錯綜する子午線 <3>



 調査の続行は決まった。 
 現在の急務は、集まった情報の分析である。

 葛城梁のロシア逃亡。
 その意味するところに光を当てなくてはならない。

 なぜ彼はロシアを選んだのか。
 単にCIAから逃れるため手近な外国へ姿を隠したいのならば、韓国でも中国でも台湾でも
いいはずである。
 なぜロシアなのか。

 最も整合性の高い仮説は、葛城梁は現役CIA諜報員として札幌に赴任していたが、ロシアへ
機密情報を流していた。そして見返りに金銭を信頼性が高く、自国の通貨でもあるアメリカドルで
受け取っていた。
 情報の2重売りか、ロシアからの報酬金の洗浄を介してか、動機は不明だが華北マフィアとも
繋がりを築いていた。売国行為が露見しそうになり、稼いだ金に加えCIAの秘密資金まで
奪って、ロシアへ亡命して身の安全を図った。
 こうなる。

 いくつか疑問点もある。
 特に重要なことは、「葛城梁は日本の官憲に追われてはいなかった」という事実である。

 彼をCIAが追う場合、当然日本からの海外逃亡を防ぎたい。とはいえラングレーとて万能の
神ではない。工作員を日本中の空港と港湾に張り付ける事など不可能だ。最も効果的な
方法は、彼の顔写真に適当な犯罪容疑を添付して日本の法執行官に逮捕させることである。

 秘密主義で凝り固まっているCIAが、「うちがそちらに潜入させていた部下が裏切りまして、
なんとか捕まえたいのでぜひご助力をお願いしたい」などと日本の司法機関に言うはずもない。
国家反逆罪のような目立つ罪名ではなく、麻薬の密輸や爆発物の所持といった出入国取締
官の神経を尖らせるような嫌疑をかけて、葛城梁が複数持っているであろうCIA製偽造旅券の
番号なども教えれば、まず合法的な出国は不可能になる。

 しかし、彼の顔にWANTEDというキャッチコピーを組み合わせたビラが製作されるようなことは
なかった。もしあれば、彼が高速道路で死んだとされた時に「○○で指名手配されていた葛城
梁」と報道されていたはずである。

 これは、少なくとも葛城梁がロシアに向かおうとする直前まで、CIAは彼の背信行為を掴んで
いなかったことを証明するのではなかろうか。
 もちろん、葛城はCIAがいつ自分を追い始めるか正確にはわからなかったはず。予想以上に
対応が早かったらと思えば堂々とパスポートを見せて出国することはできないだろう。
 しかし、合法的な出国ができなかったのは、所持していた多額の現金が最大の原因に違い
ない。彼はどうしても金を持ち出す必要があったのだ。

 では、その金の出所はどこか。
 彼がロシアに情報を流していたとすれば、相手はかつてKGBと呼ばれた国家保安委員会の
後進組織で諜報を担当する対外情報局か軍情報部のGRUである。軍人ではない彼が接触
するのなら、対外情報局だろうとセリザワは話した。しかしKGB時代もそれに遡るNKVD
時代も、ロシア人は自分たちのために働くスパイにろくな報酬を出してこなかったと市販されて
いる本にも記されていた。現役工作員とはいえ、まだ入局から5年程度の葛城に億単位の
報酬を支払うと考えるのは非現実的だ。やはりCIAの工作費用を横領したのではないだろうか。
華北マフィアがそのことを知っていたのだから、ひょっとしたらマフィアの金なのかもしれない。
どちらにせよ、堂々と銀行を通して送金できるような金銭ではなかったに違いない。

 ドルで5億円。
 それだけの外貨が、インフレが末期癌のように進行するロシアでどれほどの価値を持つのか。
 王侯貴族のような生活を保証するはずだ。
 多少銃弾を食らってでも持ち出そうとするはずだ。

 ただ、CIAの秘密資金などというものが実際にあるものなのか、内部の人間だからといって
横領などできるのか、といった疑問は残る。彼個人の正当な財産と見なすことはとうてい
できないが。


 CIAは、まだ葛城梁を追っているのかという点も定かではない。

「彼が正式に亡命してしまえば、事実上、手が出せなくなるね。それが彼らのルールらしい。
相手の国に要員を送って亡命者を殺したりしたら、終わりのない報復合戦が始まるだけだ。
かつてフィルビーやブラントといったイギリス人の大物スパイがロシアに亡命したけれど、彼らは
終生安楽に暮らしたという話だし、アメリカに亡命したロシア人もそうだ。かつて戦闘機で函館に
着陸したパイロットの話は知っている? 彼も狙われたりしないで生きているんじゃないかな。
知らないけれど。今、ロシアの情勢は混沌としているけれど、それに乗じて彼を抹殺しようとは
しないに違いない。だからこそ僕もこうして自由にしていられるんだろう。だけどもし彼が日本に
潜伏しているとなれば、死体にしてでも捕らえようとするだろうね」
 そうセリザワは判断を下した。

 彼の売国の動機。
 これは本人に尋ねるしかないが、ターニャの記憶にあるエピソードから激しい反米感情を
抱いていた兆候が垣間見える。そして、後生大事に現金を担いで行ったことから、金銭欲も
強かったのだろう。ターニャの前の彼は金銭に執着する素振りはなかったと言うが、巧みな
演技で隠していただけではないのか。共産主義の崩壊したロシアに、イデオロギー上の理由
から忠誠を誓い2重スパイとなることを欲したとは到底考えられないし、完璧な偽装で身分を
隠していた彼がロシアに正体を見破られ脅迫を受けていたとも思えない。健康な身体を維持
していた彼が麻薬に溺れていたはずもないし、ターニャという恋人がいたのだから女性を提供
されたからといって反逆行為にまで手は出さないだろう。
 やはり、金なのか。

 実際に葛城梁という人間像を直接体験しているターニャとセリザワには、この仮説は容易には
受け入れられないものだった。
 セリザワも動揺を隠さず言う。
「彼に限って、金で機密を売るなんて考えられない・・・。誠実な男なんだ。もし本当なら、なにか
どうしようもない特別な理由があったんじゃないだろうか」


 今年最初の大雪が札幌を見舞った午後。椎名薫のマンションで一人、ターニャは窓から北の
空に故郷を重ね合わせていた。

 ロシアは、どこまで私から奪い尽くそうとするのだろうか。

 携帯の着信音が錨のように沈んでゆく想いを切断する。
 セリザワからだった。
 近くまで来ているから、少し歩かないかという誘いだった。

 薫は観察医務院へ出勤して夜まで戻ってこない。他のメンバーも平日ということでそれぞれに
用事があった。危険が少なくなったという判断から、用心のために常に誰かが側にいることも
減っていた。
 断る理由もなく、彼女はコートに袖を通した。

 程なく待ち合わせの場所に立つ彼を見つけた。
 白い息をサンタクロースの髭のように口元に漂わせている姿はアメリカ人にも外務官僚にも
見えなかった。
 友達を待つ、ありふれた風景の1ピース。

 友達?
 私はあの人を友達だなんて思ってはいけないんだと、彼女は厳しく自らを戒めなくてはならな
かった。
「セリザワさん、お待たせしました」

 特に目的地もなく、二人は微妙な距離を保ちながら靴底のマークを雪上に書き込んでゆく。
 セリザワは、カリフォルニア育ちだがワシントン勤務になってからは雪は珍しくないよと話した。
しかし、時候の挨拶は引力に引かれるように葛城梁のことへと変移してしまう。

 午後の太陽がプラチナの反射で空に光を戻す。
「どうしても、信じたくないよ、あいつが犯罪者だなんて。いつだって誠実で、間違ったことは
しない男だった。アメリカを騙して、裏切って、金を盗んで、逃げるなんて最低の犯罪じゃないか。
どうしてそんなことをしなくてはならなかったんだ。あいつは僕なんかより裕福だった。羨ましいと
思ったことさえある。なのに金目当てに産まれた国を売ったのか? 恥ずかしいと思わなかった
のか? そんな男じゃ、なかった。
 いつからか、変わってしまったんだな。
 CIAに入ってから。
 その前に僕に相談してくれればよかったんだ。友達なんだから。あいつは・・・・・」
 言葉に詰まった。
「あ、すまない。僕ばかり、言いたいこと言って・・・・・」

 連なる屋根の向こうから、線路の継ぎ目を拾いながら走る鉄道の声が聞こえてくる。
 どうしてだろう。
 彼女が耳にするのが、いつも遠ざかる音なのは。

「いいんです。心にあることを言葉にできるのは、きっといいことだから・・・・・」
「そうだね。聞いてくれる人がいる時は特にね。君は、誰に話すんだい? 心にあることを」
「私は・・・・・いまの私の心には、なにもないから・・・・・」
 すぐには与えるべき言葉が見つからなかったセリザワ。
 彼女の白皙の頬が白骨のように血の通わないものに見えた。
 足取りも、呼吸も、寸毫も乱すことなく歩くターニャ・リピンスキー。
 かつてはリョウ・カツラギへと無防備に開放されていた心の国境は、スターリン時代の
ベルリンの壁よりも厳重に封鎖されているのか。
 チェックポイント・チャーリーすらない、孤独な牙城として。

「・・・・・それじゃ、なにか話したいことができたら、僕に言ってほしい。聞くことしかできない
けれど、いつでも、準備はできているから」
 他に言える台詞が思いつかなかった。
 リョウはこんな時、どう彼女を支えたのだろうか。
 それが知りたいと思った。
「・・・・・ありがとう、ございます」
「どういたしまして。僕の日本語もなかなかだろう?」
「そうですね。とても上手だと思います」
「君にはとても及ばないけれどね。ずっと練習してきたけれど、自然に会話できるようになった
のは国務省に入ってからなんだ。感情を表現できるようになるには経験が必要なんだとわかっ
たよ」
「セリザワさんは、どうして国務省に入ったんですか?」
 ついと彼女が尋ねると、彼はいくらか胸を張ったようだった。
 そして言い切った。「セリザワ家の人間は、国に仕えるんだ」と。

「僕のお祖父さんは、若いときに日本からカリフォルニアに移民してきたんだ。そして、農場で
頑張って働いた。
 いっぱい働いた。
 でも、英語ができなくて教育がなかったから、体を使って働くことしかできなかった。だから、
無理をして僕の父さんを大学に行かせようとした。だけどお金が足りなくて、父さんは軍隊に
入ることにしたんだ。そうすれば、学費が半分免除になるんだ。父さんは、お祖父さんを受け
入れてくれたアメリカにとても感謝していたから、国のために志願した。お祖父さんも、アメリカの
ために働く道を選んだことを喜んだ。それでベトナムにも行ったんだ。どんなに辛くても父さんは
諦めないで戦って、無事に帰ってきた。
 その精神を受け継いで僕の兄も海軍にいるし、弟も大学を出たら海兵隊に入ると決めている。
僕も海軍に入るつもりだったんだ。でも、僕に日本語を教えながらお祖父さんが言ったんだ。
一人ぐらい、戦争とは違う方法で国に報いてもいいんだぞって。
 その時、わかったんだ。お祖父さんは、本当はお父さんを軍隊に入れたくなかったんだって。
命の奪い合いなんかさせたくなかったんだって。
 それで僕は国務省を選んだんだ。国務省は、戦争を起こさないためにあるんだ。もうお祖父
さんは天国へ行ったけれど、僕が国務省にいることを喜んでいると思うよ。
・・・なんか、つまらない話をしてしまったね。退屈しただろう。そろそろ、戻ろうか」






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