第8部 夢魔の臨界



 それから1週間ほどは、それぞれの多忙も重なり、進捗のあるような活動成果はなかった。
そして金曜の午後、再び風祭からの連絡があった。明日にでもまたわかったことを話したいと
言う。
 元々土曜日には梢とセリザワ、由子、鮎、葉野香にターニャが意見交換のために集まることに
なっていたので、渡りに船ではあった。しかし全員で押しかける必要もなく、話し合った結果、
ターニャはやはり会わせるべきではないだろうと、セリザワが彼女を連れて一旦別れ、4人は
会合場所まで一緒に行くが、会って話をするのは前回と同様に梢と由子だけにすることにした。
鮎と葉野香は終わるまで時間を潰す。

 場所は梢が以前も風祭と来た事のあるレストラン。
 ビル街の裏手、少し離れた無人有料駐車場へ鮎と梢の車を入れた。由子のバイクは薫のマン
ションに置いてある。午前中で校舎から開放された高校生や休日を寛ぐカップルで繁華街は
混み合っていた。
 道案内役の梢と由子が人波に道筋をつけ、場所を知らない鮎と葉野香が自然と後を歩く
ポジションになっていた。
 5分も歩くと、大きな一枚ガラスが陽光を受けて冬色に薄れた街路樹の緑を照らすカフェ・
レストランが見えてくる。先にある入り口には赤と白の大きなオーストリア国旗が飾られて、
メニューの由来をアピールしている。

「対象4名を視認」
「早過ぎる」
 男が口許のマイクロフォンに囁く。
「スマック(小帆船)よりエスカドリル(艦隊)へ。対象が展開前に現れた。指示を乞う」
「こちらエスカドリル。そのまま遂行できるか?」
「可能です」
「・・・・・では、直ちに処理せよ」
「了解。作戦を開始します」

 店の前を通過しようとしたところで、曲面ガラスの向こうにコーヒーカップを手にして座る風祭の
姿を見つけた梢。
「ほら、あの人だよ。人畜無害にしか見えないでしょ」

 葉野香はその顔を捉えると同時に、ぐいっと梢と鮎の腕を引っ張って数歩後ずさった。つられて
由子もきょとんとして立ち止まり振り返る。
 葉野香には見覚えがあったのだ。風祭という男は、以前兄が多額の借金をした金融会社の
社長だったのだ。もう完済したとはいえ、一時期は経営するラーメン屋を廃業に追い込まれ
かけたこともある。非道な取り立てをされたわけではないが、まだ笑って許せる過去になって
いない。
 それを指摘しようとしてした行動が、彼女たち全員の命を救うことになった。


 ピシッ!


 由子の左後方で小さな破砕音がした。
 反射的に目を向けると、レストランのガラスに不定形な丸い穴が開いていた。
 放射状のひび割れ。
 
 一瞬のうちに、最悪の連想が彼女を衝き動かした。
「伏せて!」
 渾身の体当たりで葉野香たちをコンクリートの歩道に突き飛ばす。
 由子の耳には入っていなかったが、無様に倒され這いつくばりかける彼女たちがいた空間を、
4丁の拳銃からの9ミリ弾が5発通過していた。たちまちガラスにいびつなカシオペア座が刻ま
れる。
 しかし銃声はない。サイレンサーが使われているのだ。
 まだ全く状況が掴めていない3人に、「撃たれてる! 伏せて!」由子はそう絶叫した。
 レストランの店内から悲鳴が轟く。
 中で誰かが被弾したのだろうか。
 路上でも、なにごとが起こったのかと足を止める人たちがいる。

 やっと危険を認識した葉野香が一番下になっている鮎を引き起こす。
 梢がずれた眼鏡を直しながらきょろきょろと周囲に視線を送っているのを、由子が腕を掴んで
腰を落とさせる。そしてガードレールの下の隙間から襲撃者の所在を窺う。
 向かいのビル? 窓が1枚も開いていない。
 隣の小売店? 人影は1つ。少ない。
 あのヴァン!
 道路の反対側にハザードランプを点灯させながら停まっている茶色のヴァン。後部の窓2枚が
開かれて、人間の頭部らしき塊が左右に動いている。狙撃者はあそこだ。
 ならガードレールを障壁にできる。
 その判断が当たっているかどうかなど思案している余裕はない。
 逃げなくては殺される。
「みんな、頭を下げて、全力で走るの、絶対に止まっちゃだめ。私の合図でかたまって逃げるよ。
いくよ!」

 由子は全員の頷きを確認して、手の平で歩道のコンクリートを叩いた。

 葉野香が猫科の猛獣のような俊敏さで路面を蹴った。鮎、梢もビーチフラッグの決勝戦の
ように起きあがって前傾姿勢のまま両脚を競って持ち上げる。そして由子は一拍遅らせて
最後尾をゆく。

 葉野香が側を擦り抜けた若いサラリーマンが、「ぐわっ!」と腹部を押さえてうずくまった。
その手、その指が鮮血に染まってゆくのを鮎は見た。
 苦手な全力疾走をする梢の耳に、ガードレールに何かが跳ねる音が2度続いて聞こえた。
それが銃弾なのはわかったが、それ以上は何も考えずただひたすらに走った。

 由子が彼女たちの背中を追って走る間だけで、更に3人の無関係な市民が倒れていた。
 学生服姿の高校生。わずかな痙攣しかせずに、仰向けに倒れている。
 仕事上がりのようなOL。背中と右胸から噴出す血を止めようと半狂乱になっている。
 そして若いサラリーマン。切腹をした侍のように腹を押さえたままの格好で前に倒れ、
血の海に頭を漬けている。

 助けたい。
 自衛隊で緊急処置の方法も教わった。
 助けたい。
 でもどうしようもない。

 しかし、わずかなためらいがあった。
 そのせいだろうか。
 ビルの角を梢が曲がり、10メートルは先行していた3人が被弾せずに射線から逃れようとした
寸前に、悪意の銃弾が彼女の上膊部を貫いた。

 痛みではなく物理的な衝撃と圧力でバランスを崩し空中でぐるりと回転する由子。
ゆっくりと、長方形の人工の敷石で組まれた路面が接近してくるのを他人事のように受け止める。

 やられちゃったかな。

 もう一発、ひゅんという風切音が背後でする。
 彼女は知覚しなかったが、それは背中の肉を抉り脊髄のすぐ脇を引き裂いてから僅かに
角度を変えてビルの礎石にめり込んでいった。

 朽木のように転がった由子。
 受身も取れず腹から落ちたせいで呼吸ができない。
 いい方の腕を伸ばそうとするが、思うように動きはしない。
 その手がべたりと落ちそうになる寸前、梢が掴んだ。
 葉野香が背負うのを鮎が手伝う。
 3人とも、由子を救うために安全な物影から走り出してきたのだ。

「由子さん、しっかりして!」
 そう口々に声をかけながら、3人は必死で走った。
 幸運の女神が味方をしたのか、それ以上の攻撃は受けることなく彼女たちはビルの裏通りを
走り、駐車場で鮎と梢の車に乗り込むことができた。
 料金を払うのももどかしく、気ばかり焦って余計に時間がかかってしまったが、なんとか公道に
出た2台の車。
 由子を乗せ、葉野香が介抱する鮎の車を梢が追尾して疾駆する。
 どこへというあてはないが、とにかくあの場所から遠ざからなくてはならない。

 対向車線を何台もの救急車とパトカーがサイレンを大合唱させて、数分前まで彼女たちがいた
戦場へと走り去ってゆく。

 葉野香は由子の上着を脱がせ、傷口を改めた。右の二の腕、肩口から数センチ下におぞましい
傷口が開いている。まずは出血を止めようと、ハンカチを包帯代わりに巻き付ける。苦痛に顔を
歪める由子。しかし、それで銃撃のショックによる痴呆状態から意識が覚醒したようだ。
「私・・・撃たれたよね」
「でも、大丈夫ですよ。絶対大丈夫です」
 そう言わなくてはならないと思った。
 体を起こした由子が、みるみる染色されてゆくハンカチを悲しそうに見ていた。
「葉野香ちゃん。私のここ、腕の付け根を押さえて」
「ここですか?」
「もっと奥。そう、その当たり。そこに動脈が走っているから、そこを押さえて止血して。10分
ぐらいやったら離して、また押さえてね。そうしないと・・・・・壊死しちゃうから・・・・・」
「わ、わかりました」
 腕時計で現在時間を確認する葉野香。
「それと・・・・・運転しているのは鮎ちゃんね」
「そうです!」
 どこに向かっていいのかも考えられずに、ただ信号が青になっている道を選ぶばかりの鮎は、
がたがたと震えていた。
「運転しながらでいいから、薫に連絡して。何があったかを伝えないと、あっちも、危ないから・・・」
「は、はいっ」
 焦りとショックでいつもなら片手でも3秒でできるコールがなかなかできない。ちょうど赤信号に
なり、両手でしっかりと携帯を保持してからメモリーを呼び出した。
 繋がるのと同時に喋る。
「もしもし、薫さん、大変なんです! 私たち! それで由子さんが撃たれて、腕を撃たれて、
血がすごいんです。背中も怪我してます。どうしたらいいんです、薫さん!」
「・・・・・今、どこ?」
 あらゆる感情を押し殺したように平板な薫の返事に、意外感を抱くこともなく鮎は説明する。
やがて信号が変わり、アクセルを踏みつけなくてはならなくなった。
「それじゃ、その近くの人目につかないところに車を停めなさい。私がすぐ行くから。他に怪我
人は?」
「いません。由子さんだけです。早く来てください!それとも、やっぱりすぐに病院に行かない
と・・・」
 由子が全身からありったけの余裕を振り絞って言った。
「鮎ちゃん、私なら、大丈夫。薫が、来てくれるんでしょ。大丈夫よ。お医者さんなんだから」
「動かさないでいてね。すぐ行くから」
 途切れながらの虚勢が聞こえたのだろうか。ぶつりと電話は切れた。

 薫が数々の交通違反を犯してバルケッタを走らせたせいで、10分ほどで彼女たちは合流する
ことができた。黙々と処置を施す彼女を、心配げに寄り添いながら見つめる葉野香たち。
 端整な顔立ちを幾度も激痛に苦悶させている由子。髪に滴るほどの冷たい汗をかいて耐えて
いる。
 ハリウッド級の演技で平静さを装い、薫は言った。
「かなり血を失ってはいるけれど、これなら命に別状はないわ。神経も切れていないから、
ちゃんと治るわよ。由子。止血をしていなかったら、危なかったわよ」
「・・・・・へへ、隊で覚えたことが、役に立った、みたい。みんなが私を運んでくれたから、だけどね」
「そのようね。これからかなり移動するから、なるべく眠っていなさい。そうすれば回復が早いわ」
「そう、させてもらうかな」
 二人とも、わかっていた。薫の言葉の半分は嘘なんだと。
 みんなを安心させるためにつかなくてはならない嘘だと。
 しかし、由子は薫を信じた。きっと彼女がなんとかしてくれると。
 目を閉じた由子に自分のコートをかけて、薫は3人の方へ向き直る。

「彼女はもう大丈夫よ。よく頑張ったわね」
「良かった・・・」
 大きな吐息を鮎も梢も葉野香も洩らした。薫と同じように、彼女たちも由子の闊達さ、気さくな
優しさが大好きだったから。
「でもね、まだ終わっていないの」
 薫は周囲を見回し、人影のがないのを確認する。
「まだ、って?」
 まだ動揺から抜け出せていない葉野香の語尾がかすれる。
「これからすぐに、梢さんの山荘に行かなくちゃならないの。避難して、安全を確保しないと
いけなくなったから。もう陽子さんと琴梨ちゃんは向かっているわ」
「ターニャとセリザワさんは?」
「ターニャとセリザワも襲われたの。ターニャは無事。途中で陽子さんが拾って行くわ」
「襲われ・・・・・」
 もう口を司る筋肉が暴走しかけている葉野香は、それ以上喉から空気を押し出しても言葉に
ならなかった。だが追い討ちをかけるように薫が言い添えた。
「そう。私もよ」
 あたかもかつて大学入試のために丸暗記した数世紀前の歴史上の事実でも語っているかの
ように落ち着いた薫の姿に、鮎たちは人間離れしたものを感じて精神的に後退りする鮎たち
だったが、薫はいちいち気にしなかった。
「その話は後。とにかく安全なところに避難するのが先決よ。急ぎましょう」
「セ、セリザワさんは?」
 ターニャは無事、としか言わなかったことに梢が気付いた。
「まだ連絡がつかないの。詳しいことはわからないけれど、襲われたときにターニャを逃がして
自分は踏みとどまったみたい。さ、車に乗って。ラジオで情報を聞くのよ」






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