夢魔の臨界 <3>



 この日、薫は出勤する車の中でかねてからの懸案に思いを巡らせていた。1950年代の
ジャズCDがハンドリングにリズムを与えてくれる。カーブでの立ち上がり、イタリア車ならではの
きびきびとした挙動が彼女は好きだった。

 由子に相談してからもう半月が過ぎようとしている。誘い水を出して疑いをはっきりさせようと
弄した策も、ここまでなんの反応もないことから、効果がなかったのか只の彼女の邪推だったのか
判断がつかないままだ。
 何度も電話で由子となんらかの裏付けが取れていないかと意見を交換していたが、むしろ
疑いを晴らすような兆候が多く看取されていた。風祭から決定的な情報が流れてきたにも
関わらず、全く妨害もない。やはり自分の見立て違いだったかと薫も思うようになってきた。
 もちろん、そうであってほしい。仲間を信頼しないでやっていけるほど気楽な活動ではないの
だから。無駄な心配だったと自嘲して笑いたい。

 しかし、薫が不審な車の存在に気がついたのはこの疑いを捨てきれずにいたからでもある。
北海大学監察医務院の職員用駐車場からは、植え込みにいくらか遮蔽されてはいるが大学
病院へと通ずる公道の様子がよく観察できる。
 いつもの場所に車をバックで停車させようとしていた時だ。
 振り向いて停止位置を定めようとする彼女は、ふとハードトップ仕様にしたバルケッタのリヤ・
ウィンドウ越しに、茶色のセダンに目を留めた。ハザードランプを点灯させることもなく、無人の
まま停車しているその場所は駐車禁止の標識の効力範囲内である。
 病院と大学が並立している北海大学では周囲の住宅環境に配慮するため、学生の違法
駐車は厳しく禁じているし、病院へ通院する患者にも正規の駐車場を利用するよう呼びかけて
いる。警察がよく取り締まる街道でもあるため、そこに長時間の駐車をするドライバーは滅多に
いなかった。
 最初薫が感じたのは、市民が守っているルールを不遜に無視する車の持ち主へのかすかな
苛立ちにすぎなかった。
 しかし、何か引っかかった。
 フィアットのエンジンを切り鞄を手に降り立つ彼女。ヘッドレストのせいで乱れた髪に手をやり
ながら、職員用入り口へと向かおうと歩き出した瞬間、視界の隅で動きがあった。無人のように
見えていた茶色のセダンの車内で。

 おや、と振り向いたところに同僚の監察医の車が入ってきた。軽く手を上げる先輩医師に
会釈を反しながら、好奇心でもう一度セダンを見やったが、やはり誰も乗ってはいない。気の
せいかしらとさっさと病院内へ入って寒波から逃れたのだが、どうしてか彼女の内部の警戒
信号が点滅を止めない。
 自分の机に座って考えてみる。3分ほど首を捻った。

 あの車・・・・・昨日もあそこになかったかしら・・・・・

 毎日繰り返す出勤風景から、一つだけを記憶から取り出すのは容易なことではない。昨日も
一昨日も、1年前でもほとんど同じなのだから。おぽろげな映像を再現させると、確かに昨日とは
断言できないが、あの位置に車が停まっていたことは最近あったような気がする。
 でも別の車だったようなイメージも残っている。
どちらだったかと結論を出せないまま、薫は仕事に取り掛からなくてはならない時間に背中を
押されて、白衣に着替えることにした。

 午前中の遺体剖検を終えて、さて今日の昼食はどうしようかと店屋物のメニューを反芻させ
ながら、薫は2階から1階へと降りる階段を歩いていた。書類が入っているらしい大きな段
ボールを運ぶ職員に道を開け、通り過ぎるまでついと踊り場の窓の外を眺める。そこからは
狭い角度だが病院前の道路を見ることができた。

 まだ停まっている。あの車。
 通報してミニパトに来てもらおうかしら。

 そう意地悪に考えた時、残念なことに茶色のセダンはウィンカーを点灯させて走り去って
しまった。罰金でも払って後悔すればいいのにという考えは、直後に途切れた。

 同じ位置に、今度は白いセダンが電車の椅子を争うかのように滑り込んで停車したのだ。

 どういうことかと凝視していても、運転手と助手席にいるらしい同乗者が降りる気配はない。
よく判別できないが、どちらも背広姿の男性で、なにやら話し合っているようだ。

 今日は土曜日で、大学病院は午後から緊急患者以外は受けつけない。当然駐車場は混んで
などいない。他の所に用事があるのだろうか。それにしても、まるで交替するみたいに・・・・・。

 交替?

 苦い予感に唇を噛みながら、薫は車そのものをじっくりと観察してみた。

 後部に大きなアンテナが2本立っている。車載テレビやカーナビの受信用にも見えるが、
不必要なまでに太く長くないだろうか。旧式だと言えばそれまでだが。
 後部の窓にはスクリーンシートが貼られていて中まで見ることはできない。この踊り場の窓から
ではどの道側面は視界に入らない。フロントガラスを斜めに見下ろすこの位置からは、乗員の
顔も見ることはできない。運転席の男がハンドルに片手をかけているのがわかるだけで、
助手席にいる男の手元は見えない。ボンネットには特徴がない。そしてナンバーもありきたりの
番号。
 札幌88、「ま」の××−××。

 いや、違う。
 あの国産車は3ナンバーのはず。
 88という類別番号の意味はなんだった?
 10年近く前に教習所で学んだはずなのに・・・・・。
 88、88、88・・・・・
 不意に答えが出てきた。いつか読んだ本に書いてあった。
 特殊車両だ。
 改造をして特別な装備を備えたような車が該当する。
 例えば助手席に補助ブレーキを装着した教習所の車。
 例えば自衛隊の車。
 例えば覆面パトカー。

 あれは覆面パトカー?
 そうだ。間違いない。他に考えられない。

 薫は窓から離れて、すぐ近くの資料室へと飛び込んだ。予想に違わずそこは無人だった。

 私と無関係にあそこにいるなんてことは甘すぎる考えだ。監視の対象は私以外にありえない。
 だけど、どうして?
 聞きたいことがあるのなら何故こそこそと監視を?
 私を何かの容疑者だと?
 葛城梁の死からいろいろあったが、自分が犯罪を犯したはずはない。それなのに、どうして?

 直接あの車の窓をノックして、問い糾すべきだろうか。
 駄目だ。はぐらかされるに決まっている。警察であることすら認めようとしないだろう。ここが
監視されているなら移動中も尾行されているだろうし、自宅に戻っても同じことだろう。華北
マフィアなどとは動員できる人員の数が桁違いなのだから。

 これからどうするか。
 警察に全てを委ねるか?
 それでターニャの願いは叶うことになるのか?
 ターニャが国外逃亡犯の逃亡幇助で掴まることになるのか?
 そんなのは、絶対に許せない。

 しかし、警察を誤魔化し、出し抜けるだろうか。既に私の自宅も経歴も調べ尽くしてあると
見なくてはならない。今更、ターニャや葛城梁のことは何も知りませんなどと言い逃れをしても
徒労でしかないに違いない。
 携帯電話も盗聴されていると思えば使うわけにはいかない。どうにか監視を撒いて、直接
みんなと会ってこのことを伝えなくてはならないのだが、どう動けばいいのか。

 まずは、あの車が覆面パトカーで自分を監視していると確認することが第一歩だろう。この時間
なら車で外に食事に出ても不自然ではない。あの車が追ってくれば疑いの余地はなくなる。
後はそれから考えよう。

 薫は自分の机に白衣を放り投げ、椅子に置いておいた鞄を手にして駐車場へ出た。
植え込みに隠れて覆面パトカーの中を確認したいという欲求を渾身で堪え、自分の車だけを
見てまっすぐに歩いた。
 そしてキーを使ってドアを開け、助手席に鞄を投げた瞬間、単純なことに気がついた。
 こんなことをしなくてもいいのだ。

 警察に電話をして、病院前に違法駐車している車があって通行の邪魔になっていると言えば
いい。もしあれが覆面パトカーならそもそも検挙にはやってこないだろう。無線で連絡を受けて
立ち去り、別の車が別の場所で監視をしようとするのが自然だ。警察間の連絡が行き届いて
いなくてミニパトがやってきても、説明を受けて取り締まらずに帰ってゆくはずだ。
 大学病院のロビーにある公衆電話を使おう。

 そう思って鞄を取ろうと手を伸ばした時、駐車場のアスファルトを擦る足跡が耳障りに響いた。
 監察医務院の裏手から皮のジャケットを着込んだ二人の男が獲物を狙って這いずる蛇の
ように蠢きながら向かってくる。
 ガラス球を連想させる黒い瞳が4つ。屈んでいる椎名薫の背中を舌なめずりするように睨んで
いた。
 日本人とはどこか違う。東洋人だと認識すると同時に、薫はハンドルを握って体を車内に
滑り込ませ、ドアを内側に叩きつけた。
 襲撃意思を悟られたと、二人組は走りながら内ポケットの拳銃を抜こうとした。これが彼らの
最大のミスであった。その場で銃を抜いても狙撃はできたのに、接近して確実を期そうとした結果、
巧みなシフトアップとアクセルワークでバルケッタが弾けるように飛び出すのを制止することが
できなかった。
 それでも、彼らは出口で徐行して直角に曲がらざるを得ない駐車場の構造を利用して、追撃が
できると思っていた。
 
 しかし、薫はその手前の花壇へと愛車を突進させた。

 スイートピーやサルビアの花弁をスタッドレスタイヤで轢殺しながら、強引極まりない方法で
駐車場から脱出した薫。そこからは大学の校舎と校舎をつなぐ遊歩道が走っている。
 クラクションのボタンを親指で押し続け、彼女は昼下がりを寛いでいた学生たちを仰天させ
ながら大学の敷地を走り抜ける。
 そして本来は車の出入りなどできない幅3メートルほどの出口から路上へとフィアットを踊り
出させた。

 もちろん、とっくに二人組の襲撃者は薫を見失っていた。覆面パトカーと思われた車も、広大な
大学敷地のどこから出てくるかなど見当を付けることも適わず追跡できずにいた。医学生時代から
この大学に在籍していた彼女の地理感覚があってこその脱出劇だった。

 少しでも大学から遠ざからなくてはならないが、主要な街道を通ってはまた警察に発見されて
しまうのは明白だ。なるべく裏道を選びながら札幌市街から出るしかない。どこかで車を替え
たいがいい方法が思いつかずにステアリングを切ったところで、胸ポケットの携帯が鳴った。
 ターニャからだった。

 手短に話さなくてはと思いながら通話ボタンを押す。すると嗚咽に喉を詰まらせた涙声
ばかりが聞こえてくる。
「ターニャ? どうしたの?」
「セリザワさんが、セリザワさんが・・・」

 手短に事情を聞き、彼女が一人きりでいるのを知った薫はその場所で待つよう指示を出して
から次に携帯を春野陽子につないだ。

 そこから聞こえてきたのは、襲撃を逃れたばかりでどこへ逃げようかと困惑する声だった。
薫は自分よりターニャにの近くにいる二人に、ターニャと合流して里中家の山荘へ向かうよう
頼んだ。携帯の盗聴を恐れ、ターニャの現在地をぼかして伝え、山荘も「以前話した場所」と
表現して。

 切った途端に、鮎からの電話が鳴った。
 桜町由子が撃たれたと。

 こちらの動きは全て知られていた。
 チームのメンバー全員の抹殺を、誰かが命じたのだ。
 唯一残された安全地帯も、もう先回りされているかもしれないが、他に策は浮かばなかった。
 山荘へ。
 それしかない。






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