室咲きのジャスミン <2>



 急速に冬が近づいてきていることを体罰で納得させようとするような、痛々しい北風が窓ガラ
スをきしませる。そんな翌日の夜、薫の部屋で話し合いをしたのはターニャと葉野香。後から
梢が来ることになっている。
 セリザワも他のメンバーも時間の都合がつかなかった。調査が長期化して、全員が集まると
いうことが困難になってきているという現象の具現でもあった。それでも電話を使った個別の
説明を受けて、『澤登』での会合で集約してきた解明すべき問題点はすでに把握していた。

 第一に、春野陽子を誘拐しようとした中国人グループの目的と現在の行動。

 第二に、葛城梁の遺体を確認した白髪の男性。

 葛城梁の消息や札幌におけるCIAの動きなどは、そうそう判明する気配がない。ジグソー・
パズルのように、つながりがわかりやすいところから調査をしていくのが定石だろう。

 とはいえ、札幌にも数千人はいるはずの中国系外国人から犯人たちを見つけ出すことなど
できるのだろうか。中国人グループは当然真面目な留学生などではなく、犯罪組織の人間に
違いない。どうやって調べれば良いのか。警察だって実態を掴めていないであろうチャイニーズ・
マフィアにうかうかと近づけば、次の太陽を見ることもなく琴似川に浮かべられるなんてことにも
なりかねない。

 どこかの興信所や探偵社にでも頼むという方法もあるが、かなりの費用が予想されるし、
対象が漠然としすぎている。時折、麻薬売買や暴力事件で逮捕される中国人の記事が
新聞紙面に報道されているが、どこのどういう組織の人間なのかまでは押さえられていない。

「今日、北海新報に顔出してきてさ、社会部の人に聞いてきた」
 葉野香が手帳を手に話し出す。

 札幌にも暴力団組織が複数存在している。国内有数の歓楽街であるススキノ付近は、一つ
一つのビル、一つ一つの飲み屋に、モザイク状にシマが張り巡らされていると言っていいほどだ。
限られた利権の奪い合いに時には抗争も起こすが、暴力団対策法の制定以降は共存路線を
基調に縄張(シマ)を分け合っている。合法的にやっていれば警察も手が出せない仕組みが
出来上がっている既存のヤクザ組織は、民間企業の仮面を被り市民社会に寄生する方が
得策なのだ。

 一方、チャイニーズマフィアと通称される中国人による犯罪組織は、ヤクザとは置かれている
環境が違う。ヤクザの縄張は古いものでは江戸時代からの地盤によって区切られている。
中国人の割り込む空白地などあるはずもなく、力ずくで奪い、さもなければ地盤を持たずに
既存のヤクザに協力して、流血と懐柔という硬軟両面の手段を使って、じわじわと札幌周辺にも
勢力を広げている。

 彼らの特徴としては、徴兵制度の経験者が多いことで暴力の行使能力が高いことと、それを
支える豊富な武器、さらに非道な行為でもためらわない残虐性が挙げられる。

 さらにチャイニーズマフィアといっても一元化されているわけではない。札幌では中国南方の
広東・福建省系出身者で構成される南海(旧香港)マフィアと、山東・河北省系の華北マフィアが
対立している。近い存在としては台湾マフィアがあるが、北海道での勢力は弱く、両者に対抗
できるほどの力はない。

 中国人というのは郷党意識が強く、少しでも離れた地域の出身者とは対立しやすいのだが、
異国の地にあっては団結しなければ生き残ることができない。そこで大陸の北部と南部という
共通項でまとまったらしい。長江を挟んで北京語と広東語に分かれることも大きな理由の一つ
だという。

 南海、河北共に不法密航者が中心となって密輸や売春、麻薬売買などでかなりの利益を
上げているらしい。かつては南海マフィアが羽振りをきかせていたが香港返還後は勢力を
落とし、現在は河北マフィアが優勢だという。

 これら中国系マフィアに対し旧来の暴力団の対応は分かれ、支配的地位にある組織は排除
しようとするし、上昇志向を持つ組織は彼らを利用してライバルを蹴落とそうとする。幾度も
発砲事件や報道されない暴力沙汰が繰り返され、今では確固たる地歩を固めている。

「わかったのは、ここまで。これ以上の詳しいことはわかんないってさ。普通の暴力団ならコネも
あるんだけど、外国系のだと記者でも容赦しないから深く入り込めないんだって」と葉野香。
長い説明を終わらせ、エアコンのせいもあってひりつく喉にウーロン茶を流しこむ。ふと、これも
中国と関係あるんだな、などとペットボトルのラベルを読んでみたりした。
 空中にぼんやりと大陸地図を描きながら、「あの犯人たちが華北系か南海系か、まずそれを
見極めないといけないわね。私たちでもわかる違いがあるのかしら」と、薫はそれぞれに
イメージを結びつけようとする。
「中国語そのものが違うから、語学ができれば話を聞くだけでわかるみたい。でも、私たちの
中にできる人いないよね」

 薫は医師であるからもちろんドイツ語ができるが、中国語は挨拶ぐらいしかわからない。
葉野香もターニャも同様である。これから来る梢はどうだろうかと3人が目を見合わせた時、
インターホンの呼出音が鳴った。
「こ〜んばんは〜」

 いつもながら、なかなかお洒落なファッションで登場した彼女。
「こんばんは。梢さん」
「尾行は?」
「なかったはずだよ。それより今夜冷えるねぇ。はい。お土産」
手にした茶褐色の紙袋からは湯気が立ち上っていた。石焼きいも。これからの季節を彩る
のんびりしたBGM、テープで繰り返される笑いを誘う宣伝文句をなびかせた軽トラックが
ちょうどマンションの近くで商売をしていたのだ。

 うら若き女性。甘いものに目がないのは共通項だ。それぞれがお礼を言いながら手頃な
大きさのを選び取って柔らかな食感に耽溺する。
「で、どういうことになってるの?」
 熱々の皮を剥くのに苦心しながら、梢が訊ねる。
「チャイニーズマフィアのことでね・・・」

 葉野香から一通りの説明を受け、「ふんふん。じゃ、札幌の暗黒街に通じている人が必要
なんだ」と梢は頷く。
「そういうことになるわね」
「でも、都合良く見つかるわけないよなぁ」
 どうやら『暗黒街』という自分の言葉の危険な響きに酔っているらしい彼女を刺激しまいと、
薫と葉野香は冷静に受ける。
 ところが、「そーでもなかったりするんだよね」という、自身ありげな返事をしてきた。
「中国語できるの?」
「まっさかぁ。アチョーとかしかわかんないよ」
 それは中国語じゃないだろうと、心の中で呟いておくだけにする葉野香。
「えっと、じゃ、なにか心当たりがあるの?」
 梢は最後の一口を幸せそうに堪能して、ターニャが注いだウーロン茶で重くなった口中を
すっきりとさせる。
「うん。あるよ。けあふりぃさんっていう人」

 合図をされたように揃って首をかしげる3人。
「ケアフリー? なに人なの?」
「日本人。けあふりぃってのはネットで使うハンドルネーム。チャットで知り合った人でね、もう
付き合い長いんだ。一見普通のおじさんなんだけど、実はローン会社の社長で、昔はもっと
ヤバイ仕事をしてたらしいの。闇金融とか。ヤのつく職業だったんじゃないかな。だから、
そういうことには詳しいはずだよ。今でも」
 唖然として『ヤのつく職業』とさらっと言う彼女を見つめる薫たち。ターニャもそれがヤクザ
イコール犯罪組織を意味する隠語だということは連想できた。
「怖い人なんじゃないの?」
 葉野香には、頬に傷があって悪趣味な柄のスーツを着てじゃらじゃらとブレスレットやネック
レスをみせびらかすようなステレオタイプの人物像しか浮かばない。以前その手の組織が
経営する金融会社から兄が借金してしまい苦労した経験があるのも一因だ。
「う〜ん。私にとってはいい人だよ。知り合ったのはネットでだけど、普通に会ったりしてるから
どういう人なのかだいたいわかってるし」
「本当の名前は?」
「風祭さん。風祭和正」
「薫さん、どうする? その人に聞いてみる?」
 さっきから黙ったままの薫に葉野香が持ちかける。しかし、耳に入っていないのか顎をつまんで
物思いにふける彼女。
「・・・薫さんってば」
 二の腕を梢に何度かつつかれて、やっと意識を戻す。
「あ、ああ、ごめんなさい。なに?」
「風祭さんに話を聞くかどうかってことなんだけど」
「それはやっぱり、知っていることがあるなら聞いておきたいわ。私たちが調べるよりよっぽど
安全だもの」
「それじゃ、いま電話しちゃうよ。都合よければ明日にでも会って聞いてくるから。誰か一緒に
来る?」
「悪い、明日は無理」と葉野香。
「私が行くわ」と薫。
「私もいいですけど」
「いや、ターニャは行かない方がいい。あなたをヤクザなんかに会わせるわけにはいかないわ。
私と梢さんだけ」
「他に誰か空いている人いるかもしれないから、琴梨ちゃんとかにも聞いてみようか」
当たり前のことを言ったつもりの葉野香だったが、「それはよして」と薫に即座に制止されて
しまった。
「え?」
「風祭という人に会うってことは、ここだけの話にしておいて。話を聞いてから、みんなに伝える
から。それまでは一切、風祭という名前も存在も黙っていて」
 不自然な沈黙が降りてくる。
 チームのメンバーに言わないというのは、隠すということだろうか。
 これまでそんなことはしてこなかった。どんな情報も相互に送受信してみんなのものにして
きたのだ。
「ちょっと、考えていることがあるのよ」
 薫はそれ以上の説明はせず、いくらか強引に3人から承諾を取り付けた。






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