室咲きのジャスミン <3>



 里中梢からけあふりぃなる人物を紹介してもらうのはそれから一週間後のこととなった。相手の
都合ではない。椎名薫が会うまでに時間と準備を必要としたのだ。

 昼下がりの監察医務院。
 近所のベーカリーショップで買ったパンを、いつもの癖で、いささか行儀悪く文庫本を広げながら
デスクで摂取した薫。しかしツナとマヨネーズの微妙な混合を味わう口元は動きが鈍い。視線は
活字から乖離し、中空を蝿の軌跡でも観察するように動き回る。

 午後の仕事が始まろうとする寸前になってようやく咀嚼を終えた彼女は、携帯で桜町由子の
番号をコールした。

「もしもし、椎名ですけど」
「薫さんね。どうしたの」
「今、話せる?」
「実はもうお昼休み終わりでさ。これから移動しなくちゃならないの。だからあんまり」
「じゃ、用件だけいい? 今日か明日の夜、そっちで会えない? 私が千歳に行くから」
「えっと、今夜ならいいよ。明日は夜仕事だけど」
「それじゃ、あとで電話ちょうだい。待ち合わせとかその時決めましょう」
「うん。それじゃまたあとで」
「それとね、この私と会うのはみんなにも内緒にしてて。訳は会って話すから」
「ふーん。ま、いいよ。あ、今行きま〜す。それじゃまた」
「仕事頑張ってね」



 その店は、からんからんと、アルプスを舞台にした映画を想起させるカウベルのような音色の
ドアベルで二人を歓迎した。
「いいお店ね」
 薫が由子にエスコートされたのは、千歳市内のビアレストラン。店の奥のカウンターでは
丁寧に磨かれ逆さに吊るされたピルスナーが赤錆びたシェード越しにライティングされ、
ドイツのどこかの醸造所から長い旅をしてきた本物のビールが注がれるのを羨望している。
「私はタクシー拾って帰るから飲んじゃいますけど、薫さんどうします?」
「いただくわ。いざとなれば代行使うから」

 注文を取りに来たウェイターに、由子は気に入っている銘柄を、薫は名前の響きがいいものを
気まぐれに指定する。
 間もなく届けられたビアマグを手にすると、ふと目が合った。
「何に乾杯しようか?」
「・・・なにかしらね」
 思いつかない。
「じゃ、今夜のわたしたちに」
「そうね」
「乾杯」「乾杯」
 陶器のくすんだ響きが耳に心地よかった。
 テーブル席のほとんどに客の姿はなく、管楽器を主体にしたBGMが二人の声を隠してくれて
いる。
「由子さん、ここは、これから混むの?」
 これから話すことを聞かれないよう用心したい薫が尋ねた。
「平日はたいしたことないですよ。ただ飲むにはちょっと高いから、隊員は居酒屋に行くのが
多いんです。私みたいな酒好きぐらいですよ。ここ来るのは」
「そう」
「あ、薫さん。私に『由子さん』はなしにしてくださいよ。由子でいいです」
「あら、私に年上だって思い知らせたいの?」
「あはは。気にします?」
「ふふっ。もう、気にしないことに決めてるわ。由子。私も薫でいいから」

 国産ビールではなかなか感じられない独特のホップの苦味と、無造作でシンプルだが濃い
味わいのある料理が半分ほどなくなったところで、由子が切り出した。
「でも突然どうしたんです? みんなに内緒で会うなんて」
 薫は表情を変えずに、暫し周囲を見まわした。客の数は増えているが、会話を盗み聞きできる
ほど近くにはいないと確信してから、由子の瞳を見つめる。
「どこから説明したらいいかしら。ただの私の邪推ならいいと思うんだけれどね」

 薫は、少し前から不安要因となっていることを話した。
 自分で解っているが、まるで根拠はない。
 見方を変えれば悪意ある中傷、謂れなき疑惑にすぎない。
 由子が驚き、戸惑ったのも無理はない。

 説明が一段落する頃にはアルコールのもたらす火照りもビールの泡のように霧消していた。

「それで、どうしようと思うんです?」
 ずっと無言のまま耳を傾けていた由子が問う。
「来週、私と梢ちゃんで元ヤクザの人に会ってくる。このことを知っているのはあとターニャと
葉野香だけ。その前に一度集まるでしょう? その時にはこのことは言わないでおくから、由子も
知らない振りをしていて」
 薫の意図を察して頷く。
「会うときに何かあれば、条件はすぐに狭まるわ。でも、この時はなにも起こらないと思う。
彼女たちにも口止めしてあるし。
 問題はそれからね。風祭という人から役に立つ情報が手に入ったらみんなに伝えざるを得ない
から。梢ちゃんの話では、風祭さんはかなりああいう問題には詳しい人らしいのね。そういう情報
源に接触したことを知れば妨害を仕掛けようと思うかもしれない。どこで何がおこるかによって、
特定できるんじゃないかと思うのよ。もし、いればの話だけれど」

 ビアマグの底に残る麦酒をぐいと飲み干すと、香ばしい匂いが鼻腔を突つく。いつもより苦く
感じるのは、このビールの成分のせいなのか、それとも仲間を疑う苦衷のせいなのかと薫は
訝った。
 由子もマグを空ける。
「何も起こらないと思うけどなぁ」
「私だって、そうであってほしいと思ってるわ。でも一度はこうやって確かめておきたい。ただで
さえ危ない橋を綱渡りしているんだから」

 近くを通りがかったウェイターをつかまえ、ビールの追加を頼む。それが届けられるまで、薫も
由子も素面の時ですらできないほどに記憶の樹海を踏み分けていた。

「う〜ん。しょうがないのかな。でもさ、薫さん。あ、薫だね。ずっと一人でこういうこと考えて
たの?」
「ずっと、ってわけじゃないわよ。ただ、誰かがこういうことは気にしないといけないなって
思ったの。それだと私しかいないかなって。みんなには嫌われるでしょうけど」
 由子はぶんぶんと首を振る。
「そんなことない。だって、薫ぐらい頭が良くないとわからないことだと思うし、やってくれな
かったら私たちのやっていることがみんな無駄になっちゃうもの。私で良ければ、協力するよ。
でも、どうして私に話したの?」

 尋ねられるだろうと予測していた問いだった。
「一番頼りになりそうだったから、かな」
「もし私がそうだったらヤバいとか思わなかった?」
「思ったわよ。もちろん。由子が最初に私たちと行動したのが偶然じゃない可能性をいろいろ
考えたし、その後のことも不自然な点はなかったか思い出してみたわ。でも、結局わからな
かった。わかるはずないのよね。だけど、由子は大丈夫よ。それはわかった。
・・・・・なんとなくだけどね」
 少女では決してできないであろう、奥深い感情と経験だけがもたらす微笑を薫は浮かべた。
そんな成熟した美しさに由子は憧れすら抱く。彼女が自分を理屈抜きに選んでくれたことが
誇らしかった。
「なんとなくかぁ。私も、なんとなく薫を信頼してる。話してくれてありがとね」

 それから二人は空腹感に背を押され、冷めかけている料理を片付け始めた。身の安全を
考慮してアルコールは控えたが、それで食欲が衰えるということはまるでなかった。追加の
料理も躊躇うことなく頼む。

 由子が癖を巧みに利用した薫の髪を見ていた。
「なんか不思議だな」
「え?」
「私たちってさ、ターニャがいなかったら一緒にお酒飲んでる可能性なんてなかったなって。
お医者さんの知り合いなんていないしさ、隊に入ってからは民間の友達とも会う機会が減っ
たしね」
「それは私もよ。私、職場とプライベートをきっちり分けたい人なんだけど、区別するほどプライ
ベートだけで会える人っていなくなってくるの。大学時代の友達はみんな結婚したし、今の職場で
知り合う人の半分は足から先に出て行くからね」
「足から先?」
「箱に入って、こう押し出されるわけよ」
 ワゴンカートを押し出す手つきをしてみせる薫。
「ああ、な〜るほど。確かに足から先だ」
「だからね、今回こういうことに関わったのは、そう悪くない体験だなって思ってもいる。冒険が
過ぎるかなって自分を戒めないといけないって思ったりもするけど」
「確かに冒険してるよね。映画だとハッピーエンドになるけど、私たちにそんな保証はないし、
無茶してるなぁってたまに思う。でも、あの子を、ターニャを見てると、なんとかしてあげたくなるん
だよね。
 外国からたった一人で日本に来てさ、苦労してないはずがないでしょ。なのに、誰よりも信じて
たはずの男が大嘘つきのスパイだったってだけじゃひどすぎる。そうだとしても、あの子が納得
できる理由とか、そういうのを見つけてあげたいよ」
 その願いは、薫の心の裡にも等しくある。いつでも考えすぎてしまう自分では、なかなかこう
はっきりと直截に伝わる言葉では表現できない。だから由子のまっすぐさが壮快だった。

 由子の門限が近づくまで、彼女たちは久しぶりに寛いだ時間を過ごした。
 好きなもの、嫌いなもの、去年のこと、一昨年のこと、子供の頃のこと。
 葛城梁のことなど持ち出さなくても話題は尽きず、想い出を共有できなかった過去を埋めるかの
ように旧い日々やこれから巡り遇いたい運命を忌憚なく教え合った。

 友達になる夜が更けてゆく。






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