室咲きのジャスミン <4>



 次の会合は、外せない用事のある川原鮎と春野琴梨、それに疲労の蓄積が心配された
ターニャを欠く形で行われた。場所はセリザワの宿泊しているホテルの会議室。宿泊者は
無料で使用できるとのことで選ばれた。ターニャを独りにしておくのは不安があり、話し合いの
間はセリザワの部屋で休ませることになった。

 会議室は大きなホワイトボードやパソコンと連動したモニターまで用意されていて、サービスの
良いことにコーヒーまでふんだんに提供してくれる。情報漏れを防ぐために梢のノートパソコンを
接続したりはしないが、コーヒーはありがたく味わう。

 まず葉野香が立ちあがり、中国系マフィアについて知り得たことを解説する。日本のヤクザ
よりも暴力的な傾向があるというくだりには、春野陽子の表情が曇った。ターニャたちも前に
聞いた時に同じ表情をしていたのだ。自分を襲った相手のことだけに、手口の荒っぼさを思い
出して納得がいった。

 話せる情報を話し尽くした葉野香が手帳を閉じて着席しても、すぐに呼応して議論が始まると
いうことはなかった。
 無理もない。
 法秩序を平然と無視し、刑務所に入ることを勲章として誇るような暴力集団が自分達の敵
かもしれないのだ。メディアからは外国人による犯罪の増加と警官にすら刃物や銃を向ける
兇暴さが伝えられている。日本のヤクザが決して警察に歯向かわずに共存を図っているのとは
対照的である。

 いつまでもためらってはいられないと思ったのか、セリザワが口火を切った。
「そこから、どうやって調べるかだね。リョウと中国人がどこで関係するのか、なんとしても解明
しなくてはならない。任務で必要だったのか、それとも個人として関係していたのか」
「CIAと中国マフィアというのは関係があるの?」と葉野香とセリザワを交互に見ながら問うた
のは由子だった。
「そこまでは、私聞けなかったよ。本物の記者だから、逆に怪しまれちゃうし」
「あまりない、と思う。本来なら。CIAは秘密情報機関だから、時には目的のために犯罪者の
持つ力を利用することもあるだろうけど、アメリカと中国の関係は良くないからね。どちらも
リョウを狙っているようだけど、協力するなんてことは考えられない。奪い合うことになるん
だろうな」
 珍しく憮然として腕を組むセリザワ。葛城梁へと近づくための障害が厳しいものだと思えば
いつもの朗らかさも影を潜めてしまう。ゆっくりと日本語を操り、混線しそうな糸をほぐそうと
精密な頭脳を働かせている姿は官僚というより推理小説に出てくる若き探偵を思わせる。
絵に描いたような美男子ではないところも小説にありがちな設定に似ていると薫などは思った。
「彼の任務がはっきりしないが、スパイとしての必要があって接触することもあるだろう。それが
知られれば襲われる理由になるけれど、リピンスキーさんにさえ正体を隠し通してきたリョウが
簡単に見抜かれるとも思えない。
 それに中国人だって、ただCIAだからって襲ってきたりはしないはずだ。聞いたことがある
けれど、昔ヨーロッパでCIAの幹部が酒場の喧嘩に巻き込まれて死んだことがあるらしい。
殺してしまったのは、ええと、日本でいえば、ごろつき、そう、ごろつきだ。別にどこかのスパイ
だったわけじゃない男で、相手が誰かも知らなかったのにCIAは殺し屋を差し向けたらしい。
CIAはそれぐらい復讐には熱心だから、その一員だとわかってて彼を撃ったのが中国マフィア
なら、殺してしまおうと思うほど怒らせて敵対したということになる。ただのトラブルじゃない
はずだ」
「大きなトラブルなら、新聞に載ったりするんじゃないの?」と梢。薫が答える。
「それはどうかしら。春野さんが誘拐されても私たちは表に出ないようにできたんだから、
マフィアにそういうことができないとは思えないわね」

 それからは葛城梁と中国人マフィアとの関連について様々な可能性が論議されたが、憶測を
証明するための方法については具体案は出てこなかった。前回の話し合いで決めた、マフィア
側に調べられているとわかるような手段は一切取らずに調査をするという困難な方針が再確認
されたに留まった。

 続いて取り上げられたのは葛城梁の自称叔父、白髪の男性。こちらも負けず劣らず探索が
困難である。
「その辺歩いてて、白髪の人見つける度に追いかけるわけにはいかないからねぇ」という陽子の
嘆きがこぼれる。
「まずはあのアパートから当たるのがいいんじゃないかな。葛城梁の住所になってたアパート。
あそこを知っている人なんだから、近くの人が見かけたりしてるかも」
 そう提案する由子。有力とまではいかないが、確かに可能性はある。
「その前に、この中で、絵の巧い人っていないかしら?」

 唐突な薫の問いかけにきょとんとする葉野香。
「絵、ですか?」
「そう。うちの先生が顔を見ているから、似顔絵を描いてもらおうと思って。もう一月以上前の
ことだから精密には覚えてないかもしれないけど、駄目モトでね」
 それはいい手だと誰もが思ったが、描き手がいるだろうか。
「こうやって聞くぐらいだから、私は下手なの。どうかしら。自信ある人いる?」
 由子が指先で頭を掻く。
「私は不器用でさ、絵って全然できないんだ」
 葉野香も陽子も首を振り、セリザワは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「ふふ〜ん。ここは私の腕の見せ所かなぁ」
 一人だけ、かなり得意げに応じたのは里中梢だった。
「梢ちゃん、できる?」
「ま、ちょっとはね。授業中、ヒマだと先生の似顔絵とかちょこちょこってノートに描いてたし」
「じゃ、明日にでもお願いするわ」
「お任せぇ」
「じゃ、それが出来たら私がアパートの周辺に聞き込みに行くよ。場所わかってるし」
 葉野香が自薦すると、セリザワが続いた。
「僕も行こう。そのアパートも見てみたいし」
 これで、次の方針がやっと一つ立ったことになる。

「さて、それじゃ次。スティーブ、わかったことがあればお願い」
 由子に促されてセリザワが席を立つ。
「リョウは、アメリカ国内にはいないと思われているようだ。友達に聞いたんだが、CIAは最初に
訊問に来てからそれっきり電話もないらしい。国内に潜伏している可能性があるなら何らかの
動きがあるだろうから、この線は薄いと僕は思う」
「じゃ、日本にいるってことだよね。死んだことになったまま外国には行けないし」
 葉野香の判断に、彼は首を振った。
「そうとも限らない。彼は非合法工作員なんだから、CIAは万一のために偽名のパスポート
ぐらい用意しておいたはずだ。日本の警察や、なんて言うんだ? Passport controlerを」
「出入国管理官?」
 さっと翻訳する由子。
「そう。それだ。そういう人たちには堂々としていられるから、航空券を買って出国することは
可能だろう。ただ、アメリカに入国はできないはずだ。CIAが全米の空港と港にパスポートの
名前と顔を送っているはずだからね」
「CIAから逃げで外国に高飛びしたかもしれないってことか」
「じゃ全然絞れないじゃん」
「残念ながら、そうなる。しかし、そうとも言えない面もある。逃亡者は馴染みのある場所へ
行きたがるものだ。だから、リピンスキーさんに聞きたかったんだが、彼女はどこか思い当たる
場所はないだろうか」

 セリザワは彼女が横になっているはずの、7階上のシングルルームが見えるかのように視線を
上げた。つられて全員が蛍光灯とスプリンクラー以外に起伏のない白い天井を見た。

 薫が視線を戻して言う。
「少しだけ、呼びましょうか。他に聞くことはある? 長くなりそうなら次の機会にするけど」
「いや、このことだけだ」
「それじゃ、私連れてくる。911号室よね。みんな待ってて」

 エレベーターで9階まで昇る。
 眠っているかと思ったが、ノックをするとはっきりとした返事が返ってきた。
 脈を取るなど簡単な診察をして、体調がそれほど悪くないのを確かめてから会議への参加を
求める薫。彼女はあっさりと承諾し、ルームキーを手に部屋を出た。


「思い、当たる、ところ・・・」
 会議室の空いていた椅子に腰掛け、セリザワが推理する葛城梁の行方に耳を傾けながら
ターニャは呟いた。
「彼はいくらなんでも札幌にはいないだろうし、小樽はあなたを巻き込むことになるから避ける
だろう。最後にそう言っていたんだし。
 彼は日本で3年しか過ごしていない。アメリカに戻れなければこの3年で行ったことのある
場所を選んだかもしれない。候補になる場所は、そう多くないはずだ。どうかな? どこか
浮かばないかな?」


 思い当たるところ。

 彼は東京の出身だと言っていたけれど、そうじゃなかった。
 思い返せば故郷のことなどあまり離してくれなかった。
 時折、出張で東京へ行っていた。お土産は確かに東京のお店のものに見えていたけれど、
別のところで買うことだってできそうだ。本当に行っていたのかすらわからない。
 出会ってから二人で出かけたのは、北海道の中だけ。
 一度も本州へは行けなかった。
 ターニャ自身は運河工藝館の旅行で青森へ行ったことがあるだけで、直接に知っている日本は
北海道のみと言っていい。

 記憶を遡上すると、アルバムをめくるように浮かんでくる風景。
 函館で夜景を見たこともある。
 富良野で花を愛でたこともある。
 礼文島へは、自分で日程や交通機関を調べて彼を連れて行った。
 彼はいつも体を気遣って、遠い所や少しでも無理のあるスケジュールは避けてくれていた。
 そうして積み上げた想い出の街のどこかに、彼はいるのだろうか。

 ターニャは二人で歩いた事のある地名を全て並べた。
 この日のメモ取り役の葉野香がそれを書き取っていく。

 役に立ってほしくなかった。
 彼が私との足跡が残る街にいるなら、私のことを思い出して連絡してくれると思いたい。
 いないから、そうしないんだと思いたい。

「北海道にいるなら、電話ぐらいすればいいのにねぇ。追われてたって、ちょっと話するぐらい
できるじゃない」
 心からターニャの側に立っているからこその、そんな言葉が彼女の疵を塞ぐ乾いた血を
融かしてしまう。
 さよならと言ったあの日から、ターニャの携帯に梁からのコールは一度もなかった。
 番号のメモリーはそのままにしてあっても、もう液晶画面に表示されることはないのだろう。
「なにも知らないで、事故で死んだと思われていた方がいいって、そう思ってたのかな。
女の子の気持ち、全然わかってないよね」

 違います。

 そう言いたかった。

 わかっていなかったのは、私で、今もわかっていない。
 わかっているつもりになることで、散ってゆく愛の結末を忘れようとしていたのが、私だった。
 その欺瞞こそが、すべての罪の源なんだと、言いたかった。

 なにも求めなければ
 なにも失うことはないとわかっていたのに。






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