夢魔の臨界 <4>



 最初に山荘へと車を乗りつけたのは春野陽子たちだった。
 夕闇が暗闇へと表現を譲る直前。
 頂上近くはすっぽりと白い帽子を被った山の中腹まで曲がりくねった登山道を、4WD車の
強みで勢いよく駆け上がってゆくと、『SATONAKA』とヨーロッパ調の横書きの表札が
掛けられた柵を発見することができた。 
 山荘というのでロッジのような古びた建物を想像していたが、クライマーが使うような山小屋
ではなく、いわゆる別荘に近い2階建てペンション風の瀟洒な構えがそこにあった。先週降った
雪が陽光を浴びない物陰などにはまだ残っている。

 道が登りになってから、一台も擦れ違う車はなかった。同じ方向へ行く車も見かけなかった。
隣家と呼べるような存在もない。どうやら人目を避けるには絶好の環境のようだった。

 陽子はエンジンを切らない。
 琴梨は神経過敏に周囲を窺い続けている。
 ターニャは顔を伏せて微動だにしない。
 陽子たちは途中、必要になるかと思って保存が効いて調理の簡単な食料を買い込んでいた。
その時ターニャに声をかけたのだが、彼女は人格そのものが抜け落ちてしまったかのように、
虚ろな瞳を宙に漂わせるだけだった。

 ウィンドウ越しに野生動物の鳴き声が聞こえる。
 都市育ちの琴梨にはそれがなんなのかわからない。こんな状況でなければ、珍しかったり
可愛かったりする姿を想像して楽しめているのだろう。
 今は、ガサリと草むらが揺れるだけで手先が震える。
 悪意。悪意。悪意。
 誰かが自分を、母を殺そうとしている。
 その意識が、石ころや星明りにすら怯えを抱かせる。自分がこんなに無力だなんて、思いも
しなかった。どうしたらいいのかわからない。

 下から車のヘッドライトらしい光が6つ、近づいてくる。
 もし梢たちの車ではなかったら、どれだけ無謀な運転をしてでもまた逃げなくてはならない。
 ライトをつけないまま、ステアリングをぎゅっと握る陽子。

 だがその心配だけは杞憂で済んだ。
 先頭にカニの目のようなライトを点した個性的なフォルムの梢の車があった。鮎のらしい車と、
これまた遠くからでもわかる薫のフィアットが続いている。
 だが、運転しているのが彼女たちと決めてかかるのは危険だと思い至り、緊張を新たにする。
 梢がスプライトのドアを蹴り飛ばすようにして降りたのを見て、やっと陽子は窓を開けた。
「梢ちゃん!」
「おばさん! 手伝ってください。由子さんを運ばないと」
「わかったわ。琴梨も!」
 言いながらエンジンを切りサイドブレーキをかける。
「うん」
 山麓の外気は、優しさの破片すらないように感じられた。

 梢は山荘の鍵を開けに走る。鮎の車では葉野香と鮎が由子を後部座席から出そうと急ぐ。
駆け寄る春野母子と4人がかりで、そっと振動させないように山荘内へと担いでゆく。それでも
由子の顔には激痛による苦悶がありありと出ていた。購入した鎮痛剤を服用しているのだが、
市販のものでは効果も知れたものである。彼女は歯を食いしばり、心配させまいと呻いて
しまうのを耐えたかったが、拳を強く握ったりすることも困難になってきた。体力そのものが
急速に低下しているのだ。脈を取りながらついてゆく薫は、規則的に心臓から送り出される
血流の弱さに、どこにいるかわからない神や仏を無言のまま罵った。

 ふと葉野香が気付くと、ターニャの姿がない。
「春野さん、ターニャは?」
「車から降りてない? いるはずだよ」
 確かに、チェロキーの後部座席に彼女らしい影がある。
 どうして降りてこないのか不思議だったが、今は由子さんをベッドに運ぶのが先と、気にしない
ことにした。

 ブレーカーを上げパチパチと1階の灯りを点していた梢が手招きをする。
「由子さんはこっち! この部屋に」

 そこは里中家のゲストが招かれた時に使われる個室だった。あえて丸太の形を残して
作られたベッドに、クローゼットの布団袋から布団を出して敷く。
 なんとかうつ伏せに横たえられた由子は薫に任され、葉野香や鮎は買いこんできた医薬品や
食料を運ぶために再び出てゆく。

 ずっと車に揺られてきて、ようやく安定した柔らかさに体を預けられた安堵感が由子の神経を
苛む痛みを少しだけ慰めてくれる。しかし、自分の体のことである。このままでは腕一本よりも
大きなものを失ってしまうのはわかっていた。
 薫は脱色して縮んでしまったようにすら思える由子の頬に掌を当て、耳元に口を寄せた。
「由子? 聞こえる?」
 少しだけ頭が動いたのは、頷きなのだろう。
「・・・・・わかるよ・・・・・薫・・・・・椎名先生・・・・・かな・・・・・」
 いつも諧謔を欠かさない彼女が、これだけのジョークを言うのにありったけの余裕を掻き
集めなければならないのが、薫にはわかっていた。
「よく聞いてね。これから背中をもう一度処置してから、腕を手術するわ。とても痛いと思うけど、
きちんとした麻酔薬がないの。だから我慢してもらうしかない」
 由子の手を握った。ぞっとするほど冷たい。
「頑張れるわよね」
「・・・・・もちろん」
「血液型はBよね」
「うん。Bだよ・・・」
「ちゃんと消毒して縫合すれば、あとは感染症の心配だけになるから、状態はぐんと良くなるの。
だから、我慢して。私を信頼して、任せてほしいの」
 もし破傷風や敗血症になれば、きちんとした抗生物質がない今のままでは手の施しようがない
ことや、医療用の縫合道具がない以上、ボタンを留めたりする針と糸で皮膚を縫い合わせなく
てはならないことは言わなかった。
「いいよ・・・・・任せる。前に、言ったよね。信頼してるって・・・」
 もう一度彼女の手をしっかりと握り、自らの体温が少しでも受け継がれればればと願う薫。
廊下に出て医薬品や食料品の搬入などに取りかかっていたみんなに呼びかけた。
「みんな集まって!」

 由子のいる部屋の隣、15畳ほどもありそうな大部屋に薫は仁王立ちになって、不安気な
8つの表情を見まわす。
「これから手術をするわ。みんなの力が必要なの。力を貸して」
「はい!」「はい!」
 鮎や葉野香の空元気を受けて、彼女はそれぞれに役割を指示していった。だが、その場に
一人の姿が欠けていた。
「ターニャは?」
「まだ、車の中なんです。声をかけても返事がなくて」
「わかったわ」
 葉野香の返事を聞くなり彼女はつかつかと部屋を出て、真っ直ぐに外へ向かった。
 ご丁寧にノックなどする気はなかった。毟り取るかのうようにチェロキーのドアを開け放つ。
「ターニャ!」
 植物にでもなったかのように目を動かしもしないターニャの腕を乱暴に掴んで、力任せに彼女を
引きずり出した。
 されるがままに車から出されたターニャは俯いてふらふらと揺れて立っている。
 山荘から漏れるわずかな光では、その表情はわからない。
 わかるのは、今日のことでショックに圧倒されていることだけ。

「ターニャ、しっかりなさい!」
 そう怒鳴って、薫は両手で彼女の頬を叩いた。
 痛覚に覚醒したというより、不意に来た衝撃に驚いたようにターニャが薫の目に焦点を結んだ。
 その細い肩を掴んで迫る。
「ターニャ。セリザワが戻ってこないのが心配なの? 巻き添えで死んだ人に詫びたいの?
それはみんな後にして。今ここに、あなたの救けを必要としている人がいるの。あなたをずっと
救けていた人が、あなたの救けを必要としているの。あなたが手伝ってくれないと、由子は
死んでしまうかもしれないの。わかる? できることをしなくちゃならないのよ!」
「・・・・・はい。すいません。すいませんでした」
 ようやく、そう応えるターニャだが、その姿は壊れかけたテレビを叩いたら画像が映ったという
程度の覚醒ぶりでしかない。
「じゃ、来て。急ぐのよ」
 薫は彼女の細い枝のような手首を掴んで山荘へと戻る。

 手術室は、今由子が伏せているその部屋になる。手術台はベッドだ。薫の指示は着々と
実行されていた。出血を受けるビニールシートの代用に、ゴミ袋を重ねてシーツにしてある。
サイドテーブルを別の部屋から持ってきて、そこに洗浄して消毒した大皿と、ホームセンターで
買ってきた2本のナイフ、2本のピンセットが並べられている。新品の洗面器には手の洗浄の
ための消毒液がたっぷりと注がれているところだった。
 そして数本の針と糸や消毒用アルコールの大瓶3本にガーゼの小山、梢が物置から探して
きたキャンプ用のアルコールランプが別の台に載っていた。

 それだけしかない、あまりに粗雑な手術室だった。

 執刀はもちろん薫。助手を陽子が勤める。

 葉野香と鮎と梢は、苦痛で由子の体が動くのを押さえる。ターニャが薫のサポート。琴梨は、
2階のベランダから外を見張ることになった。
「琴梨ちゃん。一度ベランダに出たら室内の明かりは見ないで。明るい光りを見てしまうと、
夜目が利くようになるまで何十分もかかるから。ゆっくり視線を動かして、動くものを探して。
頼んだわよ」
「はいっ」
 薫の説明に大きく頷いて、彼女は二階への階段を駆け上がっていった。

「では、始めるわ」
 処置に関わる全員が手袋をきちんと装着し、消毒を済ませたのを確認してから、宣言する薫。

 まずは肩の前に背中をきちんと手当てしなくてはならない。傷口を改めるためにターニャに
懐中電灯を持たせ確認する。幸いにも大きな血管も神経も骨も損なうことなく、皮膚と筋肉だけを
抉った傷は、丁寧に消毒して更なる出血を防ぎ、傷を塞ぐだけで深刻な状態は避けられそう
だった。

 だが、腕の負傷は重篤である。

 侵入した弾丸は骨には当らず貫通しているが、いくつかの神経線を傷つけているはずである。
指が全部動いているので重篤な状況ではないのだが、処置の最中に彼女が傷つけてしまったら
二度と動かせなくなる可能性がある。
 だが、最も危険なのは感染症である。銃弾は黴菌に汚染されているし金属や火薬の滓も
体内に残っている。止血の際に使った布からも雑菌が侵入しているはずだ。傷口を切開し、
異物を可能な限り除去して消毒し、由子の免疫力で菌を殺し尽くせるようにしなくてはならない。
もし彼女の体力が敗れれば、傷口は腐り、毒を産み出し、全身を蝕んで命を奪うだろう。
 鍵になるのは、血液だ。背中と腕から大量の血を喪失している由子は、同時に貴重な
白血球も失っている。体力が低下しているため造血能力も鈍っていることからも、手術を少し
でも早く終え余計な出血を抑制し、傷の縫合を終えたら即座に輸血を始めなくてはならない。
時間との勝負になる。

 由子が苦痛で舌を噛まないように、絞ったタオルを上下の歯の間に押し込む。既に発熱して
いる彼女は意識が朦朧としかけているのか、抵抗することもない。
 梢がおずおずと尋ねる。
「あの、薫さん、本当に麻酔なしでやるんですか? お父さんのお酒があるから、それを飲めば
少しは・・・」
「駄目。他に方法はないの」
 できるなら薫もアルコールを麻酔薬替わりに服用させたいが、すでに大量の出血をしている
由子に効果が出るほど摂取させたら、血液中のアルコール濃度が高まりすぎて急性アルコール
中毒になりかねない。ここに来るまでに車内で服用させた軽い鎮痛剤の効果がいくらかでも
残っていてくれればと願うだけだ。
 だが、こんな理由を説明する時間も惜しい。

「それじゃ肩と肘を一人ずつ押さえて。あと背中に一人被さって。傷は圧迫しないよう注意して」
 鮎も葉野香も、いや全員がごくりと生唾を飲み込む。
 これからどれほど凄惨な手術がなされるのか。

 左腕の下に消毒したもう1枚、ビニールのシートを敷く。包帯で傷口より10センチほど上を固く
縛り、結び目に棒を差しこんで解けないようにする。体勢が整ったところで、止血していた布を
鋏で切り取る。血で固まった傷口はアルコールに浸した布で拭い、湿らせて剥がす。凝固が
弱まり、皮膚を引き裂いた直径4センチぐらいの破孔から再び出血が始まった。
 くぐもった由子の呻吟が聞こえる。

「いくわよ。しっかり体重をかけてるのよ」
 アルコールランプで加熱消毒したナイフを握る薫。いつものメスとはまるで感覚が違うが、
ここで躊躇うわけにはいかない。

 銃弾の排出口の上5センチほどのところから、縦に皮膚と筋肉組織を切開してゆく。銃創は
例外もあるが排出口の方が損傷が激しい。そちらから処置するのがベターだ。
 これまでと比較にならない出血が始まる。
 由子が新たな苦痛に体をねじらせ本能的に反抗するが、葉野香も梢も鮎も泣きそうな顔の
まま渾身の力で押さえてゆく。
 出血をガーゼに吸収させる陽子。それでも心臓からの圧力で噴出する血液が薫の顔を襲う。
「ターニャ。私の顔」
 手を止められない彼女の顔をガーゼで拭う。

 大きく開いた患部を鉗子がわりの料理に使うトングで陽子に広げさせる。由子の痛がり方は
増すばかりで、押さえる3人は汗の雫を顎から床に落としながら懸命に耐えている。タオルの
隙間から漏れる悲鳴には、耳を塞ぎたいほどだ。

 ここから慎重を要する困難な作業が待っている。銃弾が通過して残した不潔な異物を除去
しなくてはならないのだ。止血していても漏れ出してくる血液が邪魔をするなか、薫は顔を
ぎりぎりまで傷口に寄せピンセットを筋肉組織に突き立ててゆく。
 銃創の処置は文献でしか知らないが、レクチャーされた通りに貫通銃創でも微細な残留物が
多く残っていた。それは火薬の残滓であったり、銃弾そのものが飛走中に大気との衝突で
脆くなって剥がれたものだったり、止血に使ったハンカチから付着した塵であったりするの
だが、薫にはいちいちそんなことを記憶に留める気など毛頭なかった。神経を傷つけないように、
一つ一つをそっと摘み上げて皿に載せてゆく。
 由子が痙攣するように動くたびに手を止め、止血した先の組織が壊死するのを防ぐために
止血帯を緩めて中断しながらも、薫は脇目も振らず傷口の清掃を続けた。

 本来なら一旦縫合し、患者の体を反転させ銃弾の進入口からも切開して処置するのがベスト
である。しかし麻酔のないこの状況では、由子を反転させる余裕はない。本能で抵抗する
彼女を再び押さえつける時間と、それによって失われる彼女の体力が惜しいのだ。
 やむなく薫は患部をより深く掘り下げて行かねばならない。

 肉眼で確認できるだけの異物全てを除去し、消毒をする。このころには由子は消耗しきって、
時折反射的に体の末端を震わせるだけになっていた。そして縫合。医療用のとはまるで太さも
素材も違う針と糸で傷口を縫い合わせてゆく。そして一番下まで針を通したところで、薫は
止血帯を外した。
 ひとまず役目が終わった鮎たちは疲れ切っていた。呼吸も荒く板張りの床に座り込んで
しまった。ほっと安堵の息がターニャや陽子からこぼれるが、まだ終わっていない。輸血を
しなくてはならないのだ。

 乾きかけた血で粘つくラテックス製手袋をもどかしげに外して、既に大量の血を吸った使用
済みガーゼで溢れそうなゴミ袋へ投げ捨てる。
「B型かO型の人いる?」
 再び両手と腕を消毒して新しい手袋を嵌める。
「私、B。間違いないです」
 葉野香が手を挙げた。
「あとは?」
 いなかった。
「琴梨がOです」と陽子が言う。
「わかったわ。まず葉野香、あなたの血を使うわ。問題ないわね?」
「お願いします。使ってください」

 正規の輸血の道具などない。糖尿病患者がインシュリン注射に使う注射器以外には。輸血に
使うには針が細すぎて、途中で凝固して詰まってしまうだろうが、買ってきた3本の注射器を
洗浄しながら使っていくしかない。
 それで献血者の血液を取り、由子に注射していくのだ。
 まずは右腕の肘から抜き、血管が崩れ針が差しにくくなったら左の肘。そして右の手の甲、
左の甲と移る。その頃には一人から安全に採血できる量の限界まで達していた。
 だが、それでも足りない。

「もう少しぐらい、私、平気だよ。だから」
 そう葉野香は言い張ったが、いくら若くて健康だといっても意欲だけでは限度がある。
「無茶よ。次は琴梨。あなたは横になってて。梢。頼んだわよ」
「葉野香、こっち。頑張ったんだから、休んで、ね」
 肩を抱きながら、隣の大部屋に敷いた布団へと梢は葉野香を連れ出した。足に力が入らず、
葉野香はすとんと枕を座布団にするように座ってしまった。
 食欲などなかったが、薫の厳しい指示で用意されていた果物やパンなどを頬張る。噛み締める
たびに針の刺さった痕がずきりと痛んだ。

 この何十倍も、何百倍も、由子さんは痛かったんだ。
 神様、どうか由子さんを助けてください。

 薫の前に、見張りを鮎と交代していた琴梨が腕を差し出した。注射は子供の頃から大嫌い
だったが、もう気にしてなどいなかった。 そして最後には、薫が自らの腕に注射器を刺した。
彼女もO型だったのだ。
 もう少しで、助けられるはず。
 その一念だけが、消耗しきった体を動かしていた。
 
 左の肘と手首が採血に使えなくなった。左手で右腕からなんとか採血しようとしたが、
どうしても手がぎこちなく震えてしまう。
 陽子がそっと手を添えた。
「ここで、差し込むのね」
「そうです。ゆっくり、針を寝かせないで」

 いつしか、薫の職場に運ばれる患者すら連想された由子の蒼白だった顔に、朱味が差して
きていた。
 薫は疲労の極に達しぶるぶると震えてしまう手で、脈を取る。
 すぐには、脈が見つからなかった。
 いつもなら簡単なことなのに。

 どこ。
 どこなの。


 ぴくん


 親指の真ん中で、跳ねた。

 力強い血液の潮流が、皮膚の下を巡っていた。

 その知覚を最後に、薫は椅子から床へ倒れ伏していった。






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