室咲きのジャスミン <6>



 暇で従業員同士のお喋りに興じているウェイトレスを呼び、コーヒーの追加を風祭が頼んだ。
いささか煮詰まって酸味の出ているコーヒーで喉を休め、真剣そのものに聞き入っていた二人
にも勧める。

「では、概略をわかっていただいたところで、最近のことをお話ししましょう。ですが、その前に、
どういうことが知りたいのかを教えてもらえませんかな。まず、いつから今までのことなのか」
「ここ2ヶ月の間、です」と薫が即答する。
「ふむ。それで、彼らのどういう活動を?」
「非経済的な面ですね。彼らの資金源などに興味はありません。ここ最近の間に、不自然と
いうか、通常と違う動きがあったかどうか、あったのなら、それはどういうものか、そういうことを
知りたいんです」
「ふぅむ。もっと詳しくなりませんかな」
「こちらが話せるのはここまでです」

 宙に視線を巡らせ、記憶を手繰る。
 いくつかの動きがあったのは知っているが・・・。
「ここ2ヶ月となると、ああ、特に妙なことが一件ありましたな。華北マフィアが、人を捜していたん
ですよ」
 無理をして驚きを隠した薫だったが、梢は身を乗り出して「人を? どんな?」と迫った。
「かなり秘匿されている話なので、私も断片的にしか知らないのですがね。彼らの組織の中で、
消えた男がいたようなのです。莫大な金が絡んでいるとも聞きます」

 目を見合わせる薫と梢。
 消えた男。
 まさか。

「もっと詳しくお願いします」
「もともとは南海マフィアとの揉め事が端緒のようですな。一ヶ月ほど前のことです。発砲もあった
らしい。その結果、一人の男が金とともに消えた。そして男を華北マフィアが追っていたと。
大々的に人相書きを回すようなことはしなかったですな。何人かが大班の直接命令で動いて
いたようです。
 ああ、大班(ターパン)というのは彼らの頭目です。
 命令の内容はわかりませんが、見つけ次第殺せというわけではなかったようです。目立った
事件になることを恐れていたようでね」
「その、消えた男については? どんな男なのか。年齢とか、外見とか」
「20代後半としかわかりませんね。南海マフィアの構成員ではないはずです。仲間が追われて
いたら彼らも黙っていませんが、この件については既に手を引いているらしいですから」
「じゃ、華北マフィアの一人だと?」
「と、私は思いますよ。ありがちな話だとすれば、組織の金を持ち逃げした男というストーリー
ですな。とはいえ、この話は未確認な部分が多い。これでも私は情報通なんですが、これほどに
伝わってこない話は珍しい。触らぬ神になんとやらで、こちらから探りはしませんでしたがね」

 どこに組み合わせたらいいのかわからない、
 大きなパズルピースがまた出てきた。
 葛城梁と関係があるにしても、ある程度の筋道をつけなければこれ以上尋ねても混乱する
だけだろう。薫は切り上げることにした。
「最後に、ひとつ聞きます。華北でも南海でも、彼らが日本人を誘拐するのはありえますか?」
「相手が同業者、つまりヤクザならその程度のことはやりますよ」
 あっさりと頷く風祭。
「では、無辜の一般市民なら? 仮に40代の女性なら?」
「資産家ですか?」
「いいえ」確認してはいないが、春野家は中流家庭だろう。
「なら、まずやりません。そもそも営利誘拐など成功するはずもないし、人身売買の対象としては、
失礼ながら年齢が高すぎる。子供は売れますがね。わいせつ目的でも同じですな。そもそも
下部の構成員がそんな計画を立てても、上が許可しません。日本の警察の尻を蹴飛ばすような
ものです。もっと楽で利益の確実な仕事はいくらでもありますからな」
「それでもやる場合は?」
「上に何かの目的があって、構成員に命令した場合ですね。それならありえます。ですが、
日本の警察はヤクザよりも外国人マフィアに厳しい。露見した場合のリスクを考えれば、よほど
重大なことでなければ、させないことですよ」

 重大なこととはなんだろう。

「わかりました。これからいろいろ考えてみます。また、お尋ねしたい時に連絡を差し上げても
よろしいですか?」
「美人からの誘いは、いつだってお受けしますよ」



 翌日、薫は事情を知る葉野香・由子・ターニャを集めた。梢は都合が悪く欠席になったが。
「・・・というわけ」
 頭に叩き込んだ風祭からの情報を伝えきるまでに1時間近くかかった。
「じゃ、葛城梁が華北マフィアの一員で、金を持ち逃げしたってこと?」
「CIAでマフィア? わけわかんないよ」
 葉野香も由子も半ば呆れ顔である。
 どうしてこんなに葛城梁というのは謎を作り出すのか。

「時期的にも状況から言っても、葛城梁が関係しているのは間違いないと思う。偶然にしては
一致しすぎているし」
 そう言う薫も、それ以上の説明はできていない。
 次々と仮説が出た。
「葛城梁がCIAを裏切って、華北マフィアに入った。そうすると、反逆罪で追われてることに筋が
通るのかな」
「そのけあふりぃさんの言う通りだとすると、華北マフィアは中国政府に近いわけでしょ。なら、
そこを通じてCIAの機密情報を流した、売ったという可能性があるよね」
「でもそれだと、お金の持ち逃げには繋がらないんじゃない? 報酬は貰うだろうけど、組織の
お金を預かったりはしなそうじゃない。持ち逃げなら本当に組織の一員じゃなけりゃできない
でしょ」
「そうだよねぇ。じゃ、CIAとしての身分を隠して潜入していたって線は?彼らの秘密を暴くために
入り込んだけれど、お金に目が眩んだとか」

 活発な論議をターニャは黙って聞いている。もう絶望を通り過ぎ、老いて諦念の境地に片足を
踏み入れてしまったかのよう。

 可能性が出尽くし、葉野香が言う。
「あ、えーと、薫さん、やっぱりこの件はみんなに話さないといけないんじゃないですか? 私達
だけじゃ持て余してしまいそうです」
「そうね。次に会う時に私が説明するわ」



 週末に、セリザワが泊まるホテルの会議室を再び使うことになっていた。全員が集まってから
薫は、梢の紹介でとある男性と会ったことを話した。
「事後報告になってしまったのは、私の独断なの。相手がヤクザに近いようだから、みんなに
知らせないで私だけが接触したほうがいいと思ったから。ごめんなさい」

 彼女の本心を知らずに琴梨が「そんなこといいですよ」と真顔で手を振る。できるなら一生
ヤクザになど会いたくないと思う普通の女性にしみれば、危険な接触を自ら引き受けてくれた
ことを感謝したいぐらいだ。
 事の経緯を知っている葉野香も薫がこの件を伏せようとしていた理由までは聞いていないし、
気にもしていなかった。
 今の課題は中国マフィアと葛城梁の関係だ。

 じっとテーブルの木目を凝視してセリザワがうめく。
「行方不明の男と大金か・・・」
「葛城梁がそれを持ち逃げしたって、そうなるのかなぁ」
 鮎も最初に思いつく仮説を口にする。
 梢が尋ねる。
「ターニャ、葛城梁ってどういうお金の遣い方してた?」
「遣い方、ですか?」
「ぱーっと遣う? それとも倹約する?」
 暫し回想するターニャ。
「あまり遣わない方だと思います。飾らない人でしたし、高いものを欲しがることもありません
でした。でも、会っている時にはいつも彼が出してくれました。食事しても、映画に行っても。
私が出そうとしても、『これぐらいの余裕はあるから』って」
「普通の金銭感覚ってやつだね。借金でもしてれば止むに止まれずとかいう事情があるのか
なって思ったけど」
「事情?」と由子。
「借金を背負い込んでしまってさ、どうしてもお金が必要で、どうせ犯罪組織のお金だと思って
持ち逃げしたとか。マフィアに関わったのもそこからお金を借りてしまったからだとか、そういう
事情があるかなーって」
「違うな」
 梢の説を一蹴したのはセリザワだった。
「リョウの実家は裕福らしいし、CIAの給料だって僕のいる国務省よりずっといいはずだ。危険で
特殊な任務だからね。国を裏切るぐらいなら、実家に頼んででもお金を工面したはずだし、僕
にも相談するはずだ。彼がお金に困っていたとは考えにくいね。それに」
 一旦言葉を切り。全員を見渡す。
「その、シイナさんが聞いてきた、金を持ち逃げして行方不明の男は彼じゃないよ」

 数秒ほど、彼女たちの唇は「え」という発音のまま硬直した。
「どうして?タイミングも状況もぴったり符合するんだよ」
「薫さんの聞いてきた話が出鱈目って事?」
 次々に飛ぶ反対を両手で制して、彼は言った。
「そういう男がもう一人いる。車の中で死んだ男だ」

「あっ!」

 当初葛城梁と思われていた、高速道路の死者。未だに彼の身元はわかっていないままだ。
この人物も20代後半で、まさに問題になった時期から行方不明になっているはずだ。
「ええと、じゃ、この件に葛城梁は関係ないの?」
「そうじゃないと思う。銃撃戦があったというのだから、時期的な事を考えれば彼も関わって
いそうだ。でも、彼がチャイカムの手先になるなんて考えられない。持ち逃げの対象になった
お金も、犯罪組織のお金ではなく彼の持っていたお金かもしれない。彼個人のものではなく、
エージェンシーのね。CIAに追われることになった原因が、そのあたりにあるのかもしれない。
もっと詳しく、その夜に起こったことを調べないといけないね」
 誰もが忘れかけていた死者を鋭く指摘したセリザワに琴梨や鮎などは尊敬の眼差しを送る。

「薫さん、その人はもっと調べられないの?」と陽子。
「それには、こちらがなにかを与えないと無理でしょうね。お金や、情報を」
「そんなことしなくても、やってくれると思うけどなぁ」
 まだ梢にとって風祭は便利なけあふりぃさんでしかない。
「これ以上、ああいう人に借りを作るわけにはいかないわ。見返りにどんなことを要求されるか
わからないもの。手持ちの情報を渡すのも危ないし。敵方にこちらの情報を売られたらまた
襲われるわよ。こちらがこれほど掴んでいるとわかったら、放置しておかないはずだから」

 薫と由子は誰にも気付かれないように目配せを交わす。
 これからどんな些細な兆候も見落としてはいけない。






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