罪と呼ばれしもの <6>



 そして昭和20年8月9日。
既にドイツを降伏させていたソヴィエト連邦軍が再編され、ベルリンを陥落させた歴戦の戦車
部隊を含むソヴィエト極東軍が命令一下、満州へと侵攻を開始する。まだ一年効力の残っている
日ソ中立条約を一方的に破棄しての宣戦布告だった。
 しかし迎え撃つべき関東軍は装備でも兵力でも劣る上に、本国を空襲によって壊滅させられて
戦意も乏しく、ただ南へと敗走するのみであった。やがて邁進するソ連軍に降伏する者が相次ぐ。
ろくにガソリンもない敗残部隊は猛追から逃れる術がなかったのだ。

 それから1週間足らずで日本政府はポツダム宣言を受諾。
 戦争の終わり。
 このニュースを、柴森謙蔵はソ連軍に包囲された堡塁で聞いた。

 武装を解除され、捕虜収容所とされた伊春市内の小学校へ送り込まれた柴森らは、下手な
日本語を話すソ連人将校から、速やかに全員を日本本土に送還する予定だと説明を受けた。
降伏する前まで、「ソ連軍は中共軍に復讐を許し日本人を皆殺しにする」と聞かされていた
兵卒は歓呼の声で応えた。士官も予想外の寛容さにほっと胸を撫で下ろした。彼らには部下を
帰還させる責任があったのだ。

 これが策略だと察知できたとしても、彼らの運命は何一つ変わることはなかった。その意味
では、スターリンの意図などここで知る必要はなかったのかもしれない。

 やがて柴森らはソ連軍のトラックの荷台にすし詰めにされ、他の捕虜と合流させるためという
理由で収容所を出た。トラックの列が北へ向かうのを怪訝に思いながらも、日本兵の頭には
故国の家族がどうしているかという心配ばかりであった。
 砂埃で汚れきった彼らが降ろされたのは、かつて日本軍が建設した貨物線の駅だった。
接収された満鉄の汽車が彼らを待っており、既に同じような関東軍の捕虜が満載されていた。
久しぶりに会った同郷の戦友などもいたのだが、話をすることなど許されず小銃で背中を
小突かれながら、更に立錐の余地もないほどに押し込まれた。そして貨車に鍵がかけられた。
 柴森らは、息をするのもやっとという有様で、機関車の鳴らした気笛を聞いた。
 ぎしぎしと金具や車体を揺らしながら一度は南へ向かうかに思われた貨物列車は、退避線へ
入り、その進行方向を転換した。

 北へ。

「どういうことだ? 日本に戻るんじゃないのか?」
「こっちからじゃハルビンに行けないぞ!」
「どこへ行かされるんだ?」
「おい、誰か説明させろ! 露助がデッキにいるだろう!」

 士官と兵卒の抗議など一顧すらされず、どんどん速度を上げてゆく汽車。座る場所も寝る
場所もなく、食事も水も与えられず、糞尿を垂れ流しながらの強制移動は3日3晩続いた。
時折水炭補給のためか停車はするのだが、どれだけ哀願しても日本兵は貨車から出して
もらえない。苛酷な環境でどの車両でも弱っていた兵が死んでいた。その搬出すら認められず、
熱気ですぐに腐り始めた死体から腐臭と腐汁が車内に充満していた。嘔吐感を催す者が
多発したが、吐けるものなど誰の胃袋にもありはしなかった。

 4日後の朝。
 人家一つない森の奥で汽車は停車した。
 ようやく鍵が開かれ、ふらふらの彼らは悪臭に顔をしかめるソ連兵に引きずり出され、線路
脇の草叢に整列されられた。
 当然、立つことも困難な兵がいる。
  まだ体力の残っていた柴森謙蔵は、蹲って動けない兵に手を貸そうとした。しかし、高熱を
出しているらしい年配の兵士は浅い息をするだけ。近くにいた監視兵に「おい、医者を呼んで
くれ!」と日本語で叫ぶ。
 様子で事態を察した、まだ10代と思われるソ連兵はつかつかと歩み寄ると、小銃を構えて
引き金を引いた。
 まるで小石でも蹴るかのような無造作な動き。
 シベリアの大地が、柴森謙蔵の視界が、赤く染まった。

 柴森の腕に抱かれた死者は、頭蓋から脳漿と血流を吹き出させながら痙攣していた。
「なにをする!」
 そう叫んで射殺した兵にくってかかった士官が、別のソ連兵たちによって引き剥がされ、
蹴倒され、顔を上げたところで鼻梁を撃ち抜かれた。
 日本兵の間に悲鳴とざわめきが波紋のように広がってゆく。
 それを威嚇する機関銃の銃声が天に向かって鳴り響く。
 包囲する兵の銃が、全て水平に構えられていた。
 黙るしかない日本兵の頭上を、ロシア語の宣告が朗々と述べられた。
 関東軍の士官によって翻訳された意味は、こうだった。

「ソヴィエト社会主義連邦共和国は、日本政府による祖国侵略の賠償請求権を保持している!
賠償が完済されるまで、わが共和国は日本兵を賠償の代替として労働力を提供させることに
決定した! 抵抗するものは射殺する!」

 捕虜は人道的扱いと戦後の送還をジュネーブ協定で保証されている。日本はこの協約に
加盟していながら、さほど遵守してはいなかった。後には関東軍が中国人捕虜を生物兵器
開発のために人体実験の被献体としていた事実も明らかになる。しかし、日本の兵士は原則と
してこの協約に守られ、強制労働に従事することも抑留されることもないはずだった。そもそも
日本は日ソ中立条約を守り、ソ連領に侵入したことなどない。
 勇気ある日本軍指揮官の一人が、そう抗議すると、ソ連軍の指揮官はこううそぶいた。
「我が国はジュネーブ協定に加盟しておらぬ。日本がどのような協定に属していようが、関知する
ところではない。賠償の根拠だが、1911年に日本は我が国に不当な侵略戦争を仕掛け、
バルチック艦隊を攻撃したのを忘れたとは言わさぬ。1921年にはシベリアに侵攻し、我が
ソ連人民の抵抗に耐えかねて敗走するまで占領を続けたではないか。スターリン大元帥は、
これらの償いが完全になされるまで、帰還は認められぬと仰せられた。身をもって、我らが同士
国民に詫びるが良い!」と。

 柴森謙蔵は、温もりを急速に失う同胞の血で軍服をべたつかせたまま、その様子を呆けた
ように見ていた。

 家畜のように追い立てられた彼らが最初にさせられたのは、自らが住む場所の建設だった。
申し訳のように与えられた粗末な道具で針葉樹を切り倒し、古代人と変わらぬ雨風をしのげる
だけの住居を作る。雑草を刈って寝床を作り、電気も水道もない荒野で生きるために、遠く
離れた川から水を運ばねばならなかった。

 そして鉄道敷設のために、森を切り開く毎日が始まった。空が暗くなるほどの薮蚊の大群など、
笑い話にもならないほどの苛酷な毎日が。

 僅かな配給食糧。
 蔓延する赤痢と結核とチフス。
 重労働による衰弱。
 僻地勤務に飽いた監視兵の日常的な暴行。

 毎日、抑留地のどこかで日本人の鼓動が止まっていた。
 軍医は抑留者の中にいた。
 しかし、全く医薬品も器具も与えられることはなかった。
 死ぬまで働かせる。
 死ねば埋めさせる。
 それだけが、ソ連の方針だったのだ。

 だが、さらに地獄の底は深かった。
 冬の到来である。

 8月に捕虜となり所持品を奪われた日本兵は、夏用の軍服しか身につけていなかった。
しかし、分厚い防寒着を纏うソ連兵は糸くず一本を投げ与えることすら惜しんでいる。やむなく、
日本人は弱った体を引きずりながら森へ向かい、樹皮で代用服を作り、動物を懸命に捕らえて
皮を剥いで靴とした。しかし、当然に足りない。病者の制服が生者の命を繋ぐために奪われる
ようになった。
 生き延びるために、同胞たちが乏しい体力で争う。
 その浅ましさをソ連兵が笑っていた。

 いくら丸太小屋の隙間を苔と土で塞ぎ、火を焚いていても、室温が0℃を上回っていればましな
方であった。薪すら思うようには使えない。シベリアの樹木もソ連人民の財産であるのだからと。

 早過ぎるソ連の冬は、ドイツ軍兵士を食らい尽くすだけでは不足だと言わんばかりに日本人
捕虜を責め苛んだ。若者よりも壮年が、士官よりも兵卒が倒れた。草食動物の群れが狩り立て
られていくようだった。躓き、倒れたものが牙を突き立てられ、音のない絶命の叫びを上げる。
 夜明けの光を凍った眼球で受ける者を、何度柴森は運び出しただろう。だが埋葬すらできない
のだ。凍った大地はツルハシもシャベルも拒絶し、死者に安らぐ場所を与えようとしない。
凍結した遺骸は腐敗もせず、収容所の裏手で雪に埋められたまま長い冬を越すのだ。

 そもそも零下20℃を下回るなかでの強制労働は、マシンガンの掃射と同じぐらい致命的である。
多くのものが凍傷で指を、やがて腕や足そのものを喪い、命を縮めていった。いつとも知れぬ
帰還の日を待たなくてはならない捕虜の精神は荒廃し、自殺者も相次いだ。夜中に外に出る
だけで楽になれるのだから、絶望した捕虜は躊躇うこともなく森へ身を投げ捨てた。発狂した
士官は自ら斧で自らの凍った指を全て叩き切り、意識が混濁した兵卒は壁を爪が剥がれるまで
引き毟り、心不全で死んだ。

 そして雪が緩み始めた頃、収容所の捕虜は半減していた。柴森謙蔵がその中にいたのは、
青森出身で寒さに抵抗力があったのと、若さと、気まぐれに射殺されなかったという幸運に
よるものだった。

 すると、彼らはトラックに乗せられ別の収容所へと移転させられた。そこには丸太小屋よりは
ましな宿舎が用意されており、布団なども粗末なものではあったが与えられた。彼らには理由が
わからなかったが、それは政治的な意図によるものだった。

 国土を枢軸国ドイツによって破壊されたソ連人は、復讐の対象として日本兵も苦しめていたの
だが、アメリカとの対立が避けられなくなったことから日本を共産陣営に取りこみ東欧のような
傀儡国家を樹立することを基本方針としたのだ。一度は北海道全土を武力占領し、朝鮮半島の
ような分断国家を建設することも計画されたが、米英の抵抗が予想されたために次善策が
取られた。
 日本を共産化するのに、日本人捕虜を虐殺していては都合が悪い。少なくともそれを知られ
ては好ましくない。そこで、強制労働はさせるものの意図的に捕虜を死なせるような待遇は改善し、
労働効率を上げ、いずれは送還するという方針に転換したのだ。

 しかし、ただ日本へ戻すわけではない。彼らは共産革命を実現するための尖兵でなくては
ならないのだ。そのために、強制労働と併行して徹底した思想教育が行われることになった。
中国での行動を自己批判をさせられ、共産主義のイデオロギーの絶対的優位と資本主義帝国
アメリカの侵略性を説かれると、日本人は脆かった。
 戦前戦中の日本は資本家による搾取が甚だしく、兵士の殆どは貧困層の出身である。偏在
した富の持ち主が政治を腐敗させ、自分たちを窮状に追いやったのだという理論には説得力が
あった。そしてアメリカの爆撃によって焦土と化した日本の写真が見せられる。広島、長崎、
東京。材料に不足はなかった。家族を殺したアメリカ軍への憎悪はソ連軍政治士官によって
容易に醸成された。

 充分に思想改造されたとみなされた者から送還される。こう言われれば、共産主義へ懐疑
的な考えの持ち主とて逆らえるはずもない。軍国主義に凝り固まっていた者ほど、転向は
早かった。日本は天皇島であり、上陸して労働者の国家を建設しようと、送還船に乗せられて
シベリアから出ていった。
 だが、柴森謙蔵はどうしても共産主義に馴染めなかった。
 それはイデオロギーのせいではなかった。

「俺ら、難すィことはわがんねがった。ンだげども、なンぼ勉強ささせられても、心(しん)から
納得でぎねかった。露助の、いや、ロシア人っつった方がいいべな。ロシア人の目が、オラの
目ン前で仲間を撃ち殺したロシア人と同じ目をしてたからなンだ。あの目は、日本人を動物
以下にしか見でねがった。ンだから、俺らは形だけ信じたフリさしてた。
 ンだども、やっぱりわがるんだな。本当の考えが。オラはながなが帰ぇしてもらえねがった。
そのうちに、こン足さ千切れて、死にかけて、やっと帰ぇれたんだ」
 柴森老人は北の荒野に残してきた膝を撫でた。
「俺らは、まだ夢に見ンだ。俺らの腕ん中で死んでいったあのおンつぁまの死に顔をな。きっと
女房も子供もいだのによ。しばれてしばれてどうしようもなぐって、『日本さ帰ぇりてぇ、クニさ
帰ぇりてぇ』って、うわ言みてぇに繰り返しながら死んでいった兵隊をな」

「戦争が終わった時、みンな覚悟したんだ。満州の人にどんな目に合わされても、それは
しょうがねぇことなんだと。それだけのことをしたんだと。
 ンだども、なして俺らたちが、露助にあんな酷いことさされねばなんね?
 俺らたちが露助になにした?
 ソ連に鉄砲一発撃ってねぇ俺らが、なして足一本切られねばなんねがった?」

 視線を喪われた足から離せないターニャ。

「俺らは、命永らえて帰ぇってこれただけまだマシだ。ンだども、シベリアで死んだ日本兵は
誰一人、クニの墓さ入れねぇまんまだ。あそこじゃ、誰も成仏なんてでぎね。魂さなっても、
ずっと凍えていねばなんねんだ。
 俺らだって死んで仏様の前さ行くのに、片輪の足で跳ねて行ぐしかね。死ぬことよりも、俺ら、
それが辛いンだ」


 もう還らない、無数の痛惜。


「あンたが、こんなことさこれっぽっちも関係ねことはわがってる。ンだけども、ロシア人の、
金髪と、青い目さ見ると、どうしようもねぐ口惜しいンだ。そンで、あんなことさしちまった。
済まねがった。許してくんろ」

 帰還者21万人。抑留者は50万とも30万とも言われ、その実数は把握されておらず、もはや
永久に判明することはないであろう、その凄惨なシベリア抑留の実態を、ターニャは初めて知った。
「辛いことを話して下さり、ありがとうございました」
 そうお礼を告げて、彼女は柴森家を辞去した。玄関前まで見送ってくれた幸恵さんの姿が
見えなくなると、ターニャは顔を伏せて走り出した。
 心臓のことなど、どうでもよかった。
 逃げ出したかった。

 あらゆるものから、日本から、ロシアから。






トップへ
戻る