罪と呼ばれしもの <4>



 港町小樽に、南からの雨が降る。
  3年目の夏。
  火花=ターニャは14歳になっていた。

  1993年9月。
 彼女は南へと下る特急電車の車窓越しに、ぼやけて流れてゆく内浦湾の海岸線を見つめて
いた。瞳に映る、初めて見た太平洋は、ターニャの精神風景と裏腹に豊かで、穏やかだった。

 今度、職場で慰安旅行があります。
 青森県の温泉です。
 次の手紙には、このことを書きますね。

 そうエア・メールの末尾に記したのは、1ヶ月ほど前のことだった。宛先は、ソヴィエト領
プリモルスキー(沿海州)の南端、ナホトカに住んでいることになっている祖父母。
 もちろん、その郵便箱に血縁者など待ってはいないし、そもそも手紙がそこまで配達される
こともない。ソ連内に入ってからは、最優先の扱いでKGBの経路を辿ってツガルへ送られ、
管区長と彼女を運用する監督官たる中佐が検閲をしてから両親の手に届くのだ。
 そもそも彼女はナホトカに半月程しかしたことがない。偽装にふさわしい知識を持つために、
日本入国の直前に滞在しただけの、かりそめの故郷だった。

 ここまで、彼女の身元は完全に維持されている。後にわかることだが、日本の防諜機関は
ターニャの正体はおろかツガルの存在さえ掴んではいなかったのだ。KGBの周到な隠蔽と
偽装によるものだが、2ヶ月に1通だけ許されている父母との手紙は工作全体を露見させて
しまう可能性を孕んでもいる。それでも認められているのは、KGBらしからぬ実際主義に
理由を求めうるかもしれない。

 ツガルはKGB内部にあってもスパイ運用においてKGBのルールに必ずしも縛られることの
ない独立性を設立当初から保持していた。管区長は議長と第一管理本部長にのみ直接に
報告する義務を負うという命令系統は、そもそも個人崇拝を根絶するためにやたらと委員会を
設置して、形式上は集団指導体制を尊ぶソ連には珍しいものである。

 国家内国家として絶大な権限を持つということは、国家を監視すれども国家からの監視は
必ずしも受けないということである。共産党書記長でさえ政治局における投票で過半数の
支持を受けなければ権限を発動させられないのだが、KGB議長は作戦の実行に際して誰の
許可も必要としない。ツガルのような秘密機関の運用経費は予算に計上されず、議長の裁量に
委ねられている使途を明示しなくてよい資金枠から支出されている。それも国外に持ち出す
ことのできないルーブルではなく、市民が飢え、凍えていることには目をそむけ、穀物や石油を
輸出して獲得した外貨で賄われている。スパイが国外で活動するのだから当然外貨が必要に
なるわけだが、これはソ連の財政からすると莫大な額であった。
 しかし、浪費とは誰も言えないであろう。制度疲労によって経済を破綻に導いている官僚
組織や、一度も使用されずに交渉で廃絶される戦略ロケット部隊がろくな利益を国民に還元
できなかったの比べ、KGBの諜報工作は多くの技術情報や経済情報を入手していたのだから、
対費用効果という観点からも優れた実績を残したと評価できる。

 それだけの成果をもたらす実際主義の一つの現れが、手紙である。

 他国に潜入させたスパイは日々心骨を磨耗するストレスに曝される。逮捕、投獄の危険に
加え、根本的に違う理念によって構築された社会に孤絶して存在しなければならないのだから、
これは避け難いことである。こういったストレスを軽減できるように、予め日本社会に免疫を
持たせようというのがミールヌイ#17の設立目的のひとつでもある。この効果があって、ここまで
ミールヌイ#17出身者によってなされた対日工作は大きな収穫を上げてきたのだが、それは
どれも15歳を越えてから作戦に従事するようになったスパイでのことである。KGBは全世界で
幅広い年齢層の要員を使った経験があるが、15歳未満の年少者は純粋で献身的であるが
脆さを併せ持つこと、そしてそれはアイディンティティの確立される思春期に特に露呈しやすい
ことも認識していた。

 安全弁として用意されたのが、両親への手紙である。

 祖国と党と同朋という漠然としがちな目標ではなく、信頼する肉親との絆を常に自覚させ、
志操を保つためには、手紙という形態が理想的であった。直接の電話では、うっかりと口を
滑らす可能性があるからだ。

 ターニャへ送られる返事は、両親が祖父を装って書く。手袋越しの握手にも似たもどかしさが
そこにはあったが、ターニャはそれ以上のことを望むことは許されないことだと諦めていた。
いつか任務を果たせば再び二人の待つ家に帰れるんだと、自分を慰めて。

 この旅行から帰ったら、すぐにまた手紙を書こう。
 記憶が思い出になる前に、言葉にしておこう。
 書き終わっても来月にならないと投函できないけれど、お父さんとお母さんに私が見たことを
鮮やかに感じてほしいから。

 小樽運河工藝館の一行は、竣工からまだそれほど過ぎていない青函トンネルを抜けて青森
県に入り、弘前市を経由してとある温泉地で下車した。山の麓にある小さな温泉街だが、
鄙びた風情がどの旅館にも湛えられていた。
 工藝館は休館にできないので2組に分かれての旅行である。今回の参加者はターニャを含め
6人。最年長が20代後半という若いグループのなかで、ガラス職人はターニャと先輩の男性
のみで、あとの4人は事務方の女性である。

 宿の和室に案内され、早速にお喋りの花を咲かせながら浴衣に着替える女性陣。もちろん
唯一の男性は別室で、孤独を嘆いている。ここは混浴でもないのでなおさらだ。すべてが自然
石で造られている温泉はテレビでも紹介されたことがあるという見事なもので、温泉が初めての
ターニャは恐る恐る白く濁った湯船につま先を泳がせていった。
 旅先にいるという開放感から、脱衣所に入るまでは次から次へと話題を持ち出していた同僚
たちは、少しぬるめの湯に包まれると、ゆっくりとした溜息だけを洩らしながら体の筋肉を
伸ばしていった。
 工藝館の仕事は、ガラス職人でなくても楽ではない。人気の観光スポットであるがゆえに
来館者は絶えないし、期待に背くようないいかげんな運営もできない。そんな日々がもたらす
しこりのような疲労を、誰もが湯の中に溶かし出してしまおうとしていた。
 ささやかな贅沢。
 しかし、ターニャにはその寛ぎすらも演技でなくてはならなかった。
 重い器材の扱いで筋肉を酷使し、季節に関わりなく炉の熱で額に汗を伝わせ、慎重かつ
手早い工程をこなすのは、大人の男性職人であっても辛い仕事だ。まだ10代前半で体格の
出来上がっていないターニャにとっての消耗度はその比ではない。だが足手まといになれば、
最悪の場合、職を失って帰国するしかなくなるだろう。そうなれば任務は失敗とみなされ、厳しい
処罰が自分だけではなく家族にも及ぶのはわかりきっていた。弱音を吐くこと、愚痴をこぼす
こと、そして身体が古くなった雑巾のようにほつれ、薄くなっていることを気取られることも
できないのが、今のターニャだった。

 目を閉じて、考える。
 祖国はどうなっているのだろうと。
 
 既にソヴィエト共和国連邦という労働者政権は西側の謀略によって崩壊させられてしまった。
扇動されて高まっていった民衆の不満が、一時的な反革命暴乱に留まらずに共産党を破壊して
しまったのだ。かつての主役だったゴルバチョフは隠棲し、クレムリンには「愚かな牡牛」と
以前からKGBがマークしていた個人崇拝主義者ボリス・エリツィンが君臨している。
 KGBは対外情報局と連邦保安局に改組されたが、ターニャの元にはこれまで通りに任務を
遂行せよとの命令が届いている。きっとツガルは新しい組織の中でも優越した地位を与えられて
運用されているのだろう。

 だが、まだ祖国は揺れている。
 資本主義という甘い蜜に躍らされたソ連人は、ようやく騙されていたことに気付き始めていると
いう。食料や生活物資の不足は相変わらずで、前体制では考えられなかった失業率は天井
知らずに上昇。軍や官吏にも給料の遅配が常態化している。キューバや東欧など世界の友邦
への援助を止めたにも関わらず経済力は一層の低下を見せ、国家財政は破綻寸前という有様。
 ようやく、市民は共産党時代への回帰を図ろうとしている。確かに、党も誤りを犯したのだろう。
ノーメンクラツーラ(特権階級)の腐敗や官僚の制度疲労があったことは否めない。だが
スターリンの過ちからすら党は学び、再生して超大国の地位を確立していた。どうして
ブレジネフやゴルバチョフの過ちから再生できない理由があろう。きっとまた、市民は共産党を
選ぶ。
 そうなればKGBは再び威信を取り戻し、西側の陰湿な内政干渉など鉄の規律によって排除
できるはずだ。国民の無思慮な騒擾を押さえれば、党によって統制された経済は円滑に動き、
ソヴィエト連邦は再び世界共産主義の実現のために前進することができる。
 今は、一時の停滞期にすぎない。
 マルクス・レーニン主義だけが、科学的に世界を統一する理論なのだ。

 そうでないはずが、ない。
 
 父がその人生を捧げているKGBが、市民によって拒まれるはずなどない。

 
 「ターニャ? 大丈夫?」
 長く目を閉じていたので、同僚の一人が体の具合を気遣った。それを機会に、心臓に負担が
かかるからと彼女は同僚たちよりも先に入浴を切り上げて部屋に戻った。

 午後、一行はお土産を買うために旅館前の通りを散策することにした。
 温泉独特の硫黄臭が鼻をくすぐる。
 立ち並ぶ商店には、軒先から陳列棚までありとあらゆる種類の物品が手に取られるのを待って
いた。キーホルダーやポストカード、饅頭にチョコレートと、中には温泉とも青森県とも懸連性が
思いつかないものも含まれてるが、めいめいが気になったものを手にして取捨選択をする。

 何軒目だろうか。
 ターニャは店先に下げられていたガラスの風鈴が気になり、どんな音がするのだろうと、
人差し指で突ついていた。
「風鈴って、ロシアにもあるの?」
「あります。でも、モスクワとかレニングラードの方です。私の故郷ではこういうものを飾ることは
ないですね」
「そうなんだ。向こうの人に送ってあげられるといいね。でも途中で割れちゃうかなぁ」
「難しそうですね」
 そう応じた時、なにかが横ざまに飛んできて、膝に当った。

 反射的に足を上げたが、痛いと思うほど勢いはなかった。

 落とした視界には、使い古したサンダルの片方が裏の溝を陽光にさらしていた。

 そして数歩先に、車椅子の老人がターニャを凝視していた。

 わなわなと震える肩。
 まばらで白い不精髭の中央で食いしばられる歯。
 鬼火のように暗くめらめらと燃えている眼差し。
 和服の裾から覗く左足は剥き出し。
 右足は、なかった。

 このお爺さんが、私にサンダルをぶつけた?
 そんなはずはない。
 きっと、なにかのはずみで脱げてしまったのだろう。
 なら、渡してあげないと。

 手を伸ばしてサンダルを拾いかけた彼女。

 「露助め!」

 汚物でも吐き出すような叫びが耳朶を貫いた。

 「露助め! 露助め!」

 掴みそこねたサンダルをそのままに、彼女は呆然と立ち尽くす。

 露助。
 ロシア人への蔑称。
 ミールヌイ#17で学んだ言葉だ。
 日本に来てから、誰からも浴びせられなかった言葉。

 なぜ、ここで、この人に?

 この人は激しい怒りを、怨みを、憎しみを抱いている。
 どうして私に向けるの?
 私はあなたを知らない。
 私がなにをしたというの?

 わからないことばかり。
 なのに、唇は動かない。

 彼女の無反応がさらに激昂させることになったのか、老人は車椅子に備えてある杖を抜き、
再び投げつけた。
 わずか3メートルほどの距離も飛翔できず転がった杖は、ターニャのつま先に数センチ
届かなかった。

 「おい、爺さん! なにすんだよ、危ねぇだろ!」
 突発的な事態に硬直していた、唯一の男性の同僚が二人の間に割って入った。噂では
ターニャに特別の関心があるらしい彼の背中で、老人の姿は遮られた。

 「露助め!」
 息も絶え絶えに、まだ叫ぶのを止めようとしない老人。通りには何事かと観光客が集まって
くる。どこの痴呆者かという彼らの冷ややかな好奇の視線などまるで意に介さず、老人は
じりじりと車椅子の車輪を押して近づいてくる。
 「ターニャ、相手にするのよそうよ。行こう」
 同僚が肘に手を添え、道路が粘着性を持ったかのように動かない彼女を強引に歩かせようと
した。
 だが、ターニャは拒んだ。
 理屈などなく、ここから逃げてはいけないと思ったのだ。
「行きなよ、ターニャ。頭おかしいんだって、この爺さん」
「どいてください」
「え?」
「ごめんなさい、そこを開けてください」
「ど、どうしてさ」
「お願いです」

 渋々と脇に寄る彼には一瞥すらくれずに、隻脚の老人は枯れ木のような腕を振るって
ターニャの目の前まで近づいてきた。
 視線が衝突する。
 鑿で刻んだかのように深い額の皺の下で、毒針となっている瞳。
 灼熱する憎悪。
 凍結する敵意。
 ターニャは名前のない感覚器で理解した。
 老人が見ているのは、私ではないのだと。
 ここにいない何者かを許せずにいるのだと。

 唾が吐かれた。
 秋という短い日々にだけたなびく雲の色をした彼女の頬をねっとりと伝う。
 取り囲む野次馬も、あまりの侮辱的行動に憶測を投げ合うのを止めた。

 老人と少女。
 二人の傾斜した視線は、角膜を、眼球を、水晶体を貫き、次元を超越して記憶の世界を
鞭打たれながら歩いていた。

 慌てて同僚がターニャの頬をポケットティッシュで拭う。どうしてこんなことをされても平然として
いるのか理解できない彼女は、その肌の冷たさに気が付くことはなかった。拳を握り振り上げん
ばかりの男性の同僚は、相手が車椅子に乗る、疑いようのない身体障害者であるがゆえに
殴ることもできずに持っていきようのない屈辱感に震えていた。

 「ちょっと、通して下さい!」

 人壁の向こうから声を上げたのは年配の女性だった。
 作られた隙間から、輪の中に駆け込む。
 「お祖父さん、なにしてるんです!?」
 車椅子の傍にしゃがんで体を揺すると、精魂尽き果てたかのように老人の頭はがくりと落ちた。
荒く細い呼吸が隙間風のように漏れる。生命に関わるほどではないのでろうが、興奮のしすぎが
原因なのは誰の目にも明らかだった。

 「うちの祖父が、失礼をしましたでしょうか・・・・・?」
 おずおずと尋ねる女性。
 ターニャより先に先輩が憤然と応じる。
「失礼したなんてもんじゃないぜ! いきなり怒鳴りつけるわ杖投げるわ、挙句にこの子の顔に
唾吐きやがった! イカれてるんじゃないのかこの爺い! 勘弁できることじゃないぜ!」
 女性はまさか、という表情で人垣を見まわすが、誰も彼の言うことを訂正しようとしないことで
状況を把握したようだ。
 「す、すいません!」
 がばっとターニャたちに頭を下げる。
 「とんだご無礼を働いてしまったようで、本当に申し訳ありません! 私が目を離したのが
いけないんです。そんなことをする祖父じゃないんですが、なにか勘違いをしたのかもしれません。
私が謝りますから・・・・・」

 「いいんです」
 顔の筋肉を操作して硬質の笑顔を作ったターニャ。
「気になさらないで下さい。私も、気にしませんから。それより、お祖父さんをどこかで休ませて
あげた方がいいですよ」
 観衆は高僧のような答えに驚き、揉め事が終息しそうな気配にいくらか安堵してばらけていった。
「私たちも、行きましょう」
 彼女はもう一度だけ老人を見やってから、振り向いてその場を後にした。






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