罪と呼ばれしもの <3>



  1990年。
 ターニャは11歳になっていた。

 既に日本語は完全にマスターし、暗号解読や無線技術も早々と身につけていた。統制された
政治教育によって共産主義の絶対的優位を確信するに至った彼女には、いずれ日本へ潜入
して祖国のために諜報活動をすることに疑問など抱きはしなかった。ソヴィエト体制は世界を
救済する唯一の手段であり、KGBはその尖兵であると。「ツガル」の管区長も彼女の良好な
訓練成績に満足し、心臓の疾患という問題はあるにせよ、数年後には偽装と任務を与える
つもりでいた。

 パーヴェルには焦りがあった。密かな努力はなかなか実を結ばず、娘は精密なスパイ・
マシーンとして磨き上げられようとしている。任務で日本へ入国し、半年から一年を過ごして
帰国するたびに、ターニャは人間性を喪失していくようだった。

 モスクワではKGB議長から党書記長の座についたユーリ・アンドロポフは死に、後を継いだ
チェルネンコなど自力で歩けない老人で就任直後にこの世を去った。ブレジネフ時代から停滞
したソヴィエト経済の復興を掲げたゴルバチョフの登場は彼に期待を抱かせたが、この時期は
保守派の強い抵抗があり、内政面では西側マスコミが持ち上げた「グラスノスチ」も「ペレスト
ロイカ」も具体的な成果を上げていなかった。

 焦っていたのは、「ツガル」を運営するKGBも同じであった。対外諜報を司るだけに西側の
軍事・経済力にソ連が圧倒されはじめていることを熟知しており、このままでは冷戦に敗北すると
いう危機感が組織全体にあった。共産主義の敗北は党と一体であるKGBの死を意味する。
アメリカCIA内に獲得したスパイ、エイムズからの情報で赤軍にも党にも官僚組織にも、そして
KGBにすら背信者が潜んでいることを知ったKGBは、大規模なスパイ狩りを始めた。

 そしてついに、パーヴェルへも嫌疑がかかった。
 工作員を養成する指導官としての任務と日本国内での諜報活動をサボタージュしているという
ものだった。
 彼のKGBにおける地位から、ツガル内部で密かに尋問が行われた。当然彼は一切を否定。
これまでの慎重な行動によって自己を弁護し、防諜員側も決定的な証拠を提出することが
できなかったため、有罪とはならなかった。
 これは異例のことであった。この種の審判では疑惑イコール投獄・死刑なのが全体主義
国家の特性である。彼が逃れられたのは将官へと栄進していた義父の影響力があっての
ことだった。

 だが、彼が放免されるには付帯条件があった。それはターニャ・パーヴェリカヤ・リピンスカヤを
直ちにスパイとして日本に送り込むというものだった。

 疑惑のあるKGB将校を国外に出せば亡命されかねない。パーヴェルには以後「ツガル」での
任務のみを与えることにして脱出の道を塞ぐのはいいとして、これまで彼が行ってきた日本での
工作ルートを誰かが継承しなくてはならない。これに実の娘であるターニャを充当すれば
日本人は安易に受け入れるであろうし、娘と引き離すことでパーヴェルは人質を取られたも
同然になり、KGBでの職務に精励するほかなくなる。年少ながら彼女の党への献身ぶりは
明らかであり、亡命の危険もない。
 KGBにとって満足のいく結論となった。

 パーヴェルに選択の余地はない。衆人監視のなか妻エレアナと共に、ツガルを出て行く彼女を
抱きしめ、「体に気をつけなさい」と送り出すことしかできなかった。
 そして抱擁を解く瞬間に、耳元に囁いた。
「クロイツェア・スワヨー・セルツェ(心を開きなさい)」と。

 こうしてターニャは、独り日本の地を踏んだ。
 父が死に、義父と折り合いが悪くなり、亡父の縁を頼って小樽の運河工藝館に引き取られると
いう架空の経歴と、「ターニャ・リピンスキー」という名のパスポートを手にして。
 全てが、同情を集めやすくするためにKGBが用意したシナリオだった。

 暗号名「火花(イスクリィ)」
 ソヴィエト連邦が最後にターニャに与えたのが、この単語だった。

 日本で働くためには就労ビザが必要で、彼女の年齢では発行されるはずもないものだったが、
慎重にKGBが用意した数々の書類とソ連大使館の息がかかった有力者の働きかけに加え、
父パーヴェルが親日派のソ連人ということで小樽運河工藝館の関係者からの信望を得ていて、
当時の館長が身元保証人を引き受けたことで、彼女は見習いガラス職人としての席を得ることが
できた。

 首尾よく日本で生活できるようになったターニャには、まだこれといった任務は与えられて
いなかった。パーヴェルの行っていたような情報収集任務を行うためには数年の雌伏が不可欠で
あり、それまでは休眠工作員として日本社会に溶け込むことが第一であると命じられていた。
 日本語がわからないふりをして、周囲の会話に聞き耳を立てるのが最初の活動だった。人は
聞かれても理解されないと思えば、当人を前にしてでも忌憚ない意見を口にする。「この新人、
真面目だけど、仕事が遅い」と聞けば、出勤時間を早めて僅かな時間も無駄にしないようにした。
「言葉がわからないから使いずらい」と聞けば、仕事に必要な日本語は優先的に憶えたことに
して使った。そうやって巧みに周囲と馴染み、異文化圏からの闖入者としての匂いを消して
いったターニャは、2年ほどで見習いから正式なガラス職人へと昇格した。

 「火花」は自信を深めていった。日本の防諜組織はこれまでの訓練が無意味なほどに無能。
日本人は外国人を一方で差別し、その罪悪感から必要以上の親密さを誇示してくる。
 いずれ与えられる任務をがどんなものであれ、自分なら必ず遂行してみせると確信していた
のだ。
 父も母も、自分を誇りに思うだろうと。

 彼女は自分が日本に送り込まれた経緯を一切知らなかった。父に叛逆の嫌疑がかかったこと
など夢想外であり、これからもツガルで忠実なKGB将校としての義務を果たすものだとばかり
思っていた。

 「イスクリィ(火花)」を直接運営する任務を負った、とあるKGB士官は、パーヴェルの扱い
次第によってはこの工作が失敗すると知っていた。いくら献身的な工作員でも、父親が投獄
されたことを知れば叛意を抱くかもしれないと。


 この頃、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・リピンスキーはツガルから更に北方、モエロ川
上流に帝政時代から存在していた強制収容所に収監されていた。
 彼を極寒の牢獄へ送り込んだのは、皮肉にも拡大するペレストロイカ(変革)であった。
 ゴルバチョフの新思考外交により冷戦は終結へ向かっていた。共産党の一党支配は終焉に
近づき、国民は生活苦に悩みながらも自由と民主主義を求める大海のうねりをロシアの大地に
起こしていた。
 この波を強行手段によって沈静化しようとしたのがKGBである。ベルリンの壁は崩壊。ソ連は
東欧を喪失し自国の統治能力すら危殆に瀕していたこの時期、組織防衛という観点からも
KGBは反党的活動を厳重に取り締まっていた。
 証拠不充分で放免されていたパーヴェルにも疑惑が再燃した。不運にも先年彼を弁護した
岳父は既に退役しており、もともと狂信的コミュニストで構成されている「ツガル」にパーヴェルを
護ろうとする者はいなくなっていた。唯一の例外である妻エレアナも共犯として投獄されて
しまった。
 彼は前回以上に峻厳な尋問に耐え続けた。もし自白してしまえば妻も同罪とされるし、娘も
召還されて獄につながれてしまう。あし少し耐えれば、現体制はきっと民衆の力で倒壊する。
それまで、それまでの辛抱だと。



 日本入国以降、ターニャは不定期的に両親と手紙のやり取りを許されていた。巨大な
ストレスにさらされる年少の睡眠工作員が精神を安定させるには効果的な手段であると
過去の事例からも確認されており、教条主義よりは科学主義の観点から方針としての判断が
下っていた。

 もちろん日本の官憲が内容を盗み見る可能性があるため、架空の経歴と齟齬を生じないように
父母ではなく叔父夫婦への手紙へと偽装してのものだった。
 それでもターニャは手紙を書くことが楽しかった。
 ロシア語で日々に舞い降りてきた出来事を綴り、再会する日を待っている両親へ送ることが。
 ツガルよりも暖かい新年。
 映像でしか知らなかった桜の美しさ。
 初めて歩いた砂浜の感触。
 人間性を削り落とされたスパイであっても、彼女は両親だけは純粋に愛していた。愛している
から、周囲の日本人を欺き続けることができたのだとも言えた。

 小樽では、心臓の具合とは無関係に、不意に呼吸が苦しくなることが多かった。
 それは、優しくされるから。

 日本語がわからないはずのターニャのために、辞書で調べてロシア語でメニューを書いて
くれた喫茶店「エンゼル」のマスターが注いでくれた紅茶を口にする時。
 職場の先輩が自宅に招いて家庭料理を振舞ってくれた時。
 工藝館の館長が、まだ未熟な作品でも美点を探して褒めてくれた時。

 胸が痛くて、顔を上げるのが辛くなった。

 ツガルで、何度も言い聞かせられていた。
 日本人に心を許すなと。どんなに親しげに接近してきても、日本人はかつてロシア帝国に
侵略戦争をし掛け、革命の途上にあったソヴィエトに打撃を与え利益を得ようとしてシベリアを
占領した民族なのだ。
 善良そうな者は、いずれ世界共産主義が実現した暁には自己の誤りを認識して進歩する
ことができるが、それまでは人類全体よりも個人の欲求を追求することで、理想社会の構築を
妨げている存在である。彼女に欺かれることで、愚かな日本人はいずれ救済されるのだと。

 入国直後は、迷いも疑いもなく教えられていたことだけを信じていた。受けた親切に感謝の
素振りを返し、裏面ではその挙動を分析的に観察することなど容易なことだった。所詮ここに
いるのは、アメリカの走狗であることを恥じない未開人なのだと思えた。

 だが、自己への嫌悪感は増すばかりだった。
 時には外国人として居心地の悪さを感じることもある。同僚でも彼女と距離を置いて接する
者がいる。風貌の違いから好奇の視線を浴びることも不快だった。
 なのに、誰かが心の奥で呟いていた。



 それでいいの?






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