錯綜する子午線 <4>



 調査続行が決まってから数日後、待ち合わせ場所へ向かって愛車スプライトのステアリングを
握る梢の携帯が鳴った。運転しながらの通話が違法になったなんてことは気にしないが、幌を
閉じたオープンカーは防音効果が低く、運転しながら電話するには難がある。停められるところを
探しながら液晶画面に目をやると、表示されているのはけあふりぃこと風祭氏の名前。
 これまでなら、「またなんかくだらないダジャレでも思いついたのかな」とかしか思わなかった
が、葛城梁の件で秘めていた底知れない面を見た今は、どこかに張り詰めたものを感じてしまう。
「もしもし。梢だけど」
「わたくしです。ご機嫌いかがですか?」
「運転してたとこ。別にうるわしくはないけど、どうかした?」
「いえね、また少しわかったことがあったので、お伝えしておこうかと思いまして。今夜、予定は
ありますか?」
「これからちょっとあるんだよね。終わるの何時になるかわかんないし。今、話せない?」
「いささか長くなりますよ」
「それじゃ遅刻しちゃうな。今夜がいいの?」
「早い方がよろしいです。それと、先日の女性にも同席してほしいですな」
「それじゃ、んー、連絡してみるよ。どうするか決まったら電話するから。いい?」
「わかりました。それでは」
「でも、あれだね」
「あれとは?」
「ひょっとして、私よりも薫さんに会いたいんじゃないの?」
「あの方は薫さんというんですか。素敵な名前ですな。忙しいのであれば、梢さんはいらっしゃら
なくてもかまいませんよ」
「どーいう意味よ!」
「ははは、冗談です。では、電話待っていますよ」
 切れた携帯の液晶画面にはダウンロードした待受画像。
「・・・どこまで冗談なんだか、わかんないんだよねぇ」


「ごめんごめん、遅れちゃって」
 ターニャを守るかのように囲むセリザワ、琴梨、由子に駆け寄って息を切らす梢。
 待ち合わせの場所は、札幌の図書館。
この日は葛城梁がなぜロシアへ渡航したのかを知るために、ロシアの情報機関のことなどを
調べることにしていた。前にCIAのことは一日かけて資料を渉猟したが、国が変われば文化も
社会も組織も違う。
 そしてソヴィエト連邦そのものも変わってしまっている。

 国家保安委員会、略称KGB。カーゲーベーと発音する。現在のロシア政府の諜報機関、対外
情報局と防諜機関の連邦保安局(FBS)の前身である。置いてある資料・文献のほとんどが
KGBについてのものだった。まだ新しい組織については認知度が低く、目立った活動もない
からであろう。
 それに引き換え、KGBは諜報機関の枠を超え世界中にその名を轟かせた世界最大のスパイ
組織である。映画や小説でも引っ張りだこで、大物ハリウッド・スターなら何度も冷酷な金髪男と
撃ち合っている。
 そのことが、逆に実像をぼやけさせる理由にもなっている。
 KGB工作員はワシントンやロンドンの街路でカーチェイスをしたり政府の研究所に忍び込ん
だりすることになっているが、実際にそんなことがあれば大々的に報じられるはずで、もちろん
そんなニュースはそうそうない。

 KGBには二つの側面がある。
 一つは、共産党の権力機構としての側面。
 もう一つが情報機関としての側面である。

 ソヴィエト連邦内においてKGBはナチスドイツにおけるSS(親衛隊)のように独自の武力と
設備を持っていた。国境警備は赤軍ではなくKGBの国境警備隊が行っていたが、戦車から
軍艦、戦闘機まで所有していたほどである。

 国内社会のあらゆる階層に要員を送りこみ、反共的言動を厳しく取り締まった。外国人はこと
さらに警戒し、ロシアへの観光客を受け入れる唯一の窓口であったインツーリストはKGBその
ものであり、どんなツアーにも防諜要員が影のように寄り添った。時には観光客より多い監視
要員が配置されていたという。

 秘密国家・ソヴィエト社会主義共和国連邦を維持する唯一にして最大の権力。
 それがKGBだった。

 KGBが外国の情報機関内部にスパイを獲得したことは数多くあるようだ。
 1950年代末、イギリスの諜報機関MI6の幹部で、次のソヴィエト課長に就任するところだった
ハロルド・フィルビーがソ連のスパイであったことがわかり西側世界は騒然とした。通称キムと
呼ばれていたこの男はケンブリッジ大学時代に共産主義を信奉してスパイの道へ入った。英国
上流階級に同士(多くがホモセクシュアルの関係にあった)を作った彼は機密情報をKGBへ渡し
続け、逮捕されそうな仲間が出るとソ連へ亡命させた。パージェス、マクリーンといった男達が
そうである。
 反逆行為はついには露見するのだが、英国側の不手際も重なって監視の目をくらまし、彼も
またソ連に亡命している。
 これが有名なフィルビー事件である。
 英国は以後長く内部にいる共産主義者の脅威に怯えることになる。
 ドイツ、イタリア、スペインなどの西側諸国もKGBの浸透を受け、情報を盗まれている。
 モスクワ、ジェルジェンスキー広場に面したKGB本部に君臨しつづけた議長アンドロポフは、
それらの実績と実力を背景にソヴィエト連邦政治局書記長にまで登りつめたほどだ。

 2重スパイの恐ろしいところは、地雷に似ている。地雷原を除去する時、一つでも残っていれば
致命的な損害をもたらすことができる。それゆえ安全を確認するには何度も繰り返して探知と
処理を行わなくてはならないが、その間は土地を利用することはできない。地雷だと思って
苦労して取り除いてみれば、潰れた空き缶の場合もある。そして完了したと見なしても、誰もが
まだ忘れ物があるのではないのかと疑心暗鬼になり、立ち入るのを避けるようになる。

 それと同じことが、CIAでも起こった。
 アングルトンという防諜を担当していた幹部が、「CIA部内にソ連のモール(潜入スパイ)が
いる」と主張し、大掛かりな内部調査を行った。その過程で多くの職員が嫌疑を受けて職場を
去ることになったが、当然ながら強い反発を招き、彼はモールを名目に反対派の粛清をして
いるだけだと非難を浴び2派に別れた激しい対立が起こった。
 結局アングルトンは追放同様に解任される。現在判明している事実から言えば、彼の疑惑は
根拠のない妄想でしかなかった。
 しかしKGBは実際にスパイを獲得することなしに、最大のライバル組織をずたずたにする
ことができたのである。

 この事件が、KGBを大勝利に導く伏線となった。

 オールドリッチ・ヘイズン・エイムズという男がいた。CIAに入局し現場の工作員として活動
したが、見るべき成果を上げることはほとんどなく、彼を部下とした多くの上司が無能の烙印を
寸秒もためらうことなく押した。しかし人事担当官に親友を持つ彼は官僚機構の中で次第に
昇進していき、やがてソ連と東欧衛星国でアメリカが獲得している協力者を統括する部門の
長へ就任する。
 以前からアルコール中毒だったこの男は金に窮し、冷戦がピークに達していた1983年、
自らソ連大使館へ向かい2重スパイとなることを申し出た。

 そして逮捕されるまでの8年間、エイムズはKGBの求めに応じあらゆる機密を渡し、金に
替えていた。裏切り行為を重ねながらも彼は昇進し、権限を増やし、ついには最高幹部しか
閲覧できないファイルにまでアクセスする資格を得た。
 ソ連国内から衛星国、さらには西側諸国の共産党内部にも協力者を得ていたCIAだが、
エイムズの情報によってほとんどが逮捕されるに至る。ほとんどと形容するのは、全員を的確に
逮捕していけばCIA内部の情報源の存在を疑われると、KGBが逮捕を控えて監視付きで
泳がせた場合があるからである。
 この時代、CIAのあらゆる工作は失敗するか、成功しているように見せかけられているかの
どちらかであり、得られた情報の大半が巧妙な偽情報にすぎなかった。

 1991年。ソヴィエト連邦の崩壊によって冷戦が終結した時、勝者はアメリカ合衆国であった。
 しかしその瞬間も、CIAはKGBに完敗していたのである。
 エイムズがFBIによって逮捕者の権利を朗読されるのは、それから3年も後のことになる。

 8年もの長期間、大胆というより粗雑な彼の反逆行為をCIAが見過ごしていたのは(内部
調査でも数ある証拠を正しく理解せずに、FBIが介入することでようやく逮捕することができた)、
アングルトン時代のような相互不信と分裂を避けたいという首脳部の事勿れ主義が背景に
あった。年棒5万ドルの身でありながら大邸宅を購入しジャガーの新車で出勤するエイムズを
敢えて疑おうとするものはいず、防諜担当者はモールの存在を常に否定していた。

 この事件でCIAの威信は大いに傷ついてしまった。
 威信というものは、スパイの世界ではなによりも重要なのである。理由が主義であれ金銭で
あれ、スパイは逮捕・投獄の可能性を首筋に当てられたナイフのように感じながら活動する。
生命を賭して、耐えざる緊張にさらされながら情報を入手して送り出す。
 だが肝心の情報機関の機密が敵に筒抜けならば、スパイがいかに勇敢で大胆であっても
それは自殺行為にすぎない。実際に、ソ連の機密情報をアメリカへ渡したソ連人はエイムズに
よってKGBへ報告され、強制収容所で拷問の果てに落命するか処刑されるかという運命しか
残されなかった。少数の質の低い情報提供者がソ連崩壊で収容所から出られただけである。
 この事件が公表されると、CIAへ協力しようとする者は激減した。信頼されない情報機関は、
トイレの場所すらも教えてもらえないのである。

 一方KGBは、これほどの成果を上げながらも共産主義の終焉とともに解体の憂き目を見る。
1991年の夏。KGB議長ウラジーミル・クリュチコフ自らが主導的に関与し反ゴルバチョフ
クーデターを起こしたものの、エリツィンを擁した市民によって惨めな失敗に終わったことが
致命的だった。
 新生ロシア連邦共和国はKGBを分解し、政府のために海外の情報を収集するためだけの
機関としてKGB第一管理本部を改組して対外情報局を設立した。防諜を担当するのは第二
管理本部の流れを汲む連邦保安局である。KGB職員のうち、そこに採用されたのはクーデター
に反対した少数の民主派であり、共産主義・全体主義的な思想の持ち主は退役させられた。
国民によって選ばれた政府に奉仕する機関となったのである。

 葛城梁がロシアにへ亡命したとすれば、対外情報局の保護下にあると思われるが、その
ことが公表される可能性は五分五分だろうとセリザワは話す。本来政治亡命は公表されるのが
国際ルールであるが、現役工作員が資金を着服して逃亡するというのはCIAにしてはなんと
しても隠蔽したい事態であり、なんらかの交換条件によってロシア側が秘密裏に対応することも
考えられる。亡命が既に一ヶ月以上前のことでありながら、まだ秘匿されているのはなんらかの
背後関係があるとしか考えられないだろう。

 だが、その背後関係とはなにか?






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