渦紋の果て <6>



 新たにスティーブ・J・セリザワをメンバーに加えたチームの調査は進展を見せはじめた。

 ターニャと出会う直前までアメリカにいたということを前提とする以上、それまでの経歴調査に
日本のデータを使っても無意味であった。セリザワが大学に問い合わせ、見知っていた職員に
頼んで彼の実家などを調べてもらったがそこに収穫はなかった。

 大学保管の個人データが部外秘なのはアメリカでなくても当然だ。しかし、情報を得られな
かった理由は違うものだった。彼のファイルはいずこかへ移動されていて閲覧ができなくなって
いたのだ。
 セリザワのものを含め、同窓生のものはきちんと揃っているのに。電子化されたファイルも
同様である。
 しかも、代わりに差し込まれていた書類には、
『当該人物に問い合わせが合った場合の対応。
 1、質問者の氏名などの情報を控えること。
 2、ファイルは紛失したと答えること。
 3、速やかに下記の番号に事実関係を通報すること。
 4・・・

 これらの規則に反した場合、国家機密保護法による捜査の対象となる』

 こう記されていたという。連絡先については電話番号のみで担当者の氏名も窓口の名前も
ない。ここまで教えてくれた職員はセリザワの学生時代に食事をしたりした相手であり、セリ
ザワと葛城の交流も知っている関係から通報はしないでくれることになったが、既に国家による
情報の遮断が行われていたという事実はターニャたちを驚かせた。

 彼の所属がCIAだという直接的な証拠はまだない。だが、通常の政府機関であればこんな
ことがなされるはずがない。NSA(国家情報局)やシークレット・サーヴィスの捜査官であって
もだ。

 米軍関係者では?という梢の着想は、セリザワによって否定された。
 もし彼が軍に所属していたとするならば、彼を探すのがCIAのはずがない。米軍には軍隊内の
保安を担当する情報部が別にあるのだ。そもそもいくら葛城が頭脳と体力に優れた男であっても、
畑違いの国務省からスカウトするほど人材に困ってはいないだろう。

 葛城梁がCIAの人間であることを疑う理由は、ほとんどなくなってきたと言っていい。



 この日、セリザワを囲んでいたのはターニャ、鮎、梢、琴梨の4人。場所は鮎の実家である
寿司屋、澤登。午前の営業時間外に使わせてもらうことにしたのだ。
 座敷に敷かれた座布団に胡座というのがいささか落ち着かないようなセリザワだったが、
ターニャはまるで苦にする様子もなく正座している。

「でもさ、葛城梁って札幌でなにしてたの?」
 <寿し>という文字も鮮やかな湯呑を手に鮎が誰にともなく問い掛けた。
「なにか仕事があったんだろうね。スパイ活動ってどんなことするんだかわかんないけど」
 あまり映画も見ない琴梨がスパイという言葉から連想できるのは、時代劇で縁の下に隠れて
悪代官と商人の密談を盗み聞きするシーンぐらいだ。
「小樽になにかあったのかな」と梢。
 時々小樽に遊びに行くことがあった鮎が、どこかヨーロッパの趣を感じる街の風景を脳裏に
展開して記憶を手繰る。
 小樽にあるもの。
 アイスの美味しいお店「美園」
 小樽寿司屋通り。
 ライトアップされた夜の運河。
 天狗山ロープウェー。
 港のマリーナ。
 観光名所ならたくさんあるけれど、スパイが関心を持ちそうなのは市役所ぐらいじゃないだろう
か。まさか市役所に潜入するためにアメリカからはるばるやってきて3年もかけないと思う。
「なにもなさそうだけどねぇ。工藝館でターニャと知り合ったのも偶然だろうし。スパイがどうと
かってまるで関係ないもん」
「スパイだって恋をするってことだろうね」
 梢が自分の言葉にいやに納得して頷いた。
「そうだね。でも、梁がメールで『交際している女性がいる』って書いてきた時は本当に驚いたよ。
大学時代からストイックで、女性には無関心だったから。別にホモだったってわけじゃないよ。
アメリカでは珍しくもないけど、彼はなんというか、恋愛に関心がなかったんだな。交際を申し
込まれて断る時も、友達のままでやっていこうっていつもやんわりと避けるんだ。素敵な女性が
たくさんいたんだけどね。
 でもまぁ、リピンスキーさんほどの美人ならあいつが惚れるのも無理はないと思うけれど」

 セリザワが口にしたのはリップサービス以上の正直な感想だったが、聞いたターニャは顔を
伏せてしまった。こういう言葉を喜んでもらえる状況でないことはわかり、すぐに彼は話題を戻した。
 彼の任務について。

 国家が情報機関に与えた任務は主に3つ。

 まず諜報。
 外国政府や軍、社会についての情報を集めること。その手段の行使にあるルールはたった
一つ。モーセの十戒に続く十一番目の戒律、『汝、見つかる勿れ』だけ。情報を得るために、
金・女(時には男)・麻薬といった誘惑から弱みにつけこむ脅迫まで手段を選ばない。

 平時であれ戦時であれ、スパイは発見と同時に射殺されても本人も送り込んだ組織も文句は
言えないのが世界的なルールだ。

 諜報工作員には合法工作員(リーガル)と非合法工作員(イリーガル)がいて、前者は大使
館の文化アタッシュなどの外交官の身分を持って活動する。こうすることで外交官特権を
保持し、逮捕された時に「好ましくない人物」(ペルソナ・ノン・グラーク)として国外追放になる
だけで済む。デメリットとしては、氏名も顔も公表されなくてはならないため完全な隠密行動は
困難になることだ。

 そこで、非合法工作員が有用になる。観光客や商用目的などの仮面を被り、社会に溶けこんで
スパイ網を張り巡らせるのだ。彼らには一切の保護がない。逮捕されれば拷問の挙げ句に処刑。
墓標もなくじめじめした森に埋められる。もしその国に森がなければ、荒野に放置されるだけの
こと。捕まったスパイには捕虜の人道的な扱いを定めたジュネーブ協定は適用されないのだ。

 合法工作員が「管理官」「監督官」などの裏の肩書きで非合法工作員を運営するのが主な
方法だ。


 第二の職務は分析。
 送られてきた情報を専門家が解析して、他の情報と照合したりすることで信頼性をチェックし、
事実かどうかを確認する。これは純然たるデスクワーク。情報には逆情報というものもあり、
あえて機密を流すことで相手国の反応を知ろうとしたり、情報の流出ルートを調べようとしたり
することがある。
 さらに偽情報もある。『真実を隠すのに最も有用な嘘は、事実に最も近い嘘である』という
わけだ。真実を見抜くのは容易なことではない。CIAでは大学教授などが請われて限定的に
この仕事をすることも珍しくないという。


 第三の任務は防諜。
 自国がスパイされるのを防ぐのだ。前述した潜入してくる工作員を摘発するのに加え、二重
スパイを見つけ出す任務もある。

 二重スパイとは、なんらかの理由で国を裏切り、敵国に協力するスパイのことである。外国に
送り込まれた工作員が、敵から提供される金や女に目がくらみ、敵の言うがままの偽情報を
母国に渡したり、本国の情報機関に勤務する職員が機密情報を外国に売り飛ばしたりする
ことがある。

 潜入工作員の摘発と二重スパイの摘発は、必ずしも同一の機関が行うわけではない。
 フランスにはSEDEC(セデック)という強力な情報機関があり二重スパイの摘発も行って
いるが、潜入工作員の摘発には国家警察が当たっている。
 英国ではMI5とMI6という、現在では違った名称になった組織があり、前者が二重スパイの
摘発、後者が諜報、さらにスコットランドヤードが工作員の検挙を受け持っている。
 かつてのソ連ではKGB・国家保安委員会という世界最強の情報機関が全てを管轄していた
が、内部では第一管理本部が諜報、第二管理本部が防諜と別れていた。
 KGBと比肩する実力を誇るイスラエルのモサドは完全に一元化されて情報活動をしており、
防諜も諜報も行う。
 日本では防諜を担当するのは公安調査庁。警察の公安部と協力することになっている。
諜報についての正式な組織は知られていない。

 そしてアメリカだが、本来防諜はFBIの仕事である。ただ二重スパイの摘発はCIA内部で行う。
組織の持つ秘密主義の由だ。このせいで数多くの失敗が生まれたが、官僚体質によって未だに
改善されたとは言いがたい状況にあるのだが。


 では、葛城梁に与えられた任務はどれなのか。

 この3つ以外にも、文書の偽造をする部署や資金の配分を担当するセクションなどが当然ある。
意外にも広報部すら存在している。しかし、国外で活動することはまずない仕事だ。

 最も可能性の低いのは分析だとセリザワは語った。CIAの分析官(アナリスト)が国外に出る
のは同盟国のアナリストと協力する時ぐらいだろう。日米は同盟国だが、彼のように3年も滞在
するようなことは考えられない。

 防諜を担当していた可能性はある。札幌にいる二重スパイを監視したりしていたのかもしれ
ない。アメリカの領事館員が日本に情報を流していて、それを摘発する使命を受けていたなどが
考えられる。
 だが疑問符も付く。この場合、あえて危険な非合法工作員として入国する必要はないのだ。
大使館の適当な役職を名目的に与えるのが恒常的に行われているのは、国務省のスタッフの
セリザワにはよくわかっていた。

 どうしても蓋然性の高い結論は諜報工作になる。

 CIAが偽装して設立した会社。それを隠れ蓑にして日本でスパイ活動をしていた。

 そして国を裏切り、追われて、姿を消した。

 そういうことなのだろうか。






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