夢魔の臨界 <2>



 携帯電話でそれぞれの現在位置を確認しながら、里中家所有の山荘へと道を急ぐ4台の車。
梢、鮎、薫の3台は途中で郊外型ショッピングセンターに入り、大急ぎで由子の治療に必要な
医薬品や道具を購入しなくてはならなかった。その間もずっと由子に寄り添っている葉野香は、
薫が言うほど彼女の負傷が軽くないことを感じ取っていた。もうずっと目を開けることもなく、
異常に熱く細い吐息ばかりが唇からこぼれている。汗を拭うほかにできることのない葉野香の
頭脳は、これからどうなるのかという暗澹たる想いが足首からじとじとと這い登ってくるのを
感じていた。

 これまで、彼女たちは追跡者だった。
 調べ、探り、葛城梁を中心とする巨大な渦の源を確かめようとしていたのは、あくまで積極的な
意思によるものだった。

 しかし、もう違う。
 追われているのは自分たちで、猟犬に足跡の匂いを嗅がれ狩り立てられている。

 その恐怖が、加速度的に高まってゆく。



 ターニャが乗っているチェロキーの車内でも、もう1時間近く会話らしい発言がない。助手席に
座る琴梨が薫たちと電話で話し、内容を運転する母とターニャに教えてはいるが、陽子は頷く
以外の反応を返せはしない。ターニャに至っては、マネキン人形ほどにも動きがない。

 4つに分散していたチームの全員が、ほぼ同じに銃による襲撃を受けた。もう監視もついて
いないなどと甘く考えていた代償が由子の負傷だけで済んだのは幸運だったのかもしれない。
一人残らず、薫の職場へ搬送されていてもおかしくなかったのだ。

 さっきまでつけていたラジオからは、葉野香たちを狙った事件が大々的に報じられていた。
 死者3人。重軽傷者4人。
 発砲したグループは車で逃走。その足取りは不明。
 警察は犯人と、現場にいてやはり逃走(!)している複数の女性が深く関わっていると見て
捜索している。
 死亡した人の身元が発表されると、ターニャも琴梨も目を開けていられなかった。

 陽子は運転に集中しようと、自分達に起こったことを思い出さないようにしていたが、所詮
無理というものだった。


 土曜ということで午前で終わるテレビ局での仕事を終え、朝の出勤前に決めたように車で娘を
迎えに行った。琴梨は休日なのだが職場のレストランで朝からミーティングが入っていた。新
メニューの試食会である。終わる時間がちょうど合うので、たまには昼食を外でしようと誘った
のだ。
 もうすぐそのレストランの看板が遠目に見えるというところまで来て、ラッシュと道路工事が
重なりかなりの渋滞に捲き込まれてしまった。弱ったなと思ったところで鳴る携帯。
「お母さん?」
「もう、仕事は終わったのかい?」
「うん。もう外に出てるんだけど、全然動かないでしょ、車」
 レストランの前の直線道路には、赤いブレーキランプがずっと先まで続いている。この時間は
最近いつもこうなのだ。
「そうなんだよ。少し待ってておくれ」
「それじゃあさ、私こっちから歩いていくよ。裏の、あのコーヒー豆のお店がある通り、あっちなら
空いてると思うから、そっちに抜けてよ」
「その方がいいね。ちょうど次の信号でそっちに入れるし。なに食べたいか考えながら、歩いて
きなさい」
「は〜い」

 渋滞と工事と待ち合わせ方法の変更。
 そんなありふれたアクシデントが襲撃者の計画を狂わせた。

 職場の駐車場に止まっている平凡な大型ヴァンに、正体不明のガンマン達が潜んでいた。
彼らにはチーム・ハプライト(重装歩兵)というコールネームが付与されていた。春野陽子の
到着を待って、二人を一撃で屠るつもりでいたのだが、琴梨が駐車場から歩き出してしまい
作戦を変えねばならなくなった。
 無線で上に指示を仰ぐと、すでに他の襲撃が実行されている以上、中止は許されないと強行を
命じられた。
 同時に抹殺するなら対象を追わなくてはならない。
 いいかげんな計画を立案したエスカドリルに内心で恨み言を呟いて襲撃者のリーダーは追跡を
支持した。
 ゆっくりと路地を歩く人間を目立たないように車で追うのは難しい。しかし襲撃後の逃走を考え
たら徒歩での尾行はしたくないし、万一襲撃前に気付かれればもう一人の目標が車で逃げるのを
追えなくなる。
 そういうリスクはあるが、使う武器が拳銃だけで隠しやすいこと、自らの任務遂行能力への
自信、そして対象が尾行を警戒していないという情報報告が彼らに徒歩での追跡を選ばせた。

 運転手を除く3人が、コートの内側に銃を握った手を隠し琴梨の20メートルほど後ろを歩き
始めた。
 大通りから路地へ。
 琴梨は一度も振り返ることはなかった。ただ、前方から来るはずの母の車を探していたのだ。

 目印にしたコーヒー豆のお店の前で立ち止まり、大きなガラスの壷に詰められている何種類
もの世界各国から輸入された豆を眺める。
 その時、楕円形の壷に人影が映った。

 3人のスーツにコートを着た男たち。
 揃ってコートの前を留めずに開けて、右手を懐に入れている。
 路上駐車の車の陰に立ち止まって、一人だけがこっちを見ていた。
 あれ?
 さっき、あそこにあんな人たちいなかったけど・・・。
 もっとよく見ようかと顔を向けかけた瞬間、母親に起こった誘拐未遂事件が頭をよぎった。

 ・・・・・まさか。
 まさか?

 もしそうなら、どうしよう。
 大声を出す?
 でも、あの手。
 鉄砲を持っているんだ。
 走って逃げる?
 私の足じゃ逃げられない。
 どうしよう。どうしよう。
 動かないと。
 ずっと立ってたら、気付いたのがばれちゃう。
 
 そこで、最も重要なことに思い至った。
 狙いは私だけじゃない。
 お母さんが来るのを待ってるんだ。
 それなら・・・そうだ!

 琴梨はコーヒーの花の形のプレートに「営業中」と彫刻されているドアを押し入店した。
 そしてすぐに携帯で母にかける。
「お母さん? 今どこ?」
「次の角を曲がればあのお店の前の通りに出るところだよ。やっと楽に走れるように・・・・・」
「お母さん、そのまま来ちゃだめ! 次の次の角を曲がって、裏口に来て!」
「ど、どうしたんだい?」
「変な人たちがついてきてるの。だから・・・」
「じゃ、まさか」
「かもしれない。だから裏口に回って!」
「急いでいくからね。無茶しないんだよ。いいね」
「うん。切らないで持ってるから」

 どうにもお客らしくない琴梨に訝しげに男性の店員が声をかけた。
「あの、お客様?」
「す、すいません。変な人が、そう、ストーカーが追っかけてきてるんです。裏口から出して下さい。
お願いします」
 とっさに話をでっちあげる。
「ストーカー?」
「見ないで下さい!」
 首を伸ばして窓の外を見ようとするのを慌てて止める。
「は? はぁ・・・」
「見たら気がついて、きっとここまで入ってくるから。お願いです。裏から」
「まあ、そういうことならいいですよ。こちらです」
 これっぽっちも警戒感を抱かせない琴梨の風貌が功を奏したのか、店員は従業員用の扉を
開けた。荷物の搬出や従業員の出入りに使われているらしい裏口から出してもらい、琴梨は
母が来るであろう方向に走った。
 途中で靴が脱げたが、裸足のまま走った。

 見えた!

 チェロキーが角から頭を出そうとしている。

 その瞬間、後方で声が上がった。
 それが何語なのかは聞き取れなかったが、反射的に振り返ると3人の男が腰だめで黒い
何かを構えている。
 本能が先に働き、電柱の陰に隠れる。
 ビシッ!
 ビシッ!
 振動がコンクリートを通して伝わってきた。
 やっぱり拳銃だった。それも音が出ない特殊なやつだ。

「お母さん。止まって!」

 携帯に叫ぶと、角から前半分を出してチェロキーが停止した。
 あとは走るしかなかった。
 足の裏が痛い。
 でも止まったら殺される。
 ただ真っ直ぐに逃げた。

 5発しか装弾されない銃であることを忘れたかのように乱射する部下を無視し、襲撃者の
リーダーが慎重に狙いを定め、照星を走る女の背中に重ねた。
 サイレンサーの重みも計算に入れ、銃把の底に左手を添えて安定性を高める。
 そして引き金をゆっくりと絞り、鍛えた腕と肩の筋肉で発射の衝撃を受け止める。

 結果として必中の一発が外れたのは、襲撃者の腕ではなく拳銃の命中精度のせいだった。
ロシアからの密輸入品である彼らの使った拳銃は、ソ連崩壊後に許可制で市民も持てるように
なった自衛用のガス銃を不法に改造したものである。仕上げは粗雑であると知りながらも、
襲撃者たちは急な作戦命令で試射をする時間もなかった。サイレンサーもスチールウールを
詰めただけの玩具同然の癖に長さばかり長く、コートのポケットに収まらないため内懐に隠さ
ざるを得なくなり、琴梨に怪しまれることになった。

 心臓に致命傷を与えるはずの銃弾は、琴梨の上着の裾を貫いたが、肉体に触れることなく
彼女を追い抜いて消えた。

 琴梨は首を絞められているような酸欠に耐え、必死で母が開けたチェロキーの助手席のドア
から飛び込んだ。
 陽子は強引に車をバックさせ、タイヤがアスファルトとの摩擦に悲鳴を上げるのも無視して
その場を離れた。

 最も近くにある警察署の駐車場に車を乗り入れ、身体のあらゆる組織を震わせて涙ぐんでいる
娘の肩をしっかりと抱きながら、まずと薫へと電話をした。
 すると、彼女自身も襲撃から危ういところで逃れたばかりな上、ターニャとセリザワも待ち伏せ
され、一人だけ逃れたターニャが無防備に放置されていることを聞かされた。彼女と合流して、
里中家の山荘へ向かってくれと頼まれた陽子は、今自分が警察の前にいることを話し、通報
すべきかを尋ねた。
 返事は、「警察も信用できなくなっています」という、耳を疑いたくなるものだった。

 暮れかけている田舎道を走らせながら何度もバックミラーを確認する陽子だったが、ついて
来る車は全くない。 いくつもあるルートから最短距離にならないような道を無作為に選んでいる。
それがどれだけ安全に役立っているのかわかりはしないのだが。
 
 そしてまた、ニュースが事件の詳細を報じ始めた。 






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