室咲きのジャスミン <10>



 ターニャは言った。
「彼は、ロシアのことを思い出さなくていいようにしてくれてました。できるだけ触れないように。
私を通じてロシアのことを知ろうとしたことがないんです。興味がなかったのかもしれません。
それはわかりません。
 彼はロシアの文化のことも、ガラスのことも、音楽のことも食べ物のことも聞きませんでした。
私の祖国には、悲しみしか残っていないから。それがわかっていたから、聞かなかったんだと
思います」

「セリザワさん。彼はロシアに興味が?」
 由子が尋ねた。
「なかったはずはない。大学時代に書いた論文に東アジアを取り上げたものがあったことは
話したね。東アジアにはシベリアだって含まれる。文献を読んでいるだろうし、極東地域で活動
するCIAがロシアに無関心でいられるはずもない。今はもうロシアはアメリカの敵性国家では
ないけれど、RVSがCIA最大のライバルであることは変わっていないからね」
「RVS?」と梢。
「ああ、これはロシアの情報機関さ。昔はKGBって名称だったけどソヴィエト崩壊で変わったんだ。
規模は縮小されたけど、CIAより強力なぐらいだよ」
「旧KGBってことね」
「体質はかなり変わったと言われている。昔のKGBは国家の中の国家で絶大な権力を握って
いたけど、今のRVSはあくまで情報収集と防諜のための組織らしいから。それで、リョウの
ことに話を戻そう」
 一旦口を閉じ、顎に手を当てて考えを整理するセリザワ。
「リョウが札幌で何をしていたにせよ、今ロシアにいることがCIAの任務ということはありえないと
思う。CIAも担当地域がきっちりと別れているだろうから、日本で仕事をしていた彼が突然ロシア
向けの任務を与えられることはないだろう。彼が国家反逆罪で追われているのもこのせいじゃ
ないだろうか。
 任務を帯びてこの街に来て、彼がずっとロシアに情報を流していたとしたら。その報酬に
莫大な金額を受け取っていたとしたら。それが露見して、CIAの追求を逃れようとしてロシアへ
渡ったのだとしたら。信じたくないけれど、こういう話なのかもしれない」
「それだとチャイニーズマフィアはどう関係するの?」
 鮎の問いに、沈痛な表情を更に深めて応える彼。
「・・・・・リョウが情報を2重売りしていたってことじゃないだろうか。一つの情報をロシアと中国に
売れば倍儲かる。華北マフィアは中国政府に近いんだろう? 中国のスパイ網がマフィアを
利用していたとしてもおかしくない。港まで追ってきたのは、ロシアではなく自分達の国に連れて
行こうとしたからかもしれないし、ロシアにも情報を流していたことを知って怒ったのかもしれない。
なんの証拠もないから、ただの仮説にすぎないけどね。お金の洗浄に彼らを利用して、向こうが
欲にかられて襲っただけかもしれないし」
 どうにかしてリョウ・カツラギが無実であり、かけられた嫌疑は無根のものだという可能性を
残そうとする彼。しかし、もはや彼自身が努力が無効になっていることを感じていた。
「でも、彼ってまだ27歳だよ。3年ぐらいで何億も貰えるぐらいの情報って持っているのかな?
そんなにCIAの中で偉いわけじゃないだろうし。ロシアってすごく貧乏なんでしょ。5億円なんて
払えそうもないけど」
 かつて図書館で調べたロシアの知識から、琴梨が思いついた疑問を提示する。
「その通りだね。少なくとも、全部がロシアからのお金だとは僕も思わない。CIAの工作資金だろう」
「CIAのお金?」
「これは間違いないと思う。リョウがロシアとかに情報を流していたかは確証がないからわから
ないけれど、450万ドルなんて大金が手に入るはずがない。KGB時代から、ロシアはスパイへの
報酬をけちることでは有名だったからね。CIAが工作のために日本にプールしていた秘密資金と
しか考えられない。それを勝手に持ち出して海外に姿をくらました。これだけでもCIAが必死に
なって探し出そうとする充分な理由になるよ」
 独り言のように薫が言う。
「日本円で5億となると重くてかさばるだろうけど、ドルなら一人で運べる。それにドルなら世界の
どこででも通用するし、ロシアでは日本円以上に使いやすい。インフレで価値も高い。銀行に
置いておけないお金だから、現金にしたのもトラベラーズ・チェックにもできなかったのも納得
できるわね」
「それじゃロシアに行ったのは、亡命するためなの?」
「そう考えるのが妥当かもしれない。普通に亡命したければ、ここにもあるロシアの領事館に
行くだけでいい。領事館は治外法権だから日本の捜査権も及ばないしCIAも手出しできない。
そのままロシアの外交官ナンバーの車で空港へ行って、アエロフロートに乗り込んで、あとは
モスクワで歓迎パーティに出るだけで終わる。もちろんCIAは面子にかけて強硬な手段を取る
だろうけど、彼に手出しはできない。大使館に乗り込むなんて不可能だし、ロシアに人を送り
こんで彼を暗殺するようなことはしないというのが、冷戦時代からのルールなんだ。 アメリカ
内にいるRVS要員と思われるロシア人を片っ端から逮捕して国外追放にしたりする
のが限界だろう。
 彼がそうしなかったのは、できなかったからだろうね。亡命前に公金横領や情報漏洩のことが
上に知られて、国内全てのロシア領事館の周囲にCIAが配備されていたんだろう。大使館に
入るまでなら彼を始末してもロシア側は何も言えないし、もし領事自らの運転する車に乗って
領事館に入ろうとしても、CIAならトラックをぶつけてでも停車させてリョウを引きずり出すよ。
ロシア外務省から僕の職場に電話帳ほどの抗議文が送られてくるだろうけど、それで済むなら
安いものだとね。だから、彼は自力でロシアへ入国するしかなかった。飛行機はCIAの偽造パ
スポートしか持ってないから使えない。それで船を使ったんだ。だんだん、彼がやってきたことが
わかってきたような気がするよ」

 そう締めくくった彼の表情は、濃すぎてスプーンが立つほどのブラックコーヒーでも味わうかの
ように苦くゆがんでいた。

 親友だと思っていた男が、逸脱という言葉すらも逸脱するほど道義と法を踏みにじっていたと
なれば、それも自然な反応だと見ていた者は思った。

 もう、葛城梁がターニャのためになにかをしようとして彼女の祖国に危険を犯して乗り込んだ
などと善意に解釈することはできない。
 なにもかもを裏切って金銭に換えた男が、治安も定まらないが故にのうのうと生きていられる
場所として手近な外国を選んだに過ぎないだろう。
 広大なロシアのどこにいるにせよ、あの男は今頃シャンパンでも浴びながら高らかに笑って
いるのだ。
 ターニャ・リピンスキーの苦しみなど喫い終わった煙草のフィルターの如く踏みつけて。



 同日、同時刻。
 ロシア中央部、クラスノヤルスクの現地時間午後6時。
 シベリア交渉団代表アレクセイ・セミョーノヴィッチ・メイステルはロシア連邦特命大臣ソコロフに
対し通告。

「ロシア連邦共和国政府の非妥協的態度によって、我々の穏当かつ公平な要求は蹂躙されて
いる。
 更に、ロシア政府は交渉を利己的に利用し、軍事的圧迫と度重なる挑発行為を強めることに
よってシベリア地域における民主的活動を圧殺しようとしている。
 この背信行為により、我々はシベリア人民の権利と生命のために、必要なあらゆる手段を取る
権利を得たものと解釈する。
 新たな提案はモスクワから出されるべきものであり、2週間の期限内に誠意ある対応がなされ
なければ、シベリアは自らの手で自由を回復することでロシアの搾取と不正義に報いるであろう。
 これにて、この会議の終結を宣言する」

 ミハイル・イワノヴィッチ・ソコロフ特命大臣は一列になって会議場を去ってゆく背中を見つめる
ことの無意味さを知っていた。だから彼は長テーブルに並べられた3色のロシア連邦旗と緑に
太陽をあしらったらしいシベリア自治政府の旗を凝視していた。

 なぜに彼らは豹変したのだ?
 折衝の序盤では、シベリア側こそ迅速な解決のために妥協を辞さない態度を窺わせていた。
 ロシアの出した提案は交渉の下敷きとなるにはいくらか強硬なものだったかもしれないが、
大義名分や威信に関わらない経済分野ではモスクワが容易には受け入れない部分まで独断で
譲歩した。
 彼らもそれはわかっていた。
 まとまるはずの交渉だった。

 ところが、細部の調整に入ろうとした辺りからシベリア側は合意案の条文そのものを無意味に
するような、一方的な変更を次々と要求してきた。
 双方が市民に受け入れやすくするために用いる玉虫色の表現も、明確にシベリア有利な
用語に挿し替えさせようとした。まるで交渉の不成立を狙うかのよう仁。
 そしてこの通告だ。
 期限を切った最後通告は外交上、宣戦布告の一歩手前と受け取られる。期限までに返事が
なければ戦争を選ぶしかなくなるからだ。

 なぜなのだ。

 彼らは戦争をしたいのか?
 ロシア軍に勝てる自信があるのか?
 確かに今のロシア軍では、だらだらと続くゲリラ戦に耐える能力がない。チェチェンで思い知ら
された。誰でも知っていることだ。
 さらにシベリアはチェチェンの数百倍の面積がある。抵抗する場所には事欠かない。
 だが、シベリアには兵站という弱点がある。シベリアの生産能力は長期戦を支える資材糧食を
まかなうことがなんとか可能だという試算を国防省が出した。しかしこのまま内戦に突入すれば
国際的な非難はシベリアへ向かう。モスクワの大統領は、アメリカ政府は決してシベリアの独立を
認めないという確言をワシントンの大統領から貰っている。間違いなく米軍を中心とした部隊が
シベリアを空爆し、彼らの抗戦能力を減衰させるだろう。アメリカは自国の利益のためそうせ
ざるを得なくなる。
 核での脅しもあろうが、実際に使用できるはずがない。なにしろ残存するICBMは資金難で
保守整備が何年もなされていないし、弾道ミサイル発射可能な潜水艦でシベリアに忠誠を
誓った艦はない。航空機搭載可能な核爆弾は危機の発生直後にウラルの西へ全て移管して
ある。野砲発射の核砲弾はあるが、小型で戦勢を変えるほどの威力はない。使ったときの
デメリットからすれば到底引き合わない。

 彼らに勝ち目はない。
 なのになぜあれほど悠然と平和的解決のチャンスを投げ出すのだ?

 特命大臣は随員が見守る中、ゆっくりと立ちあがった。
 とりあえずできることは、大統領への報告しかない。






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