夢魔の臨界 <6>



 薫も他のメンバーも、ターニャとセリザワが襲われた状況をこの時初めて聞いた。次の地下
鉄の駅で降りたターニャが涙ぐみながらかけてきた電話では、薫も不充分な説明しか聞き取る
ことはできなかったし、この山荘に着いて由子の手術が終わると、再びターニャは自我を虚脱
しまったかのように無反応になり、やがて糸を切られた操り人形のように板張りの床に伏して
いったのだ。

「ターニャ、もういいわ。鮎と交替してきてくれないかしら。あの子にも聞きたいことがあるから」
 肩を力なく落としたまま、頷くだけの返事をして彼女は部屋を出ていった。程なくして階段を
降りてきた鮎が席につく。
「今度は私に聞くことがあるんだって?」
 薫は返事をする前に、そっと立ち上がって廊下へと繋がるドアを開けて、誰もいないことを
確認した。その姿を不思議そうに見る琴梨。まるで誰かに立ち聞きされるのを恐れているようだ。
「薫さん?」
 琴梨の推測は的を射ていた。席に戻ると薫は、昨夜の手術に取りかかった瞬間を彷彿と
させる尖った表情で話し始めた。
「これから、昨日のことがどうして起こったのか、私の考えを話すわ。あとで陽子さんにも話す
けれど、絶対に、ターニャには言わないこと。鮎に聞きたいことがあるというのも、あの子に
聞かれないための口実なの。いいわね」

 彼女の披瀝した仮説は、最初の数分で全員の鼓動を急速に乱すものだった。何度もあちこち
から疑いの声が上がったが、既に熟慮してあらゆる可能性を検討してある薫に論破され、
やがて薫の予測を補強するような状況証拠もメンバーの記憶から導出されるようになった。
まだどこかに信じられない気持ちを残しながらも、このまま座して襲撃を待つだけでは自らを
守りきれないことを全員が確認した。

 そして、手筈が確認された。

 薫の指名で、里中梢がターニャの元へ向かう。
「ターニャ、私と交替だって」
 そう言ってから、何気なく付け加える。
「セリザワさんから連絡はない?」
「電源を、切ったままですから」
 彼女は陽子からの指示を朝になってから聞いた。由子の手術中もそれから力尽きて眠って
しまった間も、一度もコールされることはなかった携帯電話はポケットの中にある。 
「もういいってさ。さっき、もう構わないだろうって話になったの。かけてみようよ。きっと無事で
いるから。ね」
「・・・・・はい。それじゃ、かけます」

 10回ほどのコール。
 諦めて掛け直そうかと思った頃、それが途切れた。
「もしもし、ターニャだろ! どこにいるんだ?」
 梢の耳にも届くほどの、大きな声だった。
「セリザワさん、大丈夫ですか? 怪我をしていませんか?」
「ああ、どこにも怪我はしてない。なんとかあの場は切りぬけた。それより、君は? 君は
無事なのか? みんなは一緒なのか?」

「ターニャ、ちょっと来て」
 階下から葉野香の声がかかる。電話と用事とどっちに対応しようかと戸惑うターニャから携帯を
受け取る梢。
「行ってきて。私が話しておくから」
 もちろんターニャには、これが計画的なものだとはわからない。 

 二人の足音が遠ざかったのを確かめてから、梢は口を開く。
「もしもし、スティーブ?」
「君は・・・・・コズエか? そうだろ?」
「そうだよ。全員無事でいるから心配しないで」
「ニュースを見た。コズエもユーコも攻撃されたんだろう? 怪我をしていないのか?」
「ええ。由子さんがかすり傷を受けたぐらい。みんな元気だよ」
「よかった。心配していたんだ。今、どこに?」
「旅館にいるよ。春野おばさんの親戚がやっているところでね。ここなら安全。スティーブはどこに
いるのさ」
「領事館近くのホテルにいる。また襲われたら、もう領事館に助けを求めるしかないからね。
しかし、ここもいつまでいられるかわからない。1ヶ所に居続けるのは危険だからね」
「それじゃ、こっちに来る? その方がいいんじゃない?」
「そうだな。場所を教えてくれないか」
「札幌から○○という電車に乗って、×××という駅で降りて。そうしたら迎えに行くから」
「わかった。すぐにここを出る。着いたら電話すればいいか?」
「うん。待ってるから。それじゃ」

 指定した駅は、山荘の最寄駅とは路線も違うし山を一つ越えないと行くことのできない場所に
ある。旅館などでっちあげだし、由子が軽傷だというのももちろん嘘だ。すらすらと事実と違う
ことを言える才能が役に立つとは皮肉なものだと梢は苦笑いをしかけながら思った。



 とうの昔に無人駅となり果て、朝晩に高校生などがやむを得ず利用することでJR北海道の
赤字を申し訳程度に減らしている×××駅。周囲に朽ちた看板以外に商業活動の痕跡はなく、
やっとラグビーチームが結成できるほどの乗客は迎えに来た家族の車や自転車ですぐに立ち
去っていった。
 既に日は没し、ホームを歩くセリザワにはおぼろげな方角以外は自分がどこにいるのを把握
できなかった。一旦木造の駅舎を出て、駅名が間違っていないことを確かめてから携帯を取り
出し、ターニャの番号をコールしようとした。
「スティーブ」
 不意に背中から声がかかった。
 耳から携帯を離して振り向くと、がらんとした駅前広場の端に人影が3つ。街灯もなく駅からの
照明も届かないが、声とシルエットで彼は左京葉野香と里中梢、そして椎名薫だとわかった。
アスファルトがひび割れて雑草が剃り残しの髭のように飛び出しているロータリーを横切って
駆け寄る。
「よかった。本当に無事だったんだな。どうなったかと思っていたよ」
 薫が軽く頷いてから、踵を返す。
「詳しい話は、安全なところに行ってからにしましょう。車はこっちに停めてあるから」
 暗くて3人の表情は全くわからない。頷いて、薫の後について歩くこと4歩ほどで、彼女が
大事なことを思い出したように急停止した。
「そうだ、セリザワさん。これがなんだかわかる?」
 顔の前に、何か円筒状の物体が近付けられた。機械的に整えられた形としか知覚できな
かった。もっと良く見ようとした瞬間、視界が突然黒から白へと逆転し、痛みが眼球を襲った。

 薫が懐中電灯のスイッチを入れ、利き目を潰したのだ。両手で顔を覆い頭を上げ無防備に
なったセリザワの首筋に、葉野香が隠し持っていた金属棒を振り下ろした。
 呻き声を短く洩らして前頭部を地面に衝突させるセリザワ。右手が体を支えようとしたのを
看取した薫が葉野香から棒を受け取り、再びうなじに鋭い一撃を与える。
 ぐったりと全身を弛緩させたセリザワの髪を鷲掴みにして、懐中電灯の光で失神しているのを
確認した薫は、そのままライトを大きく振って合図を送る。
 それを受けて春野陽子が100メートルほど離れた路地から車を出し、消灯したまま薫たちの
ところへ向かった。
 3人がかりでセリザワをチェロキーに乗せ、全員が落し物や忘れ物などないことをチェックし
あってから、車は山荘へと向かう。
 
 目撃者ゼロ。完璧な拉致劇だった。

 約100分のドライブで、彼女たちは隠れがたる里中家別荘へと無事に戻ってきた。尾行の
様子はなく、警察の動きも目にすることはなかった。
 出迎えた琴梨と鮎も手伝い、 チェロキーの後部座席からセリザワを引きずり出す。走行中に
彼の手足は濡らした荒縄で縛り上げられ、口にはハンカチを詰め込んで粘着テープで封をされて
いた。まだ意識は朦朧としているため、10本の手で棺桶でも運ぶように山荘のリビングへと担ぎ
入れる。

 セリザワが意識を取り戻したのは、更に30分ほどが過ぎ、両頬を薫の手によって3秒間に
5回ほど張られてからだった。

 目を瞬かせたセリザワが最初に見たのは、子供の頃、昆虫嫌いの同級生が毒虫を踏み
潰そうとする刹那に浮かべた冷厳な視線に似た、女医の敵意に満ちた表情だった。
 後頭部を貫く鈍痛に声を出そうとしたが、舌が何かに邪魔されて動かない。危うく窒息する
ところを鼻で呼吸してやっと呼吸を落ち着かせると、今度は手首と足首が動かせない。
 そこでやっと彼は、自らが手足を拘束され、椅子に座らされてがんじがらめに縛られている
ことを知った。身を捩ってみるが、肘が背もたれに、足首が椅子の脚に結ばれているので、
腰を浮かすことさえままならない。しかも、腿や腹にもロープが渡っている。

 薫は男の眼が恐怖で染色されるのを見た。
「目が醒めたわね。なにか不満があるようだけど、抗議は受けつけてないの」
 一旦言葉を切り、右手でセリザワの耳を無造作に握った。爪が立ち、切れた薄い皮膚に紅く
血が滲む。
「これから、あなたのやったことを洗いざらい喋ってもらうわ。無駄な抵抗をしないことね。私は
医者。あなたを死なせないでいつまでも苦しめ続けることができるんだから」
 絶対零度の冷ややかな宣告は、テーブルについて見守っている葉野香たちをすら怯えさせた。
 「忍耐の限界記録を目指してみてもいいわ。あなたの墓に栄誉を刻んであげるから」

 このリビングにいるのは薫のほかに、春野陽子、川原鮎、里中梢、左京葉野香の5人。
ターニャは薫の計らいで2階で見張りをしている。春野琴梨はこれからなされることを正視
できそうもないと、由子の看病を買って出ている。
 もちろん、この尋問に強い抵抗を感じているのは琴梨だけではない。
 葉野香は確信を持てないまま駅にセリザワを迎えたため、全力で金属棒を振るうことができな
かった。もちろん、誰かを殴って気絶させた経験などないということも手加減をしてしまった
理由の一つだが。薫がいささかも躊躇せずに追加の一撃を与えたのに驚いていた。
 鮎や梢、陽子も薫の仮説の持つ蓋然性の高さは納得している。しかし絶対の証拠がない
ままに、仲間だと信じていた男をこれから締め上げなくてはならないとなれば、自ら手を下す
気持ちにはなれないでいた。

 もちろん薫も、彼女たちのそんな消極的態度は理解している。だが、由子を死なせるところ
だったこの背信者に容赦する意思はこれっぽっちもなかった。このまま放置すれば全員が
惨たらしく死ぬことになるし、自分たちを売った男にかける情けなど、まだ隣室で熱に喘いでいる
友の苦悶に比べたらなにほどの価値もない。彼女は、どんな手段を使ってでも、セリザワに
自白させると決意していた。
 そう。スティーブ・J・セリザワこそ、葛城梁に関わった自分たちを抹殺しようとした張本人だと。

 薫は、セリザワがチームに合流した時からその言動に注意を払ってきた。
 なにか根拠があったわけではない。セリザワだけを疑っていたのでもない。程度の違いは
あれ、彼女はチームの全員に疑惑のフィルターをかけて見ていたのだ。
 スパイ小説なども読んでいた彼女は、自分たちの活動をただの趣味的な調査ではなく、国家
権力をも敵に回す可能性のある隠密活動として認識していた。それ故に自分たちが情報を
得るのと同等に、自分たちのことを知られないことを重要視していた。
 諜報と防諜は表裏一体。だが、内部の人間を疑うようなことはたとえ必要だとわかっていても
やりたがるものなどいないだろうと、自らにその任を負わせることにしたのだ。そもそも防諜を
する者が内通者でないと確信できなければならないが、葛城梁の件に関わるまで誰とも知己
ではなかった彼女には、誰に任せていいかもわからなかったのだ。
 特に、当初は付いていた尾行がなくなったという点が警戒心を高めさせた。尾行をしない
のは、内部から情報を得られるようになって必要性がなくなったからではないかと推察できた
からだ。

 孤独な検証をしなくてはならなかった。可能性は尽きることがない。どんなに荒唐無稽に
思えても、葛城梁の存在そのものが常識から外れている以上、安易に解釈をつけるわけには
いかないのだ。

 春野母子は葛城梁の逃亡に手を貸した?

 川原鮎はその協力者?

 左京葉野香は記者の身分を隠れ蓑にターニャに接触した工作員?

 里中梢はチーム内部に潜り込んでこちらがどこまで知っているかを調べようとしている?

 桜町由子は自衛隊の情報部と関係がある?

 セリザワは本当に葛城梁の親友?

 時に馬鹿馬鹿しいと自嘲しながらも、容易に白と黒とを判別することはできないでいた。だが、
調査の進展と共に人間関係を深めているうちに、まず春野母子については対象から外して
いいと思った。あの誘拐未遂事件が狂言だとしたら、そんなことをする理由が考えられない
からだ。あの件がなければ、これほどチームは慎重に慎重を重ねた活動を根気よく続けることは
なかっただろう。身の危険を感じたからこそ、全員が真実を掴むことで対抗しようと決めたの
だから。
 もちろん、この母子の善良さがマザー・テレサ顔負けのものであることはすぐにわかった。
 次に除外されたのは桜町由子。チームに入るきっかけになった遭遇を演出するのは事実上
不可能だろうし、腹に一物を抱えたまま周囲を欺くような気質はまるでなかったからだ。
 川原鮎も、春野母子が無関係であれば後ろ暗い組織と関係がある様子はない。
 左京葉野香については、そもそも彼女がターニャを発見しなければ葛城梁の死が疑われる
こともなかったのだから、どこかの回し者だとしたらこれほど逆効果な話はない。
 もちろん、ターニャは最初から疑惑の対象外である。彼女がメンバーを裏切って得るものなど
なにもないからだ。

 なかなか疑念を捨てきれなかったのが、里中梢とスティーブ・J・セリザワの二人だった。
 梢は好奇心をあからさまにしてチームに加わったが、既にターニャは薫の部屋に匿われ、
葛城梁の調査もある程度進んでいた時期でもあり、敵方が誰かを送り込んで内部情報を探ろうと
してもおかしくなかった。
 だからこそ、薫は彼女の紹介した風祭と会う時に過剰なまでの用心をした。そもそも面会する
ことを春野母子などに知らせなかったのは、梢が内通者ならなんらかのアクションがあるだろうと
予測したためでもあったのだ。結果的に風祭から得た情報がそれまでにチームの集めた事実と
全く食い違わなかったため、これが薫たちを誤導しようという逆情報ではないと薫は判断し、
梢のことも信頼できるようになった。

 残ったのが、セリザワである。
 そもそも、彼が国務省の役人だと確認する術がない。更に言えば葛城梁の親友だという証拠も
ない。ターニャは一度もセリザワのことを恋人から聞いていないし、秘密の闇に沈もうとしていた
彼がターニャのことを友人に話していたというのも不自然である。

 どこかから送り込まれた男なのではないのか?

 そう感じていた薫は、風祭と最初に会う時に、梢のことを疑いながらセリザワのことをより
念頭に置いていたのだ。セリザワが内通者ならば、重要な情報が掴めることを知らせれば
妨害されかねない。それを避けると同時に、後から事実を知らせることで彼の反応を窺った
のだ。薫自身が顔色を探っては悟られてしまうと、その役目は事情を打ち明けた由子に頼んで。
 そして、2回目以降の会合は予め彼が知るように計らった。もしこれ以上知られて困るの
ならば、きっと彼は動くだろうと。
 
 確かに動いた。チーム全員の殺害へと。






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