第7部 錯綜する子午線



 会話が途切れたのを汐に、陽子が換気をしようとリビングの窓を開けた。断熱サッシのベア
リングが回転する音を待ちかねたように、暖房で蒸れた空気が北海道の大地を疾走してきた
風に追い散らされてゆく。

 今夜は、静かだね。
 そう陽子は生活の灯りが星座を描く住宅街を眺めた。
 昨日までは、どこかで誰かが監視しているのではと怯えた気持ちを抱えながら見ていた街並み
だった。
 あの誘拐事件。
 いつまでも忘れることができない恐怖を埋め込んだ事件。
 霙混じりの雨に打たれたように、凍える冷たい汗にそぼ濡れて真夜中に目覚めることもあった。
震えと歯鳴りを止められず、ずっと蛍光灯を消さないで夜明けまで耐えたこともある。琴梨たち
には気にしていないふりをずっと続けてきたけれど、背中に押し当てられた銃口は見えない痕を
消していない。
 いつか悪夢が時間の鋏で細断されてくれるだろうか。
 あの子は、気付いているんだろうか。

 これまで綴ってきたノートを1枚目からめくりながら、琴梨が誰にともなく言った。
「それだと、これからどうしたらいいのかな・・・・・」

 葛城梁がロシアにいるとなれば、日本で何をしていて、ロシアで何をしているにせよ、彼が
日本へ戻ってくる可能性はほとんどないだろう。ロシア国内ならCIAは手出しをしないだろうが、日
本のような第三国にいるのが知られれば裏切り者にふさわしい死を与えようと準軍事要員が
群がってくるだろう。数十年の猶予期間がなくては、二度と葛城梁が直接彼女たちと関係する
可能性がない。とすれは、これ以上葉野香たちが彼のことを調査する意味も乏しくなってきたとも
言える。

 彼女たちが集めた情報は、警察にでも渡せば華北マフィアの取り締まりに貢献することもある
だろう。その意味で彼らが口封じに襲撃を図るということもありえるが、こちらが黙って刺激しな
ければターニャを中心とするグループの存在すら知らない彼らは動きようがないはずだ。

 もう一つの脅威、CIAもターニャのことを知らないのだから、葛城梁についての知識を全員が
胸の奥に秘めておけばそれで済むだろう。

 自らの安全のために結成されたチームは、ここで大きな岐路に立ったのだ。手を引くか。
調査続行か。

 ここまで彼女たちは全ての経費を手弁当でやってきた。仕事や学校での責務を圧迫され
ながらも、他に取る術がないとわかっていたから無理をしてきた。しかし、必然性のなくなった
活動をいつまでも続けられるものではない。続けたい者は続け、抜けたい者は抜けるということも
できない。続けた者が敵方に捕らわれれば、拷問や自白剤によって全員のことを知られて
しまうのは想像に難くない。そうなれば抜けた者も再び同様の危険にさらされるのだ。

 左京葉野香に、まだ止める気はない。新聞記者未満の自分が目指した目標は、もう充分
果たしたと思っている。葛城梁という名前と空家の住所から、これだけのことを暴き出したの
だから。しかし、ここで終わりにすれば葛城のことを忘れようとしていたターニャを利用しただけに
なってしまう。彼女はそんな風に思ったりしないのがわかっているが、自分の心情が許さない。
ターニャが納得できるまで、この件に関わり続けたいと思っている。

 だが、自分の意思で問題に飛び込んだわけではない春野母子などに、もう迷惑をかけたくない
という気持ちがあるのも事実だ。由子さんや鮎さんは陽子さんの誘拐をきっかけにチームを組む
ことになったが、もうその犯人グループからの脅威もなくなった。高速道路の死者についても、
もう素性がわかったとなれば薫さんが調べる必要もない。

 みんなは、どう思っているのだろう。
 彼女は口を閉ざして、議論に耳を傾けることにした。

 鮎が琴梨のノートを脇から覗く。
「まだ説明がつかないことって、どういうことがあったっけ」
「まず葛城梁の自称伯父のこと。あとは高速道路での事故原因。お母さんが見た変な光。葛城
梁の任務。ロシアへの入国目的。里中先輩のパソコンに進入した犯人。こんなところかなぁ」
 パチンと指を鳴らす梢。
「そう!私のパソコンのことがあったよ。私も忘れてたけど。これって華北マフィアがやったこと?」
「そういう技術があるのかなぁ」
「大きな組織だからパソコンに詳しい人がいてもおかしくないけど、時期的にもう手を引いていた
はずだし、やったのって別の人じゃない?」
「CIA、じゃないよね。私のこと知らないし。葛城梁の話と関係なかったのかなぁ。でも嫌がらせ
とかならあれで終わりじゃないはずなのに、あれっきりなんだよね。どういうことなんだろ」
 そもそもパソコンに造詣の浅いメンバーでは、梢に的確な答えなどできようもない。葉野香が
議題を変える。
「これはまだ、謎として残りそうだな。とりあえず次に進もう。高速道路の事故原因。これは調べ
残したことってまだあった?」
 現場に足を運んだ薫が言う。
「状況が不自然ね。変な光というのも気になるし、遺体の目に残っていた特徴の説明もつかない。
とても事故だとは思えないわ。なにかトリックがあるはず。葛城梁の車になぜマフィアの男が
乗っていたのか。誰がそうさせたのか。こういうこともわからないし」
「目に残っていた特徴?」
「セリザワさんには話してなかったわね」

 数分かけて検死の時に気付いた異常を精細に説明する薫。途中で「それは、遺体が車の中で
燃えたからじゃないのか」と疑わしげに口にする彼。
「これだけ切り離して見れば、そう思えるのは確かよ。でも、私は無関係だとは思わないわ。変な
光だって春野さんの目の錯覚かもしれない。それぞれがなんでもないことのようだけれど、人が
一人死ぬ過程に起こった偶然にしてはおかしい。もっと筋の通った説明が見つからない限り、
私はこの件は殺人事件だと思っているわ。事故に見せかける何らかの完璧な手段を使ったね」
 確信するにはまだ根拠が欠けているとは思ったが、それでもセリザワはこの事故の真相に
彼女が拘っていることに気付いて同意した。
「なるほど。あなたの考えももっともだ。リョウが車に何かの仕掛けを施していた可能性もある。
まだテータを集めるべきだろうな」と。
 そして視線を春野陽子へ向ける。
「ハルノさん。あなたが見た、変な光のことですが、見たのはあなただけですか? お嬢さんも
一緒にいたんですよね」
「この子は見てないね。めぐみちゃんも」
「メグミチャン?」
「一緒に乗ってた親戚の娘さんさ。二人とも前を見てなかったから、気がつかなかったんだね」
「話はしましたか? あなたが見たという」
「それはしたよ。でもわかんなかったって。私だって、一瞬のことだったからね」

 セリザワは事故当時の映像と写真を思い出し、情報を元に状況を再構築してみようと試み
始めた。彼がソファーに深く体を沈めて考え込んでしまったので、梢が次の問題を取り上げる。
「葛城梁の任務。これは私たちじゃもう手が届かないよね。ターニャと一緒にいないときになにを
してたか、さっぱりわかんないんだもん」
「ロシアでなにをしているかも、あの夜のことを調べてくれた人でもわからないんじゃ、お手上げ
だよね。実際ロシアに行って調べるとかしないと。でもロシアのどこにいるのかもさっぱりじゃ・・・」
 何かにつけ楽観的に振舞ってきた由子も、相手が国家的機密では肩を落とすしかなかった。

「あとは、自称伯父のことね。今日、梢さんと似顔絵を描いてもらってきたわ」
 薫が鞄からノートサイズのスケッチブックを取り出して、最も仕上がりの良い1枚を開いた。
全員が身を乗り出してB4鉛筆で描かれた初老の男性をしげしげと観察した。
 想定される年齢にしては豊富な白い髪と後退もしていないきれいな生え際。
 曲がりの少ない眉。
 日本人の平均よりは高そうな鼻梁。
 釣り上がっても下がってもいない二重瞼と唇。
 着色されていないからか、幾分険しさを漂わせている。しかし実物はもっと穏やかな印象だと
いう。

「みんなどう思う? 嶋田先生は、よく似ているって言ってたわ。前のことだからそれほど記憶が
鮮明ではないとも言ってたけど」
「なんとなくだけど、写真の葛城梁に似てるよね」
 鮎の指摘に由子が頷いた。
「私も、そう思う。この目の形とか、鼻とか。会った人は葛城梁の顔なんて知らないですよね」
「ええ、もちろん。だから、この人が本当に葛城梁の伯父だということも、ありえなくはないわ。
だとすると、アメリカにいる葛城梁の両親と連絡が取れれば詳しいことがわかるはずなの。
セリザワさん。なんとかなりますか?」
 視線で画用紙が焼き付くほど凝視していた彼が、声をかけられてはっと薫を見た。聞き逃して
いてもう一度繰り返す彼女。
「彼の両親がどこに住んでいるかはだいたいわかるんだが、具体的な住所は大学でも教えて
くれなかったし、あの調子ではハイスクールでも同じ機密保全措置が取られているはずだ。
うかつに尋ねたらCIAに通報されてしまう。CIAはリョウを追う過程で両親に接触しているはず
だし、発見されるまで厳重な監視に置かれているだろう。伯父まで捜索の手が回っているか
どうかはわからないけれど、安易に接触するのは危険だ。まだ彼らは彼の遺体を確認したのが
誰か調べていない。これは重大な手抜かりで、いずれ誰かが調べに来るだろう。伯父だという
ことを知れば、さらに要員を派遣して探し出そうとするだろうね。なにか調べる方法がないか
考えてみる。この件は僕に任せてくれ」
 そう彼はしめくくった。






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