夢魔の臨界 <7>



 薫はテーブル上のバスタオルをそっと取り上げた。そこには、陽子や鮎も目を逸らしたくなる
道具が並べられていた。
 プライヤー。ハンマー。鋸。釘。包丁。針。
 セリザワが言葉にならない声を上げる。

 子供がパレットにどの絵の具を最初に出そうかと迷っているかのように、あるものを手にしては
元に戻す彼女。
「あなたは知ってるかしら。人体のどこに最も痛覚神経が集まっているか」
 猿轡を噛ませられている彼だったが、それがなくても返事などできなかっただろう。
「正解は爪と歯。あまり時間がないから、古典的かつ効果的な尋問方法を使うつもりよ。まずは
爪の間に」
 5センチほどの、ありふれた裁縫用の針をそっと摘み上げる。
「この針を刺す。5本しかないけれど、足りないってことはないわね。これに耐えたら、爪を1枚
ずつ剥いでいくわ。手も足もね。まだ頑張っていたら、歯を抜くわ。もちろん麻酔なんてないわよ。
3本抜くと発狂するらしいから、理性が残っているうちに白状することをお奨めするわ」
 やめてくれと言いたいのだろう。懸命に首を振るセリザワ。何かの芝居なのかと疑う余裕も
なくなっているようだ。葉野香たちが息を呑んで見つめるなか、薫は左手で彼の乱れた前髪を
力任せに引っ張った。そして見開かれた虜囚の瞳に手にした針を刺さらんばかりに近付ける。
 電灯の光を鈍く反射する針先は、そよ風に煽られている程にしか揺れていなかった。
「この針をよく見なさい。私は昨夜、この針で由子の傷を縫ったわ。あなたの流した情報の
せいで、どれだけ由子が苦しんだか、いくらかでもわかるようにしてあげる。それであなたが
死んだって構いはしない。こっちを殺そうとしているんだから、立派な正当防衛よね」
 頭をのけぞるほど突き飛ばし、男の汗で塗れた左手をバスタオルで丁寧に拭う。
「もう一度言うわ。私は始めたら容赦しない。だから、一度だけ弁明の機会をあげるわ。白状
するのも大声を出すのも哀願するのも自由よ。舌を噛み切るのならそれでもいいわ」

 薫は粘着テープを剥がし、唾液で湿ったハンカチを抜き取った。
 顎を出し、肩を激しく上下させて酸素を求めるセリザワ。コップの中の金魚を連想させた。
「なぜ・・・・・なぜこんなことをするんだ・・・・・。僕は君たちと協力していただけなんだ。どうして
こんな目に・・・・・」
 鼻梁から冷たい汗が滴り、板張りの床に染みをつくる。困惑し、日本語を操るのに苦心して
いるのはわかる。だが、これが演技でないとどうして言えよう。
「自分が何を言っているのか、よく考えることね。言い逃れをすればするほど、痛い思いをする
だけなんだから」
 全く容赦のない薫の対応に、セリザワは対抗心を刺激されたようだった。口調に力がこもる。
「だいたいどうして僕が裏切り者ってことになるんだ。ユーコたちが襲われたように、僕と
リピンスキーさんも襲われたんだぞ。僕だって危険だったんだ」
「でもあなたはかすり傷ひとつないようね。ターニャの話では、拳銃を持った二人組を一人で
相手取ったようだけど、どうやってやっつけたのかしら?」
「彼らの一番の狙いは僕じゃなかった。リピンスキーさんだったんだ。だから、僕をどうこうする
より先に彼女が乗った電車を停車させようとしていた。ホームのボタンを押してだ。二人とも
ボタンにばかり気を取られていたから、殴って、時間を稼いで、それからは地下鉄のトンネルの
中に飛びこんで逃げたんだ。あとはただ走った。それがおかしいって言うのか?」
「撃たれてないじゃない」
「僕だって撃たれると思ったさ。だけど、あいつらの銃にはサイレンサーがなかった。地下鉄の
出入りがあれば銃声も響かないが、電車が出てしまってからは大きく反響する。だからだと思う」
「都合のいい解釈ね。自作自演だけに」
「・・・・・」
 セリザワの沈黙が何を告げるものなのか、誰にもわからなかった。正鵠を突かれて返す言葉が
ないのか、誤解を解くだけの材料が見つからないのか。

「次に行くわ。昨日、由子たちと別れてから、あなたは由子たちの行き先を敵に洩らしたでしょう」
「そんなことは、してない!」
「じゃあ、どうして待ち伏せされたの? 私は風祭と由子たちが会うことを知らなかったし、春野
さんたちも知らなかった。襲われた由子たちが洩らすはずがない。残る可能性はあなただけ」
「知らない!」
「あなたは私が昨日どこにいるかも知っていた。春野さんの家には盗聴機を仕掛けて、予定を
知った。そうやって私たちを一斉に殺して、何を手にいれるつもりだったの?」
「知らない! 盗聴機なんて知らない! 僕は誰も死なせようなんて思っていない!」
 ものわかりの悪い子ね、と言いたげに、ひとつ溜息をつく薫。
「・・・・・最後の質問よ。あなたは、どこに所属しているの? CIA? 華北マフィア? 日本の
警察? 他の組織?」
「僕は国務省の役人だよ・・・・・。領事館で聞いてくれればわかるんだ」
「CIAだったら、当然領事館はあなたの身分を保証するでしょうね。アメリカの工作員だって
認めたってことでいいのかしら?」
「違う! CIAなんか関係ない! 国務省の日本課が僕の所属だ。それだけなんだ!」

 薫は葉野香に目配せをした。手拭いを手に、葉野香はセリザワの背後に回る。固く絞られた
布が首に掛けられた。
 首を絞められるのかと思ったのだろう。激しく頭を振る彼。薫が耳に鋭い手刀を当てる。動きが
止まった隙に、葉野香がまた猿轡をする。
「これからは、自殺もさせないわ。ゆっくりと後悔してもらう。どうせ口を割るなら、最初から諦めて
いればよかったってね」

 薫は針を一本、テーブルから取った。
 全員の視線が彼女の挙動に集中している。鮎などは、彼女が本当に拷問を実行するとは
信じ切れていなかった。ここまでは自白を引き出すための脅しで、まさか本当に針を突き立てる
ことはないのではないかと。
 だが、葉野香は薫の瞳に滲む敵意と怒りが溢れているのを感じていた。

 薫さんは、やる気だ。
 本当にこれは正当防衛になるんだろうか。いや、ならないだろう。
 それは薫さんもわかっている。わかっていて、セリザワを殺す寸前まで痛めつけるつもりなんだ。
 止めたい。でも、私じゃ止められない。セリザワの疑惑を解くことができないから。
 葉野香はセリザワの恐怖に引きつる表情を見つめた。

 消去法で行けば、確かに最も怪しいのはこの人物だ。風祭さんと会う時に、それを誰かに
連絡できたのは彼とターニャと風祭しかいなかった。風祭が自ら囮となって自分たちを引き寄せ
た可能性はなくはない。しかし、彼に接触したのはこちらからで、梢がチームに加わらなければ
知り合うことのなかった相手なのだから、最初から背後で糸を引いていたとは思えない。春野
さんたちを待ち伏せさせることもできないだろうし。
 やはり、セリザワなのか。葉野香は今日薫の話を聞かされるまで彼に一片の疑いも持って
いなかった。それどころか、葛城梁の正体を知って落胆するターニャを、彼が慰めてやれない
かとすら思っていた。
 写真の葛城梁ほど美男子ではないけれど、女を騙して捨てて外国に逃亡するような小狡さも
ない彼は、少なくとも誠実であろうと。ターニャにふさわしいのは、こういう優しさや親切を惜しま
ない男だろうと。
 それも、すべて演技に過ぎなかったのだろうか。

 これから、答えが出る。
 
 薫がセリザワの背後に回り、括り付けられている右手を取った。彼は全力で拳を握り爪を
隠そうとするが、所詮人間の手の構造では親指を隠せば他の指先が露出する。その逆も然り。
「誰か、ハンマーを持ってきて」
 小さい声だったが、誰も聞き逃さなかった。しかし、誰も自分から動くことはできなかった。
「早く! 梢、寄越しなさい!」
 ややヒステリックな命令に、一番近くにいた梢が手を伸ばした。受け取るなり、彼女は
セリザワの右肘を殴りつける。人体の構造を知り尽くした遠慮のない一撃で、右手は痺れて
拳を握る力が緩んでしまう。
 親指を左手でぐいっと握り、立たせた薫は、針先を数秒ほど凝視した。
「まだ、素直になれない?」
 ぎしぎしと椅子を揺らし、必死で抵抗しようとするセリザワ。汗がだらだらと首筋を伝い、
シャツを皮膚に貼りつかせている。しかし、薫の掴む右手を解放することはできるはずもない。

「じゃ、一本目」

 薫は親指の爪の下、その中央に針を当てた。

 針を押し込もうと肘を上げたその瞬間、リビングのドアが開け放たれた。






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