「スパイを何十年も検挙できないでいた古参」と「この機会に昇進の道を塞いでいる上役を排除
しようとする若手」の権力闘争でしかなかった。
 また改組されて日の浅かった情調の最高幹部の1人であった馬場は、霞ヶ関に影響力を持つ
人物が複数動いた事で、公安調査庁から自らのデスクに手紙の原文と一切の権限が持ち
込まれたことを知っていた。
 
 情調が奉仕する国家が、どのような彼女の処遇を望んでいるのかも。

「逮捕、するんですか?」
 そう問うてくる彼女の瞳を、馬場は見たくなかった。
「いいえ。そんなことはしません。しかし長い話を聞かなくてはなりませんから、仕事を1ヶ月ほど
休んでもらいます。心臓が良くないとのことですから、都内の病院に入院するという形式を
取ります」
 ターニャは手紙で心臓の事は触れていない。この面談前に情調が彼女の身辺を洗い上げた
ことを示していた。
「それから、どうなるんですか」
「・・・・・それは、あなたが決めることになります。全てを話してもらってから。今、お約束できる
のは、あなたが協力的であれば丁重にもてなし、絶対に危害を加えないということだけです」
「そう、ですか」

 急に病状が悪化し、東京の専門医による治療を受ける必要がある。こういう名目で、彼女は
馬場とその部下数名に囲まれて東京へと民間航空機で移動した。部下は明らかに格闘技の
経験が豊富な体格をしており、空港の金属探知機をフリーバスで通れるだけの権限を持っていた。
彼らが軍人なのか警官なのかはともかく、彼女と馬場を無事に送り届けるために一瞬たりとも
気を抜こうとしなかった。

 もし彼女の行動が母国に伝わったなら、自国民が日本政府に拉致されたとロシア外務省が
激烈な抗議をしてくると同時に、大使館からKGB改め連邦保安局の駐在員が飛んで来て、
ターニャを翻意させようと説得を図るだろう。無論、亡命などすればロシアに残る近親者が厳罰を
受けることになるという脅迫も加わって。
 だが、これなどまだ穏当な反応である。工作員に喋られるぐらいなら殺してしまえと、元スペツ
ナズの暗殺者に任務が与えられているかもしれない。それほどターニャの持つ情報は機密性の
高いものなのだ。護衛官が真剣になる理由は余るほどあった。

 政府と関係の深い大学病院の個室病棟に入院するという形を取られたターニャの元には、
連日二人の専属調査官が訪れて彼女の供述を書き取っていった。彼女も素人ではなく、自室が
隠しカメラによって24時間モニターされ録画されていることは承知の上である。そんなストレスに
耐えながら、彼女は質問に誠実に答えていった。「イスクリィ」と名付けられた者の過去の全てを。

 ツガルで養成されていた工作員の氏名と容貌を特定するため、数万枚はあろうかという
ロシア人入国者の写真を見た。
 地図上で施設の位置を示し、見取り図を書いた。
 知る限りのKGB要員の名前と階級と外見上の特徴をリストアップした。
 工作員になるために受けたあらゆる訓練を再現させられた。
 暗号システムを説明し、実際に日本側が入手して解読できなかった通信を解読させられた。

 彼女に、知っていることを隠そうという意思はなかった。
 だが、知らないことは話せない。
 父が日本で接触していた諜報網についてなどがそうだった。

 調査官は退屈ということを知らないかのように同じ質問を繰り返し、日付や数字などに確認を
求めた。病室から一歩も出ることができないままの連日の訊問に彼女の精神が寸断されそうに
なった頃、見たことのない男性が現れた。
 名を名乗らなかった、その60に近そうな男性はこう言った。
「我が国に亡命を望んでいるということだが、その意思は変わっていないかね?」
 変わるはずなどなかった。だからこそ尋問に不平一つこぼさなかったのだ。
「はい。もし、刑を受けてからでなければならないのなら、それでもいいです。私にはもう、帰る
国がないんです」
「亡命するとなると、ロシア大使館の人間と会い、彼らに自らの意思を表明しなくてはならないが、
君にできるかね?」
「できます。なんと言われても、ロシアに戻るつもりはないですから」
 
 男はしばらく躊躇った後、彼女を凝視する。声調を重くして「・・・・・それでは、困るんだ」と
続けた。
「君には、亡命しないでもらう」

 喉を氷の塊のようなもので詰まらせるターニャ。理由を問う前に、男が教師のように、いや、
ツガルの指導官のように説明を始めた。

「君の話が正しければ、正しいと思っているがね、幸い、ロシア側は君がこちらに投降したことを
知らない。だが亡命の手続きに入れば君が全てを告白したことが分ってしまう。そうすれば
彼らは暗号システムを変更するだろうし、新たな工作員をツガルとは関わりのないところから
投入してくるだろう。それでは、せっかくの情報が活用できない。
 だから、君には小樽に戻ってもらう。我々のコントロールの元でロシアのスパイを装い
続けるんだ。
 彼らから指示があったら報告してもらう。何かの情報を集めろといわれたら、こちらで適当な
材料を見繕って与えてやる」

 日本が彼女に求めたのは、一人の亡命者ではなかった。
「2重スパイに、なれと・・・・・」
「そうだ」

「そんなの、そんなの嫌です!」
 廊下に立つ護衛がびくりとして振り向くほど、ターニャは叫んだ。
「もう、私はスパイなんてしたくない! 私はもう誰も欺きたくなんかない!」
 壁にもたれ荒れた呼吸を整えながら、残った言葉を途切れ途切れにこぼす。
「私は、私は、全てを、やり直したい・・・・・日本で、嘘をつかずに、生きていきたいんです・・・・・」

「いずれ、そうできるかもしれん。君の協力次第だ」
「刑務所なら入ります! どんなに長くても、辛くてもいい。
 だから、スパイなんてさせないでください・・・・・
 もう、できないんです・・・・・」

「君が嫌だと言うのなら、これを」
 ターニャの供述書がライティングデスクに置かれた。
「ロシアに渡した上で、君を送還する」
 はっと、男を見上げるターニャ。
「そうすればどうなるか、わかるな。連中が裏切り者をどう処遇するか、よく知っているはずだ。
君の両親が味わったんだからな」

「そんな・・・・・」

「君はスリーパーなのだから、あと数年は任務など命じられることはないだろう。その間は普通に
暮らしていればいい。当分は暗号の鍵など、本国から届けられるデータを速やかに渡すだけで
いいことだ。それぐらい、どうということはなかろう?」

「できません・・・・・」

「するんだ。我々も鬼ではない。いずれは君の有用性がなくなる。そうすれば一切の罪を問わず、
綺麗な身元で飾った日本国籍を与えよう。後の生活の面倒も見る。悪い条件じゃないはずだ」

「・・・・・・・・・・」

「国に帰って拷問吏におもちゃにされた挙句に惨たらしく死ぬか、数年耐えて日本のために
尽くすか、好きに選ぶがいい」




「これから君は『イスクリィ(火花)』であると同時に、『白樺』という暗号名を持つことになる。
内閣情報調査室第4部の命令は絶対だ。ようこそ、我が国へ」






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