室咲きのジャスミン <7>



 数日後、梢の携帯が鳴った。けあふりぃこと風祭からだった。

 至急、会って話がしたい。先日の美人も同席の上で、と。

 いつもの笑おうにもどこで笑うべきかわからないジョークもなく、手短かに時間と場所を指定
するだけの用件電話だった。都合を聞いてから連絡するということにして一旦切る。

「どうします? 薫さん」
「会うわ。でも、場所と時間はこちらで指定しないと危険ね」
「危険って?」
「・・・いろいろ可能性があるのよ。この間の場所で、時間も同じにして約束をしておいて、
それからね・・・」
 薫は細かい指示を出した。
「ラジャー」

 薫は待ち伏せを恐れた。
 まだ風祭が敵か味方かわからないし、味方であったとしても中国マフィアが口封じに動くかも
しれない。人数が集められれば周辺に見張りを置くこともできるが、風祭に仲間の顔を見られる
ことも避けたい。ここは前回と同様、梢と二人で会おう。何か起こるなら、犠牲は少ない方がいい。

 ありあわせでシンプルな策は、成功した。約束の時間直前に携帯で所在を尋ね、薫がレンタ
カーで風祭を拾ったのだ。梢は自分の車で後方を護る。

 しばらく郊外をぐるぐると走ってから、大型ショッピングセンターの駐車場でギアをニュートラルに
入れる薫。ここは来客用出入り口が4つに業務用の出口も2つある。いざという時のためにエン
ジンを切らずに、ハンドブレーキもかけない。
 風祭は意図を察していたのか、乗車してからここまで一言も喋らずに、サイドミラーに目を
やっていた。

 テールランプを寄せ合うように停車した梢は自動販売機で缶コーヒーを3本調達して、薫たちの
車の後部座席へと乗り込んだ。
「けあふりぃさんはいつものね。まだこれのシール集めてるんでしょ」
「何度送っても当たりませんのでね」
 缶に貼られたシールを集めて送るとグッズが当たるというキャンペーンに、いたくご執心の
風祭だった。
「か・・・じゃなくて山田さんは本格派なこれね」
 車内にプルトップを押し開ける音が響く。
「でさ、今日はどういう話なの?」
「面白いことがわかりましたので、ゆきちゃんさんたちに聞いてほしいと思いましてね。例の、
華北マフィアが追っていた男の話です。時間を割く価値はあるはずですよ」
「聞きましょう。ですが、私たちは報酬を払えませんよ」
 薫が釘を刺す。
「ははは。確かに私は金貸しですが、これは商売抜き。ボランティア活動ですよ。貴婦人への
騎士の奉仕と呼んでもいいですがね」
 また歯の浮くような台詞を、と呆れる梢に笑って見せてから、風祭は長い長い夜のことを話し
始めた。

「話は、小樽から始まります。2ヶ月ほど前、ある男が小樽に現れた。正確に言えば、小樽港。
船を捜していたんですな。買うわけではなく、釣りを楽しむのでもなく。どうやら密航が目的だった
らしい。目的地は、ロシアだと」

 小樽港にも利権があり、縄張りがある。日本の暴力団が漁船のいくつかを陰で所有し、密輸や
密漁に使っているのは警察も知っているし、地元の人間ならどの船と関り合いになっては
いけないかわきまえている。近年、勢力の伸張に伴い華北マフィアも南海マフィアも進出し、
不法入国者の受け入れや密輸に乗り出している。

 男は、後からの行動から推察するに、これらの事情も熟知していたらしい。その上で、日本の
暴力団が背後にいる船を選んだ。「俺を、ロシアへ運んでほしい」と。

 密航というのは、ただ日本の船に乗っていけばできるものではない。貨物船ならともかく漁船は
ロシアの港にはまず入港しないからだ。入港すれば検査も受けるし係留するだけで金を取られる。
機関の故障や時化避けでもなければ、余計な出費をわざわざ出したくはない。
それゆえ、金で日本の漁船をチャーターしてもそれで入国しようとすれば目立ってしまい露見
しやすい。
 だが貨物船は常に密輸を警戒されており、必ず官憲の立ち入り調査が行われる。
ロシアの役人は腐敗しきっており賄賂で誤魔化すのは簡単だが、時に硬骨漢も混ざっており、
抜き打ち的に厳重な船内捜索がなされることがある。
 時折しもシベリア情勢が不穏な匂いを漂わせ始めた頃。ロシア側との対立姿勢を強めていた
自由シベリアは国境警備をおざなりにはしなくなってきていた。

 最も確実な方法は、海上でロシア籍の船に乗り換えることだと暴力団も男もわかっていた。
もちろん、ロシアの船も犯罪組織の船だ。つまり、ロシアに船で密入国しようとしたら、ロシア
側の犯罪組織とも予め連絡を取っておかなくてはならない。
 男は、こういうことをちゃんとわきまえていた。しかし男自身にロシアとのコネクションがなかった。
そこで男は、暴力団にその連絡を依頼した。

 人一人を密入国させるのに、暴力団は一千万と吹っかけたらしい。ロシア側に500万、自分
達に500万と。相手が逃亡中の犯罪者だとでも思って足元を見たのだ。しかし男は無造作に
アタッシュケースから100万の札束を5束放り投げて、「前金だ」と言ってのけた。その時、
アタッシュケースにはもっと多額の現金、それも米ドル札が入っていたという。

 暴力団は仕事を受けたが、どうにかしてもっと金を取りたかった。男が渡航のときにそれだけの
現金を持ってきたら、海上でぶち殺して魚の餌にするつもりだったのは間違いない。それでも
彼らはロシアに連絡して、受け入れる船を用意させた。男はどういう船に、どうやって乗り換え
るか。どういう合図で連絡するのか。無線の周波数。ランデブー地点の正確な位置。向こうの
船長の名前まで予め連絡することを要求したので、適当にでっちあげることもできなかったのだ。
 暴力団しては、前金の500万は半額を先にロシア側へ渡さなくてはならない。残りは男が
ロシアに上陸してからロシア側に支払い、そこから半額が日本へ送られてくる。男が現金を
持たずに乗船して、ロシアの銀行から金を引き出して払うつもりであれば殺すわけにはいかない。
乗るはずの男が死んだからといって、じゃあ分け前はいらないよとロシア人が言うはずもない
からだ。
 まっとうな裏稼業として、男をきちんとロシアの船に乗せれば儲かる仕事を、ふいにすることは
なかった。

 そして渡航の夜。
 男は大きなボストンバッグを持って深夜の小樽港に現れた。
 さぁ乗船、というところで妨害が入った。
 華北マフィアの構成員である。

 目的は密航しようとしていた男。
 拳銃を手に、男を渡せという華北マフィア。
 ふざけるな、こいつは俺達のシノギだと突っぱねる暴力団。
 もちろん暴力団も武装してました。
 距離を置いて睨み合いになる。
 とにかく船に乗せてしまえばこちらのものと、男を急いで埠頭に向かわせようとした時に、華北
マフィアからこう声がかかった。
「そいつは5億分のドルを持ってるんだ!」と。

 5億円分のドル。今のレートだと450万ドル相当。俄かには信じがたい額だが、確かに男は
大きなボストンバッグを重そうに抱えていた。前金を払った時のこともある。暴力団の組員の
一人が、拳銃を突き付けて鞄の中身を見せろと迫った。
 渋々ながら男が応じてファスナーを開けると、確かにドル札が詰まっていた。組員全員の目が
札束に留まった瞬間、男は手近な組員を殴り飛ばし、拳銃を奪ってその場から逃げ出そうとした。

 とても荷物を抱えているとは思えない身のこなしで、船に乗せるより殺してしまったほうが
儲かると心変わりした暴力団と、事態を把握した華北マフィアからの銃弾をかわして、撃ち返し
ながら逃げた。

 そこからは追跡劇。
 華北マフィアも暴力団も血眼になって夜の小樽を捜しまわったらしい。
 結局暴力団は見つけることができなかった。
 運に恵まれたのは華北マフィアで、二人組が一旦は男を確保したという連絡が入ったのだが、
そこからが風祭にもまだよくわからないという。


 椎名薫も里中梢も、空になりかけたコーヒー缶を両手で握りながら周辺を警戒することも
忘れて話に聞き入っていた。黄昏は夜の帳に主役を譲り、煌煌とライトアップされてショッピング
センターから届く光が車のボンネットを照らす。

「男に一発銃弾を撃ち込んで、一度は見失ったが捕まえた、そう連絡があったのですが、それ
まで。翌朝、二人組の一人は後頭部をしたたかに殴られ、ひどい脳震盪状態で公園に横た
わっているところを仲間に発見された。もう一人は行方不明のままです。華北マフィアは、この
相棒、鄭(テイ)と言うらしいですが、こいつが男の金を奪って姿をくらましたと思っていたよう
です。それで、この裏切り者を探し出せということになったんですな」

 薫は目を閉じた。
 ターニャの話と完全に符合する。
 葛城梁は撃たれたが、追っ手から逃れようと彼女の部屋のドアを叩いたのだ。
 そして出て行って・・・・・。
「撃たれた男はどうなったんです?」
「死んだ、ということになってました」
「ました?」
「ええ。その男は、憶えていますかな? 夏にあった高速道路からの落下事故。あれで死んだ
男なんです。推測ですが、男は捕まった時に金を差し出して命だけは助けてもらったんでしょう。
ところが直後に事故で死んでしまったと。撃たれた腕で無茶な運転をしたんではないですかな」
 一瞬だけ、風祭は探るような視線を薫に向けた。
 真鍮の仮面で対抗する彼女。
「・・・とまあ、こう思われていたんですが、話は終わっていなかったらしい」
 言葉を切り、車の外で聞き耳を立てているような存在を探してから風祭は言った・
「その男が、生きてロシアに渡っていたらしい」と。






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