錯綜する子午線 <2>



 検討すべき謎の洗い出しは終わった。
 砂を払って埋もれていたレリーフを発掘してみたら、刻まれていたのは醜悪な人間の皮を
被った獣が一匹。
 素性の怪しい大金に非合法な出国。
 葛城梁はターニャを騙していた。
「どうしても辛い結論になると思うけれど、ターニャ。彼はもう、あなたの前に現れることは
ないわね」
 薫は意図的に断定した。
「ああいう形で出国したら、日本に入国するなんてとてもできないでしょう。最後に、『あなたを
守る』って言ったのが、嘘だったのか本気だったのかわからないけれど、戻ってこれないのは
彼だってわかっていたはず。今でもあなたの身の上を案じているかもしれないけれど、外国に
いてそれ以上のことはできようもない。あなたが彼を過去の人として割り切れれば、元の
暮らしに戻れるわ。そうする気はない?」
 ターニャは迷うこともなく、即座に答えた。
「わかります。そう、します。梁はやっぱり、あの事故で亡くなったって思いますから。
 それで、もういいです。
 もう知りたくなんてありません」
「嘘が苦手なのね」
 ターニャの結論が背後に秘めている考えなど、予想から1ミリも出ていない。どれほど自らを
苛む事実であっても、ターニャに結論を出させてはいない。彼女はまだ過去から解き放たれて
いないのだ。
「そう言って、私たちをこの件から離したいんでしょう。それがあなたの優しさなのはよくわかるわ。
でも、よく聞いて。みんなもね」
 薫は自分の振る舞いが誰にも予断を与えないよう、つまらない新聞記事でも読み上げるように
話す事を選んだ。
「私たちがここで手を引いても、100%安全になるというわけじゃないのよ。中途半端にする
ことで、知っておくべきことを逃してしまって危険を招く事だってある。今日まで調べたことだって、
物的証拠のない伝聞が大半でしょう。これをどう受け取るかは私たち次第なの。だからみんな
にも決めてもらわなくてはならないわ。私たちがこれからどうするのかを。もう今夜は遅いから、
明日一日、それぞれが考えて、結論を出して。それで多数決を取りましょう。みんな、いい?」

 ある者は思った。
 いろいろやってきたけれど、まだ自分が危ない目にあったことはない。
 これからはどうだろう。
 マフィアの人たちに気をつけていれば大丈夫だろうか。

 ある者は思った。
 自分だけのことなら、ここで終わりにするのは嫌だ。
 わかったようで、何もわかってないような気もする。
 暴力とか脅迫に負けたみたいだし。
 でも、みんなのことを考えると・・・。

 ある者は思った。
 ここまでにわかったことを、匿名で警察に通報すれば もういいんじゃないだろうか。
 誘拐犯がそれで捕まって、マフィアが取り締まられればもう怖いことは起こらないんじゃない
かな。

 ある者は思った。
 ターニャは、多数決で捜査中止が決まったらどうするんだろう。
 仕事を辞めたって言ってた。
 小樽に戻って、どういう暮らしをしていくんだろう。

 ある者は思った。
 あと何年かして、このことを思い出して後悔するだろうか。
 続けた時に。止めた時に。
 私はどう思うだろう。
 やっぱり好奇心とか同情に負けて深入りするんじゃ
 なかったと嘆くか。
 できるだけのことをしたと胸を張れるか。
 自分が無事に永らえていることを喜べるか。
 身寄りすらない彼女を見捨てたと自己嫌悪するか。
 
 ある者は思った。
 本当に全部がわかるまで調べてたら、きっとまた 誰かが襲われたりするんだろう。
 この辺りで区切りをつけるのがいいのかもしれない。
 もやもやは残るけれど、もう葛城梁そのものが手の届かない世界にいるわけだし。

 ある者は思った。
 ここで止めれば、なにもかも無意味になりそうだ。
 葛城梁、そしてターニャ・リピンスキー。
 まだ知らなくてはならないことがあるのでは・・・。
 

 24時間の猶予は、誰にとっても瞬く間に過ぎていった。琴梨と鮎のようにこの件に関わる
以前からの深い交友があった二人も相談し合うことは避け、あくまで個々人の判断を自己の
中で醸成していった。

 そしてそれぞれがそれぞれの結論を胸ポケットに折りたたみ、再び春野家に9人が参集する。
一人、また一人と、もう馴染んだドアを通り、いつしか指定席となった自分の場所に座ってゆく。
いつもと違うのは、彼女たちに笑顔と会話が欠けていること。

 葛城梁の行方について憶測を話すでもなく、今夜のテレビドラマへの期待を口にするでもない。
ただ目を見交わせ、挨拶に「寒くなったわね」程度の無味乾燥な決り文句を添えるだけ。言葉を
交わすことで自分の考えを示してしまい、それが他のメンバーの決断に影響するのを恐れている
からだ。

 最後にターニャが薫の車でやってくると沈黙は最高潮に達した。

「みんな、もう考えは固まった?」
 薫の問いかけにちらりと左右を窺いながらも、頷く一堂。
「多数決で調査続行か終了かを決めることはもう合意しているけど、どちらに決まっても、全員が
約束しなくてはならないことがあるわ。続行の場合、反対した人は自分の意思で活動に関わら
ないことができる。調査の進捗状況を、その人たちにきちんと連絡する。活動しない人は全体の
合意無しに情報を誰にも漏らさない。終了と決まったら、全員が一切この件から離れる。
みんなの安全がかかっているのだから、自分勝手な調査は厳禁する。集めた情報をどうする
かは、やはり全体の合意で決める。これでいいわね」
 異存は出なかった。
「それで、決をどうやって取るかだけれど、無記名投票にしたいの。続行の場合は、結局抜ける
人をはっきりさせなくてはならないけれど、みんな、こういうことを挙手で決めたくはないでしょう。
だから、こうしましょう。この箱を使うの」

 彼女が袋から出したのは、手の平サイズの貯金箱だった。
 目を細めて欠伸をする猫の形をしている。
 本棚の飾りになっていたそれは、実用性はその小ささからまるでないが、研修医時代に
患者の女の子が退院する時に感謝を込めてくれたものだ。

「みんな、小銭は持っている? 5円玉と10円玉がいいわ。一枚ずつ。ない人は言って」

 5円玉がないメンバーが何人かいて、薫は予め準備していた余分な硬貨を渡した。

 全員が一枚ずつ持ったところで、方法を説明する。

「やり方は簡単。貯金箱の底を封印して別の部屋に置く。一人ずつ行って、調査続行なら10円
玉をここに入れる。終了なら5円玉を入れる。全員が投票したら、ここで開票。どちらのコインが
多いかで結論を出す。不正はないと思うけど、あとで揉めても嫌だから貯金箱を置く部屋に
入ったら10秒以上かけない。ただ入れるだけなら10秒もかからないし、細工をするには短か
すぎるでしょう。迷ったら、またここに戻ってくればいいわけだしね。どうかしら?」

 慎重かつ適切な方法だとの同意を受けて、薫は貯金箱を隣に座る葉野香に手渡す。
「それじゃ、みんな廻して見てね」
 貯金箱の底には、コインを取り出すための穴とそれを塞ぐゴムのキャップが付いている。
貯金箱に全員が触れて、投入口も取り出し口もひとつしかないことを確認する。
 続いて薫が取り出したガムテープで、キャップそのものはおろか底全体を何重にも覆ってゆく。
これなら簡単には剥がせないし、剥がせばすぐわかる。

 用意が整った。
「それじゃ、琴梨さん。これを別の部屋に置いてくれない」
「はい」

 ターニャが倒れた時に休んだ、今は使うものもいない書斎へ彼女は向かった。
 机の真ん中に猫を鎮座させる。
 ガムテープのせいで、いささか納まりが悪いが仕方ない。

「置いてきたよ。机の上に」
「じゃ、投票の順番を決めましょう。これもランダムにしたいの。くじでも作る?」
 調査続行派の方が、終了派よりも積極的に投票することが予想される。心が決まった順番に
書斎に行かせれば、開票結果からあらかたの予想がついてしまう。それはしこりを残さない
ためにも避けたい。
 梢が提案する。
「じゃ、誕生日順にすれば? 早い人から行くの。くじ作るより簡単でしょ」
「そうだね。それがいいね。1月生まれの人いる?」
「あ、私1月。・・・・・私だけ?」
「みたいね。それじゃ、最初は鮎さんね。いい?」
注目を浴びていくらか戸惑う彼女も、「う〜、ちょっとアレだけど、うん、いいよ。我侭言えないし」
と了承した。
「すぐに行かなくてもいいよ。考えが定まってからで」と由子。
「うん。やっぱりまだ、迷ってるし。ちょっと、ベランダに出る。一人でまとめるから」
「もう外は寒いよ。私の部屋、使っていいから」
 そう琴梨が気遣ったが、鮎は甘さのない環境で判断を下したいと思った。
「・・・ううん。やっぱりベランダにする。その方がよさそう」

 やがて頬を赤く染めた彼女がリビングに戻り、2枚の硬貨を手にして書斎へ向かった。
 誰も10秒など数えない。
 戻ってきた鮎は、ポケットの中に残ったコインのことを考えてみた。

 続いて3月生まれの春野陽子。4月生まれの左京葉野香、6月生まれだというセリザワ、7月
生まれの桜町由子と里中梢、9月生まれの春野琴梨、10月生まれの椎名薫と続いた。
 何人かは鮎がしたようにベランダへ出て、星空の下で心を決めた。
 何人かは迷いもなく書斎へ向かった。
 ターニャは彼女たちのそんな姿を、表情を消して見つめていた。
 彼女には投票権がない。
 そのことに不満などありはしない。みんなと同じように考える資格なんてありはしないのだから。
 もう誰も傷ついてほしくない。
 だが、そのためにどうすればいいのかわからない。

 最後に投票した薫が、貯金箱をリビングに持ち帰ってきた。
「それじゃ、開けましょう。閉じたのが私だから、開けるのは別の人がいいわね。由子。お願い
できる?」
「いいよ。貸して」
 べりっ、べりっと粘着力の抵抗を排除してガムテープを剥がしてゆく。
 役目を果たしたテープは、陽子がごみ箱へ落とす。

 あとはゴムの栓だけ。

 促すようなみんなの視線を受け、そのまま由子が開票をする。

 金属の触れ合う甲高い音とともに、すぐにみんなの下した結論が明らかになった。
 テーブルの上で、9枚の10円玉が舞って。
 他には何も入っていないことを示すために、貯金箱を由子が振った。

「決まり、だね」






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