夢魔の臨界 <5>



 山荘に、寒々とした午前5時が訪れた。

 薫が目覚めたのは、どうやら一階中央の大部屋のようだった。カーテンの隙間からはまだ光が
入ってきていない。まだ夜明けには早いのだろう。薄暗く暖房が効いた部屋に、鮎や葉野香、
琴梨が毛布に包まって眠っていた。
 彼女たちを起こさないようそっと起き上がり、隣の部屋、由子が横たわっているであろう部屋
へと向かう。板張りの廊下の冷たさが、強張って重たい足を伝わった。両腕は疲労で板切れの
如く存在感が希薄だった。

 そっとドアを開けたつもりだったが、金具がきしんで中から「誰?」と声がかかった。春野
陽子の声だった。
「私です。ついていてくださったんですか」
「ええ。交代でね。容態は落ち着いていると思うわ。まだ体は火照っているけれど、熱は下がって
きているの」
 薫が手早く診察すると、彼女の体は回復過程に入ったようだった。傷口も化膿していない。
感染症の可能性からも逃れたと思いたい。
「椎名さん。まだ休んでいなさい。あなたが誰よりも頑張ったんだから。ここは私が看ているわ」
「でも、外の見張りもあるし」
「今はターニャがやってるわ。次は梢ちゃんの番。順番を決めたの。あなたに回ってくるのは
もっと後よ。だから休むの。ね」
「・・・・・では、もう少しだけ横になっています。由子が起きたら、包帯を替えて消毒してください。
あと水分を補給させて、食べられるようなら果物かお粥を与えて、それからこの薬を飲ませて、
あとは・・・・・それだけでいいかな・・・・・」
 まだ軸が定まらないまま回転する思考は楕円を描いてぶれてしまう。手探りで袋の中身を
当てているようなもどかしさがこみ上げてきたが、陽子はそんな彼女を優しく諭した。
「ちゃんとこの看護婦が承りました。これからは先生じゃなくて看護婦の仕事でしょう。任せな
さいな」
 もっともな意見に、薫は従うことにした。
「ただね、まずいことが一つあるんだよ」と陽子。
「なんです?」
「私が高速で事故を目撃した時、琴梨ともう一人が乗っていたのは知っているだろう?」
「ええ。たしかめぐみという親戚の子でしたね」
「愛田めぐみといってね。美瑛で牧場をやっている家なんだけど、
昨夜電話をしてみたのさ。まさかと思ったけれど、あの子も無関係ではないからね。そうしたら、
JAの人が電話に出て、家族全員が旅行に行っていて、牛の世話を頼まれたっていうんだ」
「それは、本当なんですか?」
「旅行に行くのに、うちになんの連絡も無いなんて考えられないんだよ。めぐみちゃんは受験生
だし、こんな大事な時期に家を空けることはありえないと思うのさ」
「その、電話の人は?」
「電話に出たのがJAの人だったのは多分本当だと思う。こういう話なんだけどね」

 昨日の昼頃、愛田牧場を所管するJAに電話がかかってきた。
 牧場の経営者で陽子の兄でもある愛田耕作本人が、急に家族で旅行に出ることになったから
牧場のことを頼みたいと言ってきた。突然のことだったがどうしてもと懇願され、JAが周囲の
牧場経営者の協力を仰ぐことにした。
 ところがJA職員も含む数名が手伝いに行ってみると、簡単な作業の手順が記されたノートが
ドアに挟まれているだけで、すでに一家は出立してしまっていた。
 やむなく、そのまま牧場を預かっているのだという。

「どういうことだと思う?」
「拉致、でしょうか。電話をしたのがお兄さんなら、脅迫されたと思うしかないですね・・・・・」
「無事、だと、思いたいよ・・・・・」
 ついに事態は、無関係なはずの一家をも巻き込んだ。その一人はまだよちよち歩きの幼児で
ある。どう責任を取ればいいのか。陽子の声は後悔に沈んだ。
「ここからでは、まだ手は打てません。これから対策を考えます。由子とも約束してるんです。
絶対に、はっきりさせるって」
「できるのかい?」
「する他、ないですよね。全く手掛かりがないわけじゃないんです。そうだ。みんな、家族にここに
いることを・・・・・」
「ああ、昨夜のうちにここの電話で鮎ちゃんと梢ちゃんには連絡を入れさせたよ。警察が信用
できないというから、逆探知されないように短くね。葉野香ちゃんは1日ぐらい連絡しなくても
平気らしいし、由子さんは明後日まで非番だって話だからいいだろうね。あとで私と琴梨も
職場に仮病使わないといけないけど」
「それでいいです。みんなに携帯の電源は切らせておいて、もしここに電話がかかってきても
出ないでいてください。あ、マスコミはどう報じてます?」
 この問いに陽子の表情が再び翳った。由子が目覚めないように枕元の椅子から立ち上がり、
部屋の隅へ移動する。

 この山荘はテレビも電話も完備していた。由子の状態が安定してからは、常に最低一人が
状況を把握するためにニュースを視聴していたのだが、数多くの不審点があった。

 まず、春野琴梨が発砲された事件が一切報道されない。現場が人影のない裏通りであった
ことや犯人がサイレンサーを使用したことで、周囲を派手に騒がせることはなかったとはいえ、
恐らく犯人たちはコーヒーショップから出てこない琴梨を追って店内に踏み込み、裏口から
路地へ出ている。琴梨を逃がしてくれた店員が、疑心を抱かずに男たちを通したとは考え
にくい。警察への通報がなされなかったのだろうか。

 さらに、ターニャとセリザワへの襲撃も、薫への待ち伏せも報道されていない。薫の脱出行は
傍目には医師による大学構内の暴走行為であり、怪我をした被害者はいないはずだが、
警察官の不祥事が派手に書き立てられるように、高い社会的信用を求められる職業に従事
する者のモラル低下の一例としてマスコミが飛びつくネタだ。多くの目撃者もいる。確かに
巻き添えで7人が死傷した大事件の影に隠れてもおかしくはないが、やはり不自然としか
思えない。

 由子たちへの襲撃事件については、依然として犯人の足取りなどは掴めていないとされて
いる。しかし、この事件への警察の対応もちくはぐである。薫たちも陽子も、警察の緊急検問を
受けていない。迅速な脱出が成功したからでもあろうが、途中で由子の治療や物資購入を
している。対応が遅くはないだろうか。薫を警察が監視していたのなら、陽子や鮎たちも例外
ではあるまい。それをみすみすここまで見逃すだろうか。すぐに襲撃グループを逮捕しようとして
彼女たちを見失ったのならともかく、一人も拘束していないのだから逮捕する意思があったのか
どうかすら定かではない。

 そもそもマスコミの報道も警察によって操作されている可能性がある。すでに襲撃犯を確保
していながら、なんらかの理由でそれを隠しているのかもしれない。ここまで信用できなくなると、
もはや陽子には筋道の立った結論を出すことなどできそうもなかった。

 しかし、じっと彼女の説明を聞いていた薫は感情を潰して呟いた。
「それで半分ぐらいは、わかってきました。どうしてこういうことになったのか。落ち着いたら
話します」
 目を合わさずに部屋を出て行く薫。ドアに手をかけて、立ち止まる。
「あとは、知っている人に聞くしかないですけれど・・・・・」


 再び彼女が目覚めると、驚いたことに壁の時計はお昼近くを指し示していた。 カーテンは
閉められたままだが、外が明るくなっていればわかるはずなのにと寄ってみると、雨戸が
閉まっていた。考えてみれば、昨夜までずっと使われていなかったのだから当たり前だった。

 室内には誰の姿もなく、端の方に何枚かの毛布が畳んで重ねてあるだけだ。
 疲れが抜けていない腕を曲げ伸ばし、ひどい髪になっているわねと自嘲しながら廊下に出た。
「あ、薫さん」
 そこには琴梨と鮎がいた。
「起きたんですね。様子を見に来たんですけど」
「体、平気ですか?」
「ええ。心配かけたわね。由子はどう?」
「さっき、少し果物を食べました。元気になれそうですよ」
「よかった」

「どう?気分は」
 由子は目覚めていた。2つの枕で体勢を工夫しながら仰向けになって、背中の傷に負担を
かけないようにしていたのは陽子の配慮だろう。
「もう、痛くも痒くも、ないよ」
「医者を欺けると思ったら大間違いよ。でも、そう言える元気があるのはいいことだわ」
 いくらかためらってから、由子は琴梨と鮎に頼んだ。
「あのさ、二人とも、悪いんだけど、二人だけにしてくれる?」
「あ、はい。行こ、琴梨」

 薫は由子に、左手指を一本ずつ動かさせた。無言のまま従う彼女。激痛が歯を堅く食い
しばらせているのだ。しかし薫はそれを承知で「中指」「親指」と指示を出す。ゆっくりとだが、
指示通りに指が動く。神経が傷ついていない証拠だ。
「もういいわ」
 ベッドの枕元にある濡れタオルで、額に浮かんだ汗を拭ってやる。
「最後に傷口を消毒したのは?」
「ついさっき。15分ぐらい前」
「なら今はそのままがいいわね。術後経過も今のところ良好。私の腕もたいしたものね。
そんなに難しいオペじゃなかったけれど」
 内心ではコールドメダルクラスの幸運に感謝していた。
「聞いたよ。手術のこと。倒れるまで手を尽くしてくれたんだってね。ありがとう、薫」
「私は医者だから・・・・・」

 切開を始めようとナイフを握るのと同時に、よぎった不安。
 もし失敗したら、この手で彼女を死なせてしまうことになる。
 怖かった。
 もし途中で手を止めて考えていたら、それ以上続けることはできなかっただろう。

「ううん。それだけじゃないわね。由子だから、どうしても助けたかった。みんなが力を貸して
くれたから、なんとかやり遂げられたのよ。ほんと、みんな、すごく頑張ってくれた・・・・・」
 堪えようとしても、瞳が潤んでしまった。
 由子には薫が顔を伏せた理由がわかる。だから、「早く治して、恩返ししたいな・・・・・」とだけ
言った。
「そうね・・・、いけない、ここでしんみりしたら、不治の病みたいね。なるべく食べて、栄養を取って。
それが一番の近道だから」
「どれぐらいで治る?」
「傷口がちゃんと塞がるまで1週間。そうしたら抜糸をするわ。それまでは腕は使えないと思って。
歩いたりするだけなら明日ぐらいからできるわ。それから機能回復に2週間というところね」
「しばらくツーリングにも行けないか」
「そうね。治ったら、この間の約束を実行しましょう」
「うん」
 一階にあるキッチンから、炊事をする琴梨と葉野香の話し声がドア越しに聞こえてくる。由子は
思う。自分と同じように、彼女たちも生命の危機から逃れてはいないのだろうと。
「それでさ、こうなったのは、やっぱりあのせいかな?」
 薫の無音の歯軋りが漏れる。
「これから結論を出すわ。絶対にはっきりさせる。向こうがその気なら手段は選ばないわ」
 激しい眼光は窓の外へ向けられたが、由子にもそこに仮想された怒りの対象がなんなのか
わかっていた。
「無茶だけはしないでね」
「ええ」

 薫が廊下に出ると2階からも話し声が聞こえた。この山荘の構造を確かめながら、木の形を
残して雰囲気を出しているのに軋みもしない階段を昇ってゆく。どうやら2階には3つの個室が
あり、それぞれベランダ東、西、南にベランダが張り出しているようだ。
 ドアの開け放たれた一番手前の部屋の入り口から「梢」と呼びかけると、眼鏡から双眼鏡を
離して彼女が振り向いた。
「薫さん、起きてたの?」
「さっきね。見張り、ごくろうさま」
「今のところ、やってるのはバードウォッチングだね。人は全然見かけないよ」
「その方がいいわ。時間を稼いでおきたいから」
 この山荘の構造や周辺の地理を詳しく尋ねてから、薫は隣の部屋へと向かった。そこには
誰もいないが、昨日買い集めた道具や食料に加えて、ここの物置にあって役立ちそうなものを
集めてあると教わったからだ。いくつかを手に取り、満足してから残る一部屋へ入る。
 ベランダに立つターニャの背中は悄然としていて、声をかけるに忍びなかった。そこに、
階下から葉野香の声が届く。
「お昼ができたよー!」

 1階のリビングは既に毛布などが片付けられ、テーブルには2枚の大皿に盛られたパスタが
鎮座して取り分けられるのを待っていた。手軽に作れて栄養のあるものと、琴梨が用意した
メニューだった。
 とりあえず見張りは不要だと、薫は由子を除く全員を集めて料理に手をつける前に言った。
「みんな、昨日はありがとう。おかげで由子は助かったわ。もう心配いらないから」
 自然と拍手が沸きあがる。
「いろいろ話し合うことがあるけれど、まずは食べましょう。食べて体力をつけておかないと、
これから持たないから」

 みんなが琴梨の腕を「さすがプロだね」と称えた。その通り、疲れで食欲の出ない者の胃袋も
刺激するだけのできだったのだが、それが最も無難な話題だったからだという側面を、誰もが
わかっていた。

 手分けして片づけを終えてから、薫は陽子に見張りを、鮎に由子の看病を頼んで、残る
メンバーから昨日の状況を詳しく尋ねた。

 琴梨と陽子が待ち合わせをして外食することを決めたのは一昨日の夜、自宅でのことだと
いう。誰かにそれを教えたことはなかったのか。

 風祭から連絡があった時、どういう経緯でメンバーが二手に別れることになったのか。

 由子たちへの待ち伏せの状況。どうやって襲撃から逃れたのか。

 そして、ターニャ襲撃の状況。
 セリザワと共に薫のマンションへ戻ろうとしていたターニャ。
 目指す地下鉄の駅へと降りて、ホームの端までゆっくりと歩いた。もともと彼女は混雑が
苦手である。心臓への負担も考え、一人の時は習慣的に空いている車両を目指すように
なっていた。この時はセリザワがいたわけだが、彼も歩みを緩めなかったため先頭車両の
先頭のドアが開く位置まで来ていた。
 何を話しながらそこまで来たのか、彼女はよく憶えていない。さほど深刻な話題ではなかった
のは確かだった。

 ホームに埋めこまれた着色タイルに彼女が足を乗せると、セリザワは隣に立ち、電車は
まだかなとでも態度で喋るように地下トンネルの奥底を覗き込んだ。ターニャも同じことをした。
 そしてアナウンス。
「電車が、入ります。白線の、内側に、お入りください」
 ファンという警笛が一声。
 地下鉄のヘッドライトが見えた。

 その時である。

 ターニャの視界がセリザワの背中でいっぱいになった。彼が彼女を背中に隠したのだ。
どうしたのかと首を横から出す。そして目が合った。近づいてくる二人組の東洋人の、敵意に
満ちた目と。

 ゴムタイヤの音は反響し、空間をノイズで満たし始める。
 それを待っていたように、男たちはコートの内ポケットから鈍く黒光りする金属、拳銃を
取り出し、コートの布地で隠しながら向かってくる。

「ターニャ。乗るんだ。いいね」
「乗るって、セリザワさんは?」
「後から行くよ。電話するから。乗るんだ」
「そんな、駄目です。それじゃ」

 停車し、人々を吐き出し吸い込む電車。
 二人組は人の流れをどかしながら一直線に迫る。
 僅か彼我の距離が10メートルほどにまで接近した頃、またも機械的なアナウンスが流れた。
「ドアが、閉まります。駈け込み乗車は、おやめください」
 そしてドアが閉まる直前に、セリザワがターニャを車両の中へと突き飛ばし、男たちへと
突進した。

 突然のことに目を丸くする乗客。
 転倒したターニャが慌てて起き上がると同時に、何事もなかったかのように扉は閉ざされ、
車輪が回転を始めた。窓に顔を貼り付かせてターニャが見た最後の光景は、二人組の男と
揉み合っているセリザワの小さくなってゆく背中だった。






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