錯綜する子午線 <5>



 対外情報局の設立に至る経緯はこのようなものだが、KGBが獲得していた情報提供者や
現場で働く工作員などはなるべく維持を図った。彼らまで思想性の故に排除しては肝心の
任務が果たせないからだ。規模は縮小されたものの、スターリン時代より培っていた世界最高の
情報管理能力は変わらず健在で、世界中にアンテナを張り巡らして情報収集を行っている。
 この瞬間も、水面下ではスパイ・ゲームが続いているのだ。

 ひとつの丸テーブルを占有して、中央に20冊ほどの資料を積み上げている彼女たちの姿は
いささか人目を引く。旧ソ連やロシアのものばかりでは不審がられるかもと、敢えて小説や風景
写真集なども混ぜてあるのだが。

 それぞれがメモ帳やパソコンに役に立ちそうな情報を書き写すなか、梢が文献に集中している
ターニャの肘を突ついた。
「ターニャは、KGBの人って見たことある?」
「・・・・・あります。どこにでもいましたから」
 そこに嫌悪感や憎しみはなかった。
「どんな感じなの? やっぱり怖い感じ?」
 セリザワたちも手を止めて聞き入る。
「いろいろです。中には優しい人もいましたし、穏やかな人もいました。でもやっぱり、どこかで
怖いと思っていました。ソヴィエトという国の体制そのものが、怖かったんです。どう怖いかは、
みなさんには、わからないかと思いますが・・・」

 秘密警察に陰に陽に監視されながらの日々。
 自由という言葉が独り歩きし、社会から規律が失われる懸念すら評論家が口にする日本や
アメリカで生きてきた人間には、SFのような空想としてしか感じ取ることができないものだろう。

 資料によればKGBは密告を奨励し、全ての電話を盗聴し、あらゆる郵便物を検閲し、出版物に
イデオロギーの制約をかけ、西側の価値観を否定し、完全なるマルクス・レーニンへの服従と
忠誠を強制したという。

 なんだか大袈裟だな。一日何百万何千万とあるはずの電話の会話を全部盗聴するとか、
無数の郵便物を開いて見るとか、できるはずがない。由子も鮎も、最初はそう思った。
 しかし、ターニャは淡々と肯定した。

 社会資本の整備の停滞から回線が少ない電話網に、盗聴のための膨大な人員があてがわ
れていた。 商用のダイレクトメールなど存在しないため郵便の絶対数が西側とは比較に値
しないほど少なかった。市民はKGBの行為を常識として知っており、それが信頼できない
電話や郵便の使用を躊躇わせ、さらに通信量の減少を招くという循環。

 あまりに偏執的な実情は宇宙生物の生態ほどに理解しにくい。呆れ顔の梢の隣から、鮎が呟く。
「まるで、刑務所だね」
「そうです。私の国は、動物を飼う檻のように閉ざされていました。日本に来て、私は、初めて
『自由』というものを体験しました。それまで『自由』だと思っていたのは、檻の中で歩く動物の
自由だったんです。それがわかって、怖くなりました。そんな日常を、普通に受け入れていた
自分も」
 忌まわしき過去を再体験してしまったのか、襟元にシベリアの冷気を感じるかのように体を
震わせるターニャ。

 ふと梢は薫に電話しなくてはならないことを思い出した。ロビーに出てちょいちょいと指先を
携帯に這わせてコールする。
 しかし、繋がらない。電波が届かないか向こうの電源が入っていないらしい。
「どうしようかな」
 戻った梢に視線が集まる。
「今日、薫さん職場にいるよね」
「そのはずだけど、何か用があるの?」
「うん。また葛城梁のことで情報が入りそうなんだ。小樽の夜のこと調べてくれた人が、わかった
ことがあるって。薫さんと来てほしいって言うんだよね。今夜。またあとでかければ大丈夫かな」
「仕事が忙しいのかもね。私たちといろいろやっているから、時間に余裕ないだろうし」
「そうだね。無理だったら私一人で行けばいいか」
「いや、それはまずいんじゃないか? 単独行動は避けていないと危ない」
「だーいじょうぶ、っとて言いたいけど、確かにそうかもね。誰か、一緒に来る? 鮎ちゃんは
どうする」
「明日ライブがあるからさ、リハーサル。ここ何日か楽器離してたから、みっちりやんないといけ
ないんだよね」
「そっか。頑張ってね。明日、時間あったらみんなで見に行くよ。ね」
「スティーブは?」
「行ってもいいけど、ユーコが行くのならリピンスキーさんを誰かが家まで送らないといけないと
思う」
「あ、そうか。じゃそっちを任せるよ」
「それじゃ、私と梢ちゃんでいいね。私は時間あるし」

 それからも何度か薫に電話をしたが、繋がったのは風祭氏の指定した時刻直前だった。この
日は偶然、物言わぬお客が多かったのだという。由子と梢に話を聞いておいてほしいと手短に
話し、また処置室へと向かったようだった。
 約束のレストランへと車とバイクを走らせること10分。先着していた風祭が軽く手を上げて
二人を差し招いた。

「いや、ゆきちゃんさんのお友達は美人ばかりですな。はじめまして、風祭です」
「お世辞をどうも。桜町由子です」
「先日の方は名乗ってくれませんでしたが、あなたはよろしいので?」
「あ、そうだったの? ま、いいよ私は」
 心の裡で薫の用心を汲み取っていなかった自分の迂闊さに悔いるものがあったが、とりあえず
平静を保つ彼女。
「そうそう。先日の仮称山田さんはいらっしゃらないので?」
「都合がつかなかったんだ。いいでしょ。私と由子さんで」
「ゆきちゃんさんは都合悪くなかったんですか?」
「・・・・・悪い方が良かったみたいに聞こえるよ。お見合いとかと勘違いしてない? そんな
ことより、本題本題」
 乾燥した音のない笑い声を立てる風祭は凪の海面ほどに穏やかで、彼の裏の姿などあまり
窺い知ることができない二人だった。
「桜町さんも、この間私がした話は聞いていますか?」
「聞いたよ。一切合財」
「それでは、問題の夜についていくらかわかったことをお話しましょう」


 葛城梁を一旦は拘束した2人組がいた。
 華北マフィアの下級構成員で、名前は鄭(テイ)と揚(ヨウ)。夜が明けると揚は公園で気絶して
いるのを仲間に発見され、鄭は行方不明になった。

 港で男を見失ってから、華北マフィアと暴力団員は短い話し合いで彼ら同士の戦闘はしない
ことに合意した。そもそも抗争は望むところではないし、警察の介入するような派手な騒ぎは
双方の損でしかない。
 金は先に取った者が獲得する。
 男の身柄を暴力団が押さえれば、金で譲渡する。
 もちろん協力するような蜜月関係からは程遠い両者であるから、付かず離れずに相手の
様子を窺って、隙あらば横取りしようと目を光らせながら、男を追った。

 男は港のどこかに停めてあった車に乗り込んで逃げた。その時慌てて盗んだわけではなく、
後からわかったことだが、葛城梁という名義の車を予め用意していたらしい。
 追う連中も車を仕立てて追ったが、男は余所者とは思えないほど小樽の街路を巧みに疾駆
して行方をくらました。しかし追う連中も必死である。5億円が、税金として申告する必要もない
5億が手に入るチャンスなど、千載一遇のものなのだから。
 ナンバーを控えるのに成功したことも彼らには重要な武器となるはずだった。しょせん撃た
れた肩ではいつまでも逃げられないのは確固たる事実なのだ。

 小樽という街は大きく3つの脱出ルートしかない。東の札幌方面か、西の積丹半島か、南の
倶知安方面か。暴力団も華北マフィアも人員を送りこんでこれらのルートに見張りを置いて監視
と封鎖をする一方、港に派遣されていて実際に男の姿を見た構成員が手分けして市内を探索
することになった。

 逃走から2時間ほど経って、楊と鄭が男を発見した。
 そこは小樽南方の住宅街の一角。車のライトを消してゆっくりと路地を走っていたら、ふらつき
ながら歩く男を見つけて取り押さえた。短い格闘があり、不意を襲われながらもかなりの抵抗を
した男だが、最後は鄭が拳銃を後頭部に突きつけてホールド・アップさせた。
 どこで処置したのか肩の銃創は止血してあったものの、大量の血を失ったせいか、動きに
港でのようなキレがなかったからこそ制圧できたのだろう。

 楊が正面から銃を向け、鄭は側頭部から銃口を押し当て、金の在り処を吐かせようとした。
 男は、金は車の中だと答えた。
 車はどこだと重ねて聞くと返事を躊躇ったが、鄭が頬に銃床で衝撃を与えると少し離れた
空き地に停めてあると白状した。
 案内させると、確かにそこに車が隠してあった。
 楊は携帯で組織の上層部に報告を入れ、これから事務所へ連行すると言った。
 金はトランクの中だと聞き出したところで、男は哀願したらしい。
「金はやる。だから命だけは助けてくれ。これを持ってあんたたち二人が逃げれば、一生遊んで
暮らせるだろう」

「ここからは私の推察になります」
 風祭は前置きをして続けた。

 翌朝発見された揚は、そんな申し出に乗らなかったと言っている。鄭が組織を裏切って自分に
銃を向け、金の一人占めを図った。それからは殴られて気絶してしまい、後はわからないと。
しかし怪しいものである。これは逃がした責任を逃れるための方便であろう。

 恐らく、甘い話に騙されたのは片方だけではない。命乞いを始めた男に油断したところを、
反撃されたのだ。
 まず揚がやられたに違いない。男はかなりの格闘能力を備えているらしいことは港から脱出
した時の動きから想像できる。油断していればチンピラなど一撃だ。実際、揚は誰にどうやって
気絶させられたかをきちんと説明できていない。突然頭に衝撃が来て、気がついたら朝だったと。
そして鄭もやられた。

 当初、華北マフィアは揚の報告から、鄭が揚を殴って男から金を奪って逃げたと思っていた。
鄭が持ち逃げを決め込むなら、男を上に引き渡す必要もないから逃がした。そいつが仲間を引き
付けてくれれば御の字だと。そして男は負傷しながら高速道路を走って逃げるという無茶をした
せいで事故死したと結論づけた。
 これにより、鄭は裏切り者として狩り立てられることになった。
 
 ところが男がロシアで生きているという話が出てきた。
 なら、事故で死んだのは誰だ。ひょっとしたら鄭じゃないのか。
 これで大騒ぎである。揚は半死半生の目に遇わされたという。
 どこでこの変わり身が起こったのか、どういう手段が用いられたのかは華北マフィアも風祭も
わからない。もうマフィアはそこまで解明する気がないからでもある。男が何らかの狡知を利か
せたのは疑う余地がないが、事故まで演出したとすれば仲間がいた可能性もある。事故が
発生した時間には、もう男はロシアへ向かう船に乗っていたと想定されるため、自ら手を下す
ことはできないからだ。

 「私もこの件が面白くなってきましてね。これからもなにかわかったことがあったらお知らせ
しますよ」
 そう最後に言い残して、遠慮する由子を押し留めて3人分の勘定を払って風祭は先に帰って
いった。

 冷水の注がれたタンブラーに、他にすることが思いつかずに手を伸ばす梢。
 葛城梁がターニャの部屋から出てからのことに首尾一貫した説明を与えられた。なのに、
どうしてすっきりした気分になれないのか。 
 両肘をテーブルに立て、口元で手を重ねる由子の声は低くこごもった。
「葛城梁が骨の髄からのアウトローに思えてきたよ。・・・・・ターニャの前では言えないけどさ」
「もう、ターニャもスティーブもわかってきてるんじゃないかな。表の顔と裏の顔が全然違うって
こと。やってることがおかしいもん。数えるだけで、拳銃持ってて、相手殴ったりして、怪しい
大金持ってて、外国に逃げて、そんでアメリカ政府に指名手配でしょ。なんだか昔の過激派とか
さ、そういうの連想しちゃうよ」
 梢も由子も、前回の話し合いの時のセリザワを思い出した。
『だんだん、リョウのやったことがわかってきたような気がするよ』
 そう言っていた。ターニャも、以前ほど葛城梁の所業を聞いてもショックを受けなくなってきて
いる。二人なりに苦しみながらも現実に折り合いをつけようとしているのだろうか。
 由子はふつふつと怒りが沸いてくるのを感じた。
「今逮捕されたら刑務所一直線だろうね。日本でもアメリカでも。そういう男に限って、ターニャ
みたいな素直な子を騙すのは巧いんだろうな。ずっと信じてたんだろうに。ひどいよ。こいつ」
「うん。って、電話だ」
 梢の携帯がバイブレーション機能を発動させていた。

「もしもし? 薫だけど」
「梢です。仕事は終わりました?」
「ええ。まだ一緒にいるの?」
「由子さん? いますよ。代わります?」
「違うの。例の人よ」
「あ、けあふりぃさん? もう帰りましたよ。私たちも戻るところですから」
「そう。どういうことがわかった?」
「こないだの続きですね。葛城梁がターニャの部屋に来る前後の事情がある程度わかったって
とこです。詳しく話します?」
「高速道路での事故原因はわかった?」
「いえ、それはまだ。これからも調べるって言ってたから、なにか掴んでくれるかもしれないです
けど。聞いといたほうがよかったですか?」
「いえ、いいわ。それじゃ、気をつけて戻ってね」
「はいは〜い。それじゃ」






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