室咲きのジャスミン <8>



 これまでの彼女たちの調査では、一度も見つけることのできなかった情報が風祭の口から
語られた。
 葛城梁の生存と、所在が。

 ターニャの部屋に血痕だけを残して去ってから、葛城梁は朦朧とした推測の世界の住人で
しかなかった。
 彼の渡っているであろう橋の昏さからすれば、どこかで何者かに捕らえられ殺されている
可能性は常にあった。
 だが、そうではなかった。

 それを喜ぶものは誰だろうか。喜ばないのは誰だろうか。

 わだかまっている疑問が浮上して、風祭の話を聞き逃しそうになる薫。意識して集中する。
「男は小樽から南海マフィア系列の漁船に乗りこみ、日本海に出たらしい。そして迎えに来て
いたロシアの船に乗り移ったようです」
「でも、迎えの船って」
 梢が問う。
「そう。男は本来、暴力団の船と接触するはずだった船に移乗したんです。男はランデブー
位置も連絡方法も知っていた。暴力団はトラブルで密航は中止になったと連絡したかもしれ
ないし、そこまで気が回らなかったかもしれない。現場にいた全員が札束を追っかけていた
そうですから。恐らく男は自分で無線機を持っていて、ロシアの船に直接連絡したんでしょう。
ロシア人にしてみれば、どんな船に乗ってこようと金さえ払えばそれでいい。いくらかは割増を
するでしょうがね。こうして、男はロシア入国を果たしたわけです」

 ふぅっと息を吐き、ゆっくりと首を振る風祭。
「たいした男ですな。この男は。
 最初に船を選ぶ時から、事がうまく運ばない場合をじっくりと考えていたに違いない。
わかりますか? 彼の考えが?」
 その口調はもう、梢と趣味の話で盛り上がっているときの彼のものではなく、かつて非合法な
世界で名を成したという残滓を色濃く残すものだった。

「華北マフィアが自分を追ってくることを知っていた。だから当然華北マフィア系の船には乗れない。
対立する南海マフィアの船になら確実に乗れる。しかし、最初から南海マフィアの船に乗ろうと
すれば、華北マフィアは南海マフィアの構成員もろとも抹殺しようと組織を上げて攻撃してくる。
そこで男は暴力団の船に乗ろうとしてみせた。このまま渡航できればそれでいいが、そうならな
かった場合、日本のヤクザが相手なら抗争の勃発を恐れて無闇に攻撃もできないし、まず引き
渡せと交渉し始めると読んだんですな。事態はまさにその通りになった」
 頷く梢と薫。
「彼はその場を逃れることで小樽からの渡航失敗を印象づけた。当然追跡が始まり連中が
街道を監視する。その裏をかいて、再び小樽港から南海マフィアの船に乗ったんですよ。
金を見せたのも暴力団が血眼になって探しまわるのを誘うためだったんでしょう。見事な手際
です。撃たれてしまったのは計算外でしょうが」
 素質がCIAによってなされた訓練で研ぎ澄まされ、葛城梁は高度な技量を備えた諜報工作
員となった。小樽の夜、あらゆる手段を講じて目的の達成に邁進する彼は不気味なまでに
有能であった。

「この話にはまだ続きがありましてな。華北マフィアの者どもは、当然男は事故で転落死した
ものと思っていた。ところが、それから半月程経って、男が五体満足でロシアに現れたという
情報が飛び込んできた。そしてようやく、事故で死んだのは裏切り者だと見なしていた身内、
鄭だとわかったわけです。組織の上層部から、なんとしても奴の居場所を探し出せと命令が
下り、若いのがいろいろ動いたようです。
 しかし、本人がロシアにいるのに日本で手掛かりを掴もうとしても無益だということで、もう
捜索は諦めたみたいです。もし帰国しているのを発見したらどんなことをしてでも捕らえろと
いう指令がまだ生きていますが」
「捕らえろ、ですか? 殺せではなく?」
 これまでの流れから、てっきり葛城梁は生命を狙われていると思っていた薫には意外だった。
「そうです。最初から華北マフィアは彼を捕らえようとしていました。金も第一の目的では
なかった。あくまで男を拘束しようとしていたのです。まぁ、連中に狙われて捕まったら殺される
のと同じ事ですが、生かして吐かせたい情報でもあったのでしょう」

 梢は内心で呟く。
 CIAの工作員だもん、いろんな秘密を知っていたはず。
 拷問して口を割らせようとしたんだろうな。

「男は、華北マフィアの構成員だったんですか?」
「違います。日本風に表現すれば、正式に杯を受けていないという意味ですがね。南海
マフィアの一員でもありません。日本の暴力団員でもないようです。どれだけの繋がりがあるの
かわかりませんが、彼らは男を仲間だとは見なしていませんね。どういう経歴の男かわかりま
せんが、並の精神の持ち主じゃありません。裏の世界の人間だとしても、これだけの才覚の
持ち主が札幌周辺にいたら私が知らないはずはない。ですが、何者かと問われればわから
ないと言うしかないですよ。私はね」
 最後の限定は、『あなたがたは知っているんでしょうがね』という意味を含んでいた。そう推知
しても敢えて無視する薫。
「ロシアに渡った男は、向こうで何をしているんです?」
「さて、それは皆目わかりません。なぜ密航したのかも。正規のルートで入国しなかったのは、
警察に指名手配を受けていたからかもしれませんが、多額の外国紙幣を持ち出すことが外国
為替法で禁じられているというだけの理由かもしれません。男が銃を持っていたかどうかは
まだ明らかではないですが、持っていたとすればこれも理由になりますな。
 ロシアのどこにいるか、正確には、華北マフィアが消息を知った場所ですが、そこは調べる
ことができるかもしれません。何をしているかを知るには、直接ロシアとの間にルートを持って
いないと無理でしょう。残念ながら私の耳もロシアまでは届かないんですよ。
 これで、今夜の話は終わりです」
 そう風祭が宣言したとき、車を停めてから2時間が経過していた。

 薫と梢は同じ夜を見ていた。

 夏が終わろうとする夜。
 ターニャ・リピンスキーとかつての恋人が最後に触れた夜。

 すべてが一致する。

 葛城梁は、ロシアへと渡ったのだ。

 その手はずを整えたのは、ターニャから別れを告げられた前後だろう。そして乗船しようとして
撃たれ、彼女の部屋へ難を避けてきた。
 この時に鞄は持っていなかったというから、華北マフィアの追っ手に奪われたか、どこかに
隠しておいたのだろう。

 そして追跡から逃れて、再び港へ向かい密出国。
 自らの身分を死によって喪失しても、彼はまるでそれが無価値なもののように顧慮することなく
国外へ逃亡した。

 彼の存在が確認されて驚いた華北マフィアが、春野陽子の誘拐を図る。彼の逃亡と仲間の
死について何か知っているものと邪推したのだろう。

 そういうことなのだ。

 まだわからないこともある。
 そもそもなぜ、華北マフィアは葛城梁を狙ったのか。
 持っていた金のせいなのか。
 450万ドルの現金などどうやって手にしたのか。
 死んだことになった事故は、彼が偽装したものなのか。
 なぜ堂々とロシアへ入国できなかったのか。
 ロシアでなにをしているのか。

 ロシア。
 ターニャの故郷。
 ここに意味はあるのか。
 なぜロシアなのだ。
 わからない。
 ターニャにわかるだろうか。


 考え込む二人をじっと見つめていた風祭が語りかける。
「しかしあなたがたは、この件を私に訊ねたのは賢明でしたよ。連中は仲間が一人死んだのに
男を逃したことでかなり苛立っている。上からは厳しい緘口令が敷かれていて、事件全体を知る
ものは極めて少ない。相手が新聞記者でも、この話に触れたら拷問の挙句に情報を洗いざらい
引き出して川に浮かべかねないほど警戒しています。気をつけてください」
「あなたは、大丈夫なのですか?」
 もうこの人物を敵だとは思えない。
 相手が誰でも容赦しないのなら彼だって例外ではないはずだ。
「ええ。それなりに身辺には気を配っていますし、彼らも私には手を出しません。理由がありま
してね」
「理由って?」
「それは、秘密ですよ」
 梢に悠然と微笑む。
 二人とも彼の正体がまだよくわからないが、マスコミも一切感知していない情報をこれほど
集めることができるのなら、裏の世界ではかなりの実力があるのだろう。

 それに、彼よりも心配すべきものがあった。
 梢は車に戻り、携帯のボタンを慌しく押した。
 薫は適当な場所で風祭を降ろすために車を発進させる。






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