罪と呼ばれしもの <2>



 ターニャの父、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・リピンスキーはKGB佐官の長男として
産まれ、幼少期に「ツガル」へと移住した。厳格な共産主義者に育てられた彼は当然のように
日本へ潜入するためのKGB諜報員として成長した。
 日本で生計を立てやすいように、工作員候補者は必ずなんらかの工業技能を身につけさせ
られた。彼が選んだのはガラス工芸。才能があったのか、すぐに「ツガル」の指導官も驚くような
作品を作り出した。しかし、KGBにとって必要なのは芸術的技能ではなく食うに困らない程度の
職能にすぎない。
 彼は20歳になる前に北海道へと潜入工作員として送りこまれた。当時のデタントムードに乗る
形で、第三国を経由せずロシアの国家技術訓練学校の奨学生として。

 11年後、日本の官憲に怪しまれることなく帰国したパーヴェルは、報告のために戻って来た
「ツガル」で一人の女性と出会う。彼の上司、ミールヌイ#17管区長の姪で秘書をしていた
エレアナ・ドミトリアナ・アフナシェヴァである。

 「ツガル」で次世代の工作員の養成任務に当ることになった彼とエレアナは、カレンダーを
めくる間もなく恋に落ち、やがて上官からも認められ結婚した。
 そして授かったのがターニャであった。

 以降も、何度かパーヴェルには日本での任務が与えられた。技術訓練学校の指導員という
偽装は完璧で、親日家の仮面の下で重要な通信文の受領などをこなしていた。

 だが、不満もなくはなかった。
 共産主義体制のもたらす不自由さは、資本主義の根絶が果たされるまでの辛抱だと理解
できた。耐え難かったのは、ガラス職人としてのプロ意識に加えられる制限であった。自分の
後任者として送り込む訓練生に対して、熱心に技術を伝授しようとした彼だった。より美しい
作品を目指させ、そのためには個性を反映させた独自の構想力を発揮しなくてはならないと。
だが上官は必要最低限の訓練にしか時間を割かず、無線機の使用法や逆監視のテクニックを
学ばせることを優先した。

 そもそも、訓練生の大半は「ツガル」の第二世代であり、この村でKGB職員の間に産まれた
コミュニズムに純粋培養された子供である。外部から入ってくるのも幾重もの厳しいイデオロギーの
チェックを通過したマルクス・レーニン主義者であり、自己の意思を圧殺し国家の一部となる
ことを理想とするような機械然とした少年少女であった。

 次第に、パーヴェルは疑問を感じていった。
 日本で触れ合った子供とソ連人の子供との違いに。

 小樽運河工藝館には、しばしば近くの小学生がクラス単位で見学に訪れ、遠足のコースになる
こともあった。
 そんな時、子供たちは彼の金髪と碧眼に最初は隔意を抱きながらも、軽く微笑んでみせると
好奇心で頬を緩ませて彼の足元を取り囲んだものだった。飴状のガラスが馬や兎に姿を変え、
色づけられて命を吹き込まれる様子を見守る瞳はどんな宝石も及ばないほどに澄んでいた。
「今日はありがとうございました」と、元気いっぱいに声を張り上げて、ぺこりと頭を下げてバスに
乗って帰ってゆくのを手を振って見送った時のことが思い出されてならない。

 不揃いなタイミングでされたあの子たちの一礼。「ツガル」の子供たちは、指導員の指一本で
完璧に揃った挨拶と礼ができる。赤軍の精鋭でクレムリンを守護するタマン親衛軍が革命
記念日のパレードで見せる行進にも劣らない精密さで。

 子供たちがいなくなると、耳鳴りがした。先生を困らせるほどに騒ぎ、はしゃぎ、気になったもの
全てに手を伸ばし、笑って、喋って、時には泣く子もいる。
 彼らが帰ってしまうと、喧騒の名残が鼓膜を痺れさせていたことに気づくのだ。
 「ツガル」ではそのようなこと決して起こらない。子供たちは指示を待ち、着実に実行する。
間違いを犯すことは滅多になく、聞かれた事に答える以外に口が使われることもない。

 ターニャが産まれるまで、パーヴェルは日本の子供を躾のされていない野良犬程度にしか
認識していなかった。いずれ共産主義によって統一される世界に貢献するための規律と義務を
与えられることがないため、自由という無能の代名詞によって愚民に貶められている存在なの
だと。微笑むのも手を振るのも、国家の要請に従っての意識的行動であった。

 だが、ターニャをその腕に抱き、無邪気な表情や泣き声や寝顔を見る度に、違和感は募った。

 「ツガル」に産まれた以上、いずれターニャもここで訓練を受け、諜報員として日本に潜入する
というレールに乗っている。妻や自分にあやされるときゃっきゃっと喜ぶ娘が、やがては鋼鉄
よりも硬直した表情しか見せなくなるのだ。

 それは、よいことなのか?
 日本のあの子供たちと、ここの子供たち。
 どちらがターニャの未来にふさわしいのだ?

 マルクス・レーニン主義は、子供というものは人種や出生を問わず、正しく教化善導すれば
共産主義社会の礎となると説く。西側のもてはやす自由というものは、資本主義者が権力を
独占するために、使役しやすい奴隷を養成するために与える欺瞞にすぎないものだと。

 本当にそうなのか?

 私は、この子にどのように育ってほしいと願っているのだ?
 この子の幸せのために、私はなにができるのだ?



 パーヴェルはなにも変わらなかった。
 少なくとも外面は。
 KGBからの命令に従い、何度も日本での任務を達成した。
 新たな工作員を育て、送り出した。

 ターニャはロシア語と日本語を同時に習得し、日本に倣って6歳から始まる学校ではイデオロギー教育が与えられた。それを遮ることなど、父親でありKGB中佐の階級を持つパーヴェルで
あってもできることではなかった。

 しかし、彼は強い決意を秘めていた。
 ターニャをイデオロギーの道具になどしない。
 ターニャには人間らしい幸せを与えると。
 この考えを、言葉にして妻のエレアナに語ったことはなかった。KGBの施設であっても、どこで
盗聴されているかわからない。万一露見すればよくてシベリア流刑、最悪は言うまでもない。妻を
巻き込まないためにも、話すことはできなかった。
 しかし、彼女も理解していた。パーヴェルが家庭内でだけは愛娘に自主性や自立心を持たせ
ようとしていることを。彼女はもともとイデオロギーに関心が乏しかった。「ツガル」で働くことに
なったのも、縁故によって叔父の秘書に採用され、その叔父が転勤するのに同行したからに
すぎない。パーヴェルを愛し結ばれた今は、夫と娘と幸せな家庭を築きたいとだけ願い、夫が
娘のために良かれと思ってすることを信頼していた。彼女はただひたすらに家族を愛していた。

 パーヴェルの抵抗は、決して周囲に看取されてはならなかった。ターニャをスパイとして育て
たくないという親心も、KGB施設内における反体制活動に他ならないからだ。共産党の剣と楯と
して絶対の忠誠が求められる組織においては、イデオロギーに対するいささかの疑問も許され
ないのだ。
 それゆえ、彼はターニャに自由や民主主義の価値については一切語らなかった。どれだけ固く
口止めをしても、子供のことである。その危険性に気付かず、うっかりと他人に聞かせてしまっ
たりするかもしれないからだ。殊に共産党は密告を奨励する。学校の教科書に、父親の反体制
的発言をKGBに密告した少年の事績が美談として掲載されるほどなのだ。

 彼にできるのは、ガラス工芸の技術を教えること。そしてイデオロギーよりも大切なものを
教えることだった。

 ターニャは、こういう父の意図をはっきりと聞かされたことはない。だが、こういう言葉を忘れて
いない。
「人間の持つ自然な感情、感性、感覚、それらが融合して初めて、美しい作品に結晶する。
ガラスは石と炎を混ぜてできるのではないんだよ。作り手の願いがあって初めてできるんだ。
表現したい想いと、届けたい誰かのことを心に描いていれば、必ずいいものができる。
心が空っぽならば、ガラスはただの脆い道具になってしまう。
だから、自分の瞳を信じなさい。信じた人の瞳を信じなさい。
本当に大事にしたい気持ちを、守りなさい。そして、分け合いなさい」

 指導官としての責務の合間に、ガラス職人としての理想を極めようとして作った作品を持ち
帰って来た夜。そのグラスが満たす柔らかな曲線と夕焼けのような赤色を飽かずに見つめる
ターニャに、父はそう語った。

 しかし、彼女が父の想いを理解するまでに、あまりにも多くの犠牲が払われなくてはならな
かった。






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