第6部 室咲きのジャスミン



 葛城梁がCIAの人間だということになれば、春野陽子誘拐未遂事件とはどう関係するの
だろうか。

 セリザワの判断はこうだった。
「僕はCIAとは違うと思う。トカレフを持っていたというのがまずおかしい。銃を使うアメリカ人
からすれば、いつ暴発するかわからない粗悪品だ。精度も悪くて、どこへ当たるかわかった
ものじゃないし、でかくて重くて不格好との評判だ。二人組がCIAの局員なら、もっといい銃を
使うよ。
 それに、あまりにも素人臭い。結局君達に追われてあっさり失敗したんだろう? 
なんというか、使命感がないよ。それにCIAが東洋系の外国人を使うというのは考えにくいと
思うな。アメリカにはあらゆる人種がいるけれど、CIAというところはアイヴィー・リーグが幅を
利かせるところで日系人は工作員にそういないはずだよ」
「お金で雇われたのかも」と着想を口にする鮎。
 しかしセリザワは大きく首を振った。
「そんなことはしないね。日本の市民を誘拐するなんてのは一大事で、もし一般に知られたら
国際問題、たいへんなスキャンダルだ。日本の首相が直接大統領に抗議するだろうし、そう
なればCIA長官以下主要幹部の首が飛ぶ。もし犯人が捕まって口を割ったらと思ったら、
街の犯罪者にやらせるなんてことはできないよ。金で買われる人間はより多くの金で別の奴に
買われるって理屈でね」
 確信を持って話す彼に同意の頷きを返す琴梨たち。

「さっき言った、アイヴィー・リーグってなに?」と梢。
「イエールとかボストン・カレッジとか、アメリカの北東部にある名門の大学のこと。ハーヴァード
などもそう。CIAは伝統的にこれらの大学の卒業者が中核を占めているって話だ。それなりの
家柄の出の人たちが在籍者に多いんだ。そういう人たちは国を裏切ることはないと思われて
いてね。はっきり言えばCIAはWASPの組織なんだと思う」

 WASPすなわちWhite Anglo-Saxon Protestant。
 白人・アングロサクソン・プロテスタント。
 最初にメイフラワー号によって植民してきた人たちの末裔。平等社会と言われるアメリカでも、
実質的に経済・政治面で支配的な階層を築いている人々。それは歴代アメリカ大統領のほぼ
全てがここから輩出されていることからも明白である。失政を暗殺という悲劇によって忘れられて
いるJ・F・ケネディがカトリックだったのが唯一の例外なのだ。

「じゃ、葛城梁が入ったのはどうしてだろう。彼も日系人なんでしょ。あんまり出世が見込めないっ
てわかってて、なんでわざわざ」
 説明を聞いて、梢がさらに問う。
「彼は特別にスカウトされたんだろう。大学でやったIQの検査ではかなりの数値を出したみたい
なんだ。幾つだったのかは教えてくれなかったけど。スパイにはチェスのプロ並の頭脳と、
冷静さと、運動神経が要求されると聞いたことがある。
 逆に言えば、彼ほどスパイに適任な男はいなかったと思う。彼もそう思ったのかもしれない。
CIAだって嫌がる人間を無理に入れたりはしない。リョウが選んだ道なんだ」

 国のために働こうとCIA入局を志願しただけなら、それは批判されることではない。CIAから
得られた情報によってアメリカ人の生命が救われたことだってあるはずだ。才能を認められれば
発揮したくなるのも人情だ。だが、そうして入局した男が母国を裏切るというのは2重の背信を
犯すことになる。

 葛城梁は、本当に叛逆の河を越えたのか。
 正義とも至誠ともかけ離れた、私欲の腐臭に澱んだ河を。

「国務省で一緒にいたとき、葛城梁はターニャに言ったようなことをスティーブに言ったりしな
かったの? この政策は間違っているとか、アメリカの利益しか考えていないとか」
 鮎が問うと、痛いところを触られたように表情を曇らせたセリザワだった。
「それは・・・あったよ。ある地域について、介入するのは止めるべきだとか積極的に交渉すべき
だとか、政府の方針に疑問を感じることはあるからね」
 親友が罪を犯す動機を指摘するように聞かれるのを嫌って、慌てたように付け加える。
「でもそれは、僕らなら普通にすることなんだ。外部では控えなくてはならないことだけれど、
デスクや職員用の食堂でなら仕事の話もできるからね。仕事をしていれば、不満を持つことは
誰でもある。僕だっていろいろ言ったことがある。僕に比べれば、リョウはあまり言わない方
だったよ。だから、リピンスキーさんに激しいことを言ったというのが驚くことなんだ。ただ機嫌が
良くなかっただけかもしれない。絶対にリョウは、アメリカを裏切るような男じゃないよ」

 そう信じようとして、そう彼女が信じることができるように、彼は断言した。彼女たちの誰もが、
リョウ・カツラギが二人の信頼をも踏みにじっているのではないかと疑っているのがわかって
いたから。話がターニャに聞かせたくない方に流れたのを、咳払いをしてセリザワは戻した。

 琴梨が、セリザワの言葉を受けて応じる。
「だとすると、やっぱりCIAとお母さんをさらおうとしたのは別の組織なのかな」

 僅かだけ緩む和室の空気。
 心楽しくなるような話題ではないが、葛城梁悪人説よりはターニャを交えていても気まずさが
少なくて済む。セリザワがゆっくりと、頭脳内のファイルをクロスチェックして整えながら、もつれた
糸を解きほぐすように話し出した。

「仮に『アジア人グループ』と呼ぼう。使った銃からすると中国人じゃないかと思うけれど、断定は
できないし。リョウと彼らの関係は現段階では想像するしかないから、今は別にしておくとしてだ。
 順序立てて考えよう。
 CIAが陽子さんに接触する理由はなんだろうか。
 葛城梁がターニャの前に最後に現れた時、彼は追われていた。この時の相手は一切わかって
ないよね。ターニャも見てないし、彼も話さなかったんだから。
 その後、彼は追っ手をどうにかして撒いて、死んだことになって姿を消した。
 この時、伯父と名乗る人が、CIAの所有するらしい建物の住所を示して遺体を確認した。
 それから1週間後に、僕のところにCIAがリョウのことを聞きに来た。
 さらに2週間が過ぎて、春野さんが誘拐された。
 流れはこうだよね。じゃ、CIAの立場で考えよう。」

「まず、いつからリョウを追いはじめたのかはわからない。彼がなにをしたのかはわからないけど、
リピンスキーさんの家に最後に来た時の前後と考えるのが自然かな。それより前だとしても、
リピンスキーさんからさよならを言われた時より前ではないだろう。
 伯父って人はCIAの関係者だよね。リョウの日本での住所も名前も知っていて、わざと違う
遺体を本人だって言ったんだから。それだと、この時点でCIAは葛城梁が生きているって
わかったことになる。それから1週間、いろいろ探して見つからなくて僕のところに来たと考えて
いいよね。
 でも、事故からハルノさんを誘拐するまで3週間もあるのは長すぎると思う。あの事故で死んで
いないなら、陽子さんが彼を匿ったとか偽装したとか疑ってもおかしくないけど、国家反逆罪
なんてものものしい嫌疑がかかっているのに3週間も接触しないのは不自然だ」

「CIAは、ハルノさんに尋問する必要がなかった。それは、あの事故現場には葛城梁の居場所の
手がかりはないってわかっていたからだよ。ハルノさんたちが何を見ていても、結局あの車には
別人が乗っていたわけだから」

 演説調になって喉が疲れ、淹れ直された日本茶に手を伸ばして舌を湿らせる。
「いい茶だね」
 そう言うと、鮎がはにかんだように笑った。

 一呼吸をおいて、語を継ぐ。
「じゃあ誘拐しようとした人たちはどうか。彼らはきっと、リョウが死んで、それで終わったものと
思っていた。それが突然ハルノさんの誘拐を図ったのは、どこかで事実を知ったからだろう。
でも、遺体の調書は監察医務院で厳重に保管されている。伯父と称する人以外に確認に来た
人もいない。だから、遺体からわかったのとは違う。考えられるのは、リョウが生きていて、
そのことを知ったということ。彼が生きて姿を現したってことだよ。しかし彼らは彼を捕まえたり
殺したりすることはできなかった」

 ぱん、と鮎が手を打つ。
「そっか。だから彼の居場所の手掛かりを求めて陽子おばさんのとこに来たのか」
「まだ推論の域を出ないけれど、そう思えるね。3週間の空白が意味するところを考えると」
 矛盾の見つからない説明だと梢も頷く。
「じゃ、あれっきりなにもしてこないのはどうして?」
 顎に指を当て、数秒黙考して琴梨の問いに答えを探すセリザワ。
「彼の居場所がわかったからじゃないかな。もしくは、ハルノさんたちが何も知らないとわかったか。
リョウを見つけることができるような手掛かりは、何も知らなかったんだろう?」
「うん。あそこにいたのはただの偶然だもん。葛城梁なんて人、全然知らないよ。写真も見たけど、
私もお母さんも記憶にないし。めぐみちゃんだってないと思うよ。事故も目撃しただけで、車には
指一本触れてないし。警察の人にも変わったものは見なかったかって聞かれてたけど、別に
なかったって。あ、でもお母さんは少し気になったことはあったって言ってたけど」
「気になったこと?」
 セリザワが琴梨の顔を覗きこむ。
「なんだかね、変な光だか色だかが見えたような気がしたんだって。そういえばセリザワさんには
この話、まだしてなかったね」
「光?」
「うん。抜いていった車を目で追ってたら、ちらっと車の向こうで何かが見えたんだって。うまく
説明できないみたいだったけど」
「それは、警察に話したの?」
「うん。太陽の光がフロントガラスに反射したんだろうって」
 セリザワが腕を組み、長い嘆息をもらす。
 名門大学出身とはいえ、理解の及ばない分野なのだろう。懸命に持っている知識を組み合わ
せているようだが、あまり実りはないようだ。
「私らもなんだかわかんないんだよね。それ。事故とは関係ないのかな。セリザワさんはどう
思う?」
 梢が聞いてからたっぷり1分の50%ほどもかかって、「それだけでは・・・答えが出せないな。
どれだけの意味があるかもわからないし。ただ、それがアジア人グループにとって重要ならば
ハルノさんに接触がなくなった理由がわからなくなる。あまり考えなくてもいいだろうね」
と、彼は判断を述べた。
「う〜ん、そっか。そうだね」
「それよりも、アジア人グループの正体を調べる方が先だろうね。いい方法があるといいが。
それと、僕が知りたいのは遺体を確認した人のことだ」
「きっとCIAの人だろうね。あの段階で彼の住所指名を知っていた人なんて他にいそうもないよ」
と言うのは梢。
「僕もそう思うけれど、それだけじゃないと思うんだ。リョウの立場になって考えてみよう。彼は、
自分が死んだことになる方が得だと思ったんだ。そうでなければ、自分の生存をどこかで示す
はずだからね。追われていたって、それぐらいはできる。そうしなかった、今でもそうしないという
ことは、自分の死を利用していたんだ。遺体を確認した男は、それを助けたことになる。彼に
確認されなかったら、遺体は身元不明ということでテレビや新聞も不思議がって取り上げる
だろうし、警察も遺体そのものや状況を細かく調べて、本当の身元がわかったかもしれない
からね」
 そこで、疑問を呈する。
「事故の段階でリョウがCIAに追われていたなら、同じCIAの人間が彼を助けるだろうか。
反逆の共犯になりかねないのに、だ。だからCIAだとは限らない。あくまで可能性だけれど、
彼が日本で作り上げた諜報網の一員かもしれない。少なくとも、彼の味方をしている。だから
この人物について知りたい。些細なことでもいいから、情報を集めてほしい。この件のキー
パーソンのはずなんだ」

 セリゼワはどうしても、知っておきたかった。
 リョウ・カツラギの3年間を。
 本人以外にその情報を持っている人物は、唯一人。
 なんとしても、見つけ出したい。
 急がなければ消されてしまうかもしれないという焦りが彼にはあった。

 実物をあまり見たことのなかった障子の向こうから、路上に墜落してゆく雨の悲鳴が聞こえて
くる。
 リョウ・カツラギ。
 お前もこの雨に打たれているのか。
 何を望んで、影すらも消しているんだ。






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