室咲きのジャスミン <5>



 この日の夜、椎名薫は里中梢に連れられてとあるファミリーレストランを訪れた。
 けあふりぃなる人物と会うためだ。
「この店。きっと、もう来て待ってるから」

 元にしろ、暴力団関係者と会うとなれば薫もいささか気が引ける。普通のおじさんだと梢は
言うが、この子の普通もいささか危なっかしいように感じられる。
 大学病院にいた頃、診察しようと服を脱いでもらったら極彩色の悪趣味な刺青がでかでかと
描かれていたこともあった。無視して触診していると、「これのせいで、冬は寒くてなぁ」と
こぼされたのを憶えている。皮膚を削っているのだから当然の帰結だ。
 監察医としてもヤクザ同士の喧嘩で刺された男性を扱ったりしたが、彼女の元へ送られてくる
時には寒天でできたハンマーほどに無害なものなのでどうということもなかった。

 変に絡むような人でなければいいけれど。この件が終わってからもつきまとわられたりしたら
厄介だ。
 とはいえ、情報のためにはこちらのこともある程度は話さざるを得ない。自分以外のメンバーの
ためにも、微妙な交渉の舵取りが必要とされる。百戦錬磨の金貸しなら、心理戦や駆け引きにも
長けているに違いない。
 冷静に、控えめに、そして毅然と。
 それが肝要だろう。

 こうして戦場へ赴く兵士のように精神を研ぎ澄ました薫が引き合わされたのは、こざっぱりした
スーツ姿の中年男性だった。
「はじめまして。風祭和正です」
 そう自己紹介した通称けあふりぃ氏は、笑顔で二人に席を勧めた。

 平日の夜ということで空いていることもあり、隣接するテーブルはどれもメニューが虚しく置か
れているだけだった。それを期待して、広いだけで味もサービスも並以下の零細レストランを
面会場所として選んだのは薫だった。

「忙しかった?勝手に時間も場所も決めちゃったけど」
「いえいえ。ゆきちゃんさんの呼び出しならいつでもどこでも馳せ参じますよ。今夜は仕事ももう
切り上げてありますから、ゆっくりできますしね」
「そのかわりに青木君が残業してるってこと?」
「偶然そうなりましたね。彼が聞けば、さぞこの機会を逃したことを口惜しがるでしょうが」
「ちゃんと仕事してる?」
「してなければクビにしてますよ。最近は角も取れてきて成績も上げてますから、いい方向に
向かっていると思いますね」
 いささか安っぽい香りのコーヒーが運ばれてくるまで、梢と風祭は他愛のない話に興じていた。
そんな彼の姿を、無関心を装いながら監察する薫。さほど裏表のあるようには感じられないけど、
油断は禁物ねなどと自分に言い聞かせながら。

 やり取りが途切れたのを見計い、風祭が薫に向き直る。
「しかし今日の用件は彼がいては話しずらいようでしたね。電話では。私に、どういう用向きです?
そうそう、お名前は聞かせてもらえないんですかな?」
 深く一礼して詫びる薫。
「失礼とは存じています。ですが、いろいろと事情がありまして私の名前は聞かないでいただき
たいんです」
「・・・なぜ偽名を名乗らないんですかな? 鈴木花子でも山田桃子でも」
「嘘をつくつもりはないからです」
 きっぱりとした口調に感心したのか、風祭は何度も頷く。
「なるほど、偽名を使うぐらいなら名前がない方がいいと。あなたなりの誠意というわけですな。
いいでしょう。私も知りたい気持ちを押さえることにします。美人に会ったら名前と電話番号を
聞くのが信条なんですがね」
「よくさらっと言えるねぇ。そんなセリフ」と呆れた梢。
「それが男の年輪というものですよ。さて、名前はともかく、何か呼び名がないと話がしにくい。
里中さんの友達ですから山田さんでよろしいかな?」
「うわ、ベタっ!」
 梢の激しいツッコミが入る。
「じゃ、どんなのがいいです?」
「えーっとね・・・」
 じろじろと隣の薫を上から下まで見て何を連想したのか、「マチルダとか良くない?」などと
言い出す梢。
「山田でいいです」
 きっぱりと薫は言い切った。

 いつまでもこんな話をしているわけにもいかないと、3人は本題へ入る。
 ゆっくり言葉を選びながら、薫が話す。
「実はですね、私が少し困ったことと関わってしまいましてね。それで、その問題解決のために、
あなたの知識をお借りしたいと、そういうことなんです。
 あまりその問題のことは詳しく話せません。そちらにご迷惑がかかるかもしれませんので。
勝手とは思いますが、よろしいですか?」
 腕を組んで、「続けてください」と風祭。
「お聞きしたいのは、この近郊、札幌を中心とした道東地域における、チャイニーズマフィアに
ついてです。彼らの勢力や能力、最近の動向などについてご存知のことを教えていただきたいと
思っています」
「ほう」
「・・・理由をお尋ねにならないんですの?」
「話したいのなら、喜んで聞きますよ」
「止めておきます。それで、風祭さんはこういうことに知識があるとのことですが、教えていただけ
ますか」

 時計の秒針が一回転するほども、彼は無反応だった。急かそうとする梢を制する薫。やがて
コーヒーをすすり、「不味いコーヒーですな」と嘆いた。
「もうお聞きになっているでしょうが、私は今でこそまっとうな会社経営者ですが、かつては
代紋のある組織を背負っていた男です。もちろんそういった知識もある。
 だからこそ、最初に言っておきます。
 裏の世界というのは、恐ろしいところです。あなたのようなまっとうな方が知るべきことでは
ありませんよ。あなたは弁護士? 医師? そんなところでしょう。
 手を引きなさい。
 一本のワインを代償に、きれいさっぱり忘れることです。それだって勇敢なことですよ」
 穏やかな表情にそぐわない猛禽のような眼力にぴたりと職業を言い当てられ、二人とも動揺を
隠しきれない。役者の違いを感じざるを得なかった。
 しかし、ここで諦められない事情もある。
「心からの忠告に感謝します。でも、私は引き下がるつもりはありません。別に彼らと事を構え
ようと思っているわけでもりません。ただ、知る必要があるだけなんです」

 困ったものだと表情で呟く風祭。
「わかりました。では、お話ししましょう」

 そうして風祭は、様々なルートを経由して収集された裏社会の情報を説明し始めた。

 葉野香の調べにあったように、かつては小規模だった中国人犯罪組織は抗争を経て南海
マフィアと華北マフィアの2つに統合された。密入国者が構成員の主流であったため、福建省や
広東省といった地理的に便利な大供給地を背後に持つ南海マフィアは人員に不足することは
なく、資金も繁栄する香港との繋がりもあって豊富であった。

 一方華北マフィアは常に圧倒されており、構成員が道で南海マフィアとばったり出会えば避
けて歩かなければならない程度の実力しかなかった。

 ところが香港返還以降そのパワーバランスは逆転し、現在では肩で風を切って歩くのは華北
マフィアである。

 返還によって香港の衰退が始まったことも原因の一つだが、風祭などには別の理由も聞こえて
くる。
 中国政府の意向だ。


 政府とマフィアというのは。どこの国でもねじれた関係にある。
 政府は警察力を用いて彼らを取り締まり、マフィアは法網を潜り、時には破り、利益を上げる。
その意味では両者は敵である。しかし力関係でいえば、いかにマフィアが隆盛を誇ろうとも
完全に政府を敵に回してしまえば待っているのは壊滅だけだ。主権国家の持つ組織能力と
いうのは、それがたとえ小国であっても、犯罪組織などでは太刀打ちできないものなのである。
 かつて麻薬ビジネスで膨大な資金を手中にした南米コロンビアのメデジン・カルテルは、麻薬
産業撲滅を旗印にした大統領候補を暗殺し国家権力を牛耳ろうとした。激怒した政府は
カルテルとの対決を宣言し、警察に加え正規軍すらも投入してカルテルの掃討を図った。
カルテル側も爆弾テロや暗殺、脅迫といった非道な手段を無遠慮に駆使して徹底抗戦を叫んだ。
 おびただしい流血の結果は、コロンビア政府の判定勝ちと呼べるものだった。
 当時のコロンビア政府も警察も軍も、コカの葉が産み出す汚い金で賄賂・汚職がはびこる腐敗
した政府であったが、それでもマフィアの頭目を次々と逮捕し、カルテルに白旗を掲げさせた
のだ。

 政府が本気になれば、徹底的な弾圧によって犯罪組織を壊滅させることができる。しかし、
現実にはどこの国にも犯罪組織が公然と存在している。
 その理由は二つ。
 一つには、犯罪者をゼロにするなどということが不可能である以上、彼らの受け皿を社会が
必要としているという現実がある。ヤクザとしてしか生きていけない人間もいるわけで、暴力団の
シノギと呼ばれる非合法すれすれの仕事からも彼らを駆逐すれば、より短絡的な犯罪に走る
だけになる。組織の枠が犯罪予備軍たる彼らに法律とは別のルールを組み込んで統率する
ことで、秩序の確立に貢献しているというわけだ。

 もう一つは、彼らの利用価値である。
 市民社会に寄生する犯罪組織は、市民がその存在を許容しない限り存立しえない。相互に
利用し合う関係があってこその寄生なのだ。市民レベルでも交通事故の示談交渉や不動産の
明け渡し問題に組関係者が依頼されて出張ってくることは珍しくない。
 相互依存。
 これは権力の頂点であっても同じことなのだ。

 マフィアが権力者に政治資金を供給し、権力者がマフィアに便宜を図る。
 権力者が汚れ仕事をマフィアに依頼し、マフィアは代償に金や情報を求める。
 日本でも総理大臣候補が右翼団体の嫌がらせに悩み、暴力団を使って止めさせようとした
などという報道がなされたことがある。アメリカのニューヨーク・コネクションやフランスのユニオン・
コルスといった有名どころは、すべて連綿と政府との緊密な繋がりを持ち続けていて、権力者は
彼らと共存共栄するメリットを忘れはしない。
 国家とマフィアは敵だが、権力者とマフィアは必ずしもそうではないのだ。

 中国であっても、である。

 中国は複合国家である。中国人民15億の主流は漢民族だが、分類方法によっては何十もの
民族が混在していると言える。漢民族も、長江の北部と南部では言語も生活習慣もまるで違う。
一人称でから、北部の北京語では「我(ウォー)」だが南部の広東語では「儂(ノン)」となる。
北海道におけるマフィアが二極分化した原因でもあるわけだが、気質の面でも両者には差異が
大きい。

 南部は反政府的、北部は親政府的なのだ。

 中国共産党の指導部は毛沢東以来、湖南を中心とした南部出身者が主流派を形成してきた。
しかし建国から半世紀。文化大革命などの激しい権力闘争が行われ、革命世代の元勲、
ケ小平の死後は権力の比重が北部出身者に移ってきている。

 様々な理由があり、いくつかを列挙するとこうなる。

 歴史的に北部の人間は政治力、換言すれば組織力・軍事力に優れ、南部の人間は経済
感覚に優れているとされる。隋唐の時代より、中国全体の経済を担ってきたのは現在の上海や
杭州のある地域であった。しかし中国が分裂した時、それを統一するのはいつも北部の国家
なのだ。

 首都が北京にあるという地理的なものもある。南部の人間にとっては感覚的にも物理的にも
遠すぎるのだ。直接の関係に乏しく忠誠心の対象となりにくい。

 飛躍的な経済発展を遂げている中国だが、繁栄しているのはやはり南方の沿岸地域ばかり
である。ケ小平時代はここが彼の地盤であり、南方人もその恩恵をたっぷりと享受できていたの
だが、現指導部になってからは吸い上げた利益が北部にばかり還元されているようにも受け
取られている。資本主義の導入によって富裕になった階層にしてみれば、いつまでも共産主義に
しがみつく指導部を支持するイデオロギー的理由もない。自然と反政府的感情が醸成されてゆく。

 一方政権側としては、反政府的な南海マフィアを牽制する意味でも華北マフィアをより厚遇し、
取り締まりを緩め、利益になる情報を流す。その代償に政府の意向に沿った活動をしなくては
ならないが、得られる利益はその制約を超えて遥かに大きいのだ。

 この図式は中国本土でも海外のチャイニーズ・マフィアでも同じである。華北マアィアのドンは
中国指導部に極めて近く、その意向は構成員にとっては絶対なのだ。

「ここまでは、わかりましたかな」






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