室咲きのジャスミン <9>



 梢からの緊急電が札幌の各所に飛んだ。
 ターニャと同道していた由子とセリザワはタクシーで、葉野香は北海新報社から地下鉄で、
鮎はギグをしていたスタジオからギターを抱えて、集合場所になった春野家に駆け付けた。
 肝心の薫と梢が、「全員が揃ってから」と口を噤むなか、北海道では体験したことのない梅雨の
ようなべとついた空気が彼女たちを取り囲んでいた。

 到着が最後になった鮎がギターケースを琴梨の部屋に置き、戻ってきたところで薫は居住
まいを正して一人一人の顔をゆっくりと見まわした。
 ドライアイスの粉を吹き付けられたかのように硬直した表情が痛ましい共通項だった。
 自分もそうだとわかっている。
 かつてのように、自分たちがわだかまりなく笑える日はいつか取り戻せるのだろうか。

 彼女は風祭から聞いた「あの夜」の出来事を順を追って説明し始めた。
 これまでに集めたデータがひとつひとつ符合してゆき、全体像がぼやけながらも見えてきている。
これまで謎を産み出し続けていた源泉も。


 ロシア。


 そこに鍵があるはずだ。

 薫が語り終え、ふうっとため息をつくと釣られてその場のほぼ全員が同じことをした。誰も何も
言わない。壁の時計が秒針を震わせる。それを遮るのは、ただ9つの呼吸がリピートされる
音だけ。

 5分ほども過ぎて、ようやく春野陽子が感想を洩らす。
「とんでもない話だねぇ。とんでもなくよくできた嘘ってことも考えられるけど。葛城梁が撃たれて
たってことはターニャか現場にいた当事者しか知らないはずだから、まったくのでっちあげでは
ありえない。筋が通っているし、信じられない理由はないって思うね」
「そう思います。ニュースソースを確認はできませんが、これがあの夜の真実ですよ」
 慎重な薫ももう疑ってはいない。
「急に集まってもらったのは、私達の安全のこと。ここまでわかった以上、華北マフィアのことを
勘ぐるのはやめなくてはならないわ。葛城梁の仲間だと思われたら、莫大なお金も絡んでいるし、
本当に殺されかねない。もう調べる必要もあまりないし、このルートには手出ししないこと。
みんないい?」
 無言の頷きが帰ってきた。


 それぞれの瞼の裏に、映像が浮かぶ。

 人気のない夜の港。
 月明かりだけが闇と海と埠頭を判別させる。
 暗闇の中、出航準備を整える漁船。
 暴力団員の前に現れた葛城梁。
 急行してくる車。
 睨み合い。
 「その男は、5億分のドルを持っている」
 銃撃。
 逃亡。
 追跡。
 ターニャの部屋へたどり着く葛城。
 そして海を渡った葛城。

 なんのためなのか。

 隣に座る琴梨が取っていたメモを覗きながら由子が確認するように言う。
「彼を撃って、追っていたのは華北マフィアだった。CIAじゃなかった。陽子さんを狙ったのもそう
だった。でも、葛城梁が国内にいないとわかって、尾行もやめたのか。どうりで尾行者が見つから
なかったわけだ」
「そうね。これからも周囲には用心しなくてはならないけれど、一つでも危険要素が減るのは
助かるわ」
「これから必要なのは、調べるより考えることだね。もう必要な情報は集まってきたし」
 そう葉野香が口にすると、セリザワが首を振った。
「いや。まだ、リョウの遺体を、いや、マフィアのメンバーを彼の遺体だと言った人物のことが
残っている。これはまだ調べなくてはならないと僕は思う。いずれね。今はリョウのことに集中
しようか」

 また訪れた沈黙。
 それは僅かずつ形をとり、迷走をやめて滝壷へと注がれる。
 誰もが彼女のことを考えていた。
 聞かなければならない。
 どうしてか聞きたくない。
 年長の陽子も由子も薫も、躊躇いを押しのけられない。
 鮎や琴梨も、帰ってくる言葉をどう受けとめてよいのかわからなくて、誰かがやってくれるのを
願った。

「ターニャ」
「はい」
 まっすぐに見つめてくる左京葉野香の瞳。
 散る定めに従うだけの落葉に向けられるのに似た眼差しが双眸の奥にあった。
 そして同じものを葉野香も見ていた。
「彼がどうしてロシアに渡ったんだと思う?」

 葉野香は信じている。
 ターニャは葛城梁の行方など知らなかった。
 自分の故郷へ向かったなど考えてもいなかっただろう。
 彼女はこんな不潔な策謀とも穢れた金とも関係ない。
 彼女が最悪の犠牲者なのだ。
 しかし、彼女だけが持つ答えがある。
 ターニャの記憶には葛城梁の化石が残っているから。
「彼とロシアの話をしたことがあったでしょう? 彼はなにか言わなかった? どんなことでも
いいの。思い出して」
 きゅっと握られた両手が胸元で小刻みに震えていた。グリーンとブルーの狭間で静止した
瞬間だけがもたらしうる瞳の色もくすんで、顎を引いて俯く姿はいつか美術館で見た古い絵を
回想させる。
 教会で祈りを捧げる聖女・・・・・

 そうじゃ、ない。

 ぼやけた違う絵がターニャの姿にだぶった。

 祈りではない。

 許しを乞うている罪深き信者の肖像・・・・・

 瞬きとともにイメージは霧消する。

 どうして彼女にこんな連想をかさねなくちゃならないんだよ。
 自分の不合理さを苛立ち混じりに罵って遠ざける。

 全員が注視する中、ターニャの両手が糸の切れたマリオネットよりも無残に膝の上へと落ちた。

「梁・・・・・」
 彼女にそう呟かせたのは、どの思い出だろうか。
 わからない。
 彼女は職場の同僚といる時も彼だけが側にいる時も、あまり故郷のことを話題にしたくなかった。
辛く苦しいから。
 命に危険が及ぶ持病の発作より、遥かに。
 出会ったばかりの頃、尋ねられたことがある。
 家族のこと。
 生まれ育った街のこと。
 子供でいられた日々のこと。
 ターニャ・リピンスキーがターニャ・リピンスカヤであった12年間のことを。

 言葉にするたびに、良心が切り刻まれるように痛かった。
 ありったけの作り笑顔を被って、舞台女優のように答えた。
 父と母の思い出を。
 ナホトカの路地と広場のことを。
 戯れた風と砂浜と森と雪のことを。
 頷いて、いつか故郷に一緒に行こうと言った彼。
 叶わぬ夢だとわかっていても、嬉しかった。
 彼がそう願ってくれたことが、嬉しかったから。

 それが嘘だなんて、思いもしなかった。

 一度聞いてからは、滅多に彼はロシアでのことを話題にしようとしなかった。私が内心で
嫌がっていたのがわかったからだろう。

 そうだ。一度だけあった。
 父と母と私の写真を見つけた時だ。
「これが、両親?」
「そうです。私が5歳の時に」
 世界にもう一葉しか残っていないはずの、家族の写真。
 背後には湖と白樺の林とシベリアの空。
 ずっと大切にしていても夕暮れの色に褪せてゆくそれぞれの微笑が、ターニャと梁を見返して
いる。

 写真から目を離そうとしない彼のために、勝手に唇が動いていた。
「父はパーヴェル。パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・リピンスキー。母の名はエレアナ、です」
 聞かせてよいことではないのはわかっていた。本当のことだからこそ。軽く頷いただけの彼に、
その理由はわからないだろう。
 こころを預けたひとだから、話してしまった。
 話せて自分が、彼といる瞬間だけはありのままでいられるんだとわかった。

 彼は愛を教えてくれた。
 そしてもう一つ。
 振り返る事しかできない愛は脆く、灰が燃えても灰でしかないのだと。

 ターニャは顔を上げた。

 ここには私を護ろうとしてくれている人たちがいる。
 私もみんなを護りたい。
 護らなくてはならない。
 そうですよね。お父さん。お母さん。






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