渦紋の果て <5>



 こうして、スティーブ・J・セリザワはチームに合流することになった。

 札幌のビジネスホテルに居を移して、数日かけてメンバーの全員と握手を交わし、互いを
紹介し合う。彫りが深くもなく二重瞼でもなく目立つほどの長身でもない、外国人だとは思えない
外見と穏やかそうな風貌は、彼女達と打ち解けるのに効果的に働いた。
 名乗った後に「スティーヴィと呼んでくれ。友達はみんなそう呼ぶんだ」と添えると、梢や由子
などはすぐにニックネームを使うようになった。
 ターニャは遠慮があるのか、あくまで「セリザワさん」を貫くようだったが。

 彼はその過程で、葛城梁を捜索するグループが女性だけで構成されていると知って驚きを
隠せなかった。それぞれが非凡な得能を持っているようだとはいえ、平均年齢20代という若さは
意外だった。ターニャ・リピンスキーと面会できるまでの警戒措置は、誰かもっと年配の、経験に
富んだリーダー的人物が背後にいるのではと窺わせたからだ。
 そう率直に話すと、
「それなら、私が影のボスになるのかい? 私はそんなに老け込んじゃいないよ」と陽子にから
かわれたが。

 まずしなくてはならないのは情報交換。彼の持つ葛城梁のアメリカ時代の知識と、これまでに
彼女たちの集めたデータを可能な限り詳細に伝え合う。

 セリザワの記憶にある大学での葛城梁は、どちらかといえば広く浅くではなく、狭く深くという
人間関係を結んでいた。それでも社交を避けるほど人付き合いは悪くなかった。パーティーや
イベントにはよく姿を見せたし、機知に富んだジョークはいつも周囲を楽しませた。学業も
スポーツも卓越していて、東洋風の端正な顔立ちとなれば女性が放っておくはずもなく、
様々な形でのアプローチがなされていたのは学内でも知られていたが、誰とも適当な距離を
置き、決まった相手と交際することはなかったようだ。

 金銭面での苦労を感じさせることはなく、大規模な農場を経営しているらしい実家からの
送金のみで生活していた。セリザワがそうだったようにアルバイトをして学費を工面する学生が
珍しくなく、社会経験のために余裕があっても機会をみて働く学生がアメリカには多いが、
葛城梁はそういうことには無関心だった。

 専攻は東アジアの現代政治分析。1945年以降のアジアにおける国際情勢についてだった。
これまでの主流であった共産主義と資本主義の対立に主眼を置かず、紀元前から続く民族間の
関係に着目した論文が注目され、卒業時には最も優秀な学徒に贈呈される記念メダルを授与
されている。

 さらに所属した陸上部では、1万メートル走でカリフォルニア州の強化チームに選ばれたほどの
実力。陸上大国のアメリカで、しかもカリフォルニアほどの大きな州で選抜されるのは、並の国
ならオリンピック代表に匹敵するほどのレベル。しかし、学業に差し障りがあると辞退して周囲を
残念がらせた。

「なんか、完璧な人だね」
 鮎が呟く。
「ああ。だからこそCIAに目を付けられてしまったんだろう」

 アメリカの優秀な大学生は卒業後、多くが民間入りする。才能次第でいくらでも稼げる社会に
あっては、俸給の低い公職を積極的に選ぶのは珍しい。
 アメリカの公務員は日本ほど身分が安定していない。上級スタッフになればほとんどが政治
任命であり、共和党の大統領が敗れ民主党の大統領が就任すると、それまでの共和党系の
スタッフはあっさりと辞任し(実質は解雇)、民主党系の人物がやってくる。逆もまた然り。

 一例を挙げると、国務省の外交局員が最後に目指すのは大使の椅子だが、これには議会、
上院と下院での承認が必要である。つまりは政治的に任用が決まる。有能でありながらこの壁に
阻まれた官僚は星の数ほどいる。

 例えば共和党の大統領に期待された大使候補がいたとする。この場合、議会は民主党が
多数を制していることが多い。どうしてか大統領を輩出している党はアメリカの下院議員を
選出する中間選挙で敗北しやすいのだ。当然民主党はそうやすやすと大使への指名を認め
ない。ホワイトハウス側の譲歩、すなわち取引材料を求めるのだ。つまりは政策の一部を
野党側の主張に近づけろということ。そして取引が成立しなければ大使任命は多数決に
よって否決。フランス大使の重責もこなせる人物が、せいぜいチャドやパプアニューギニアに
赴任するのがやっとということになる。

 こういう現状はアメリカ国民ならわかっている。最初から政治的な保護を受けられるような
名門の子弟であれば別だが、日系人の葛城梁にとって国務省というのは働き甲斐のない
職場だといえる。だからセリザワは一年先に入局して、彼を誘った時によい返事は期待して
いなかった。

 どうして彼が国務省に入ったのかはわからない。だが事の経緯から推察すると、最初から
CIAに入ることが決まっていたのかもしれない。外部の目をくらますために別の役所に入れて、
それから転属させるというのはしばしば使われる手段なのだ。

 共にワシントンのザ・ビルディング(庁舎)にある日本課で机を並べて仕事をしている間は
退庁後や休日に食事やレジャーを楽しんだ。しかし『別の政府機関』に移ってからは連絡を
取るのも苦労した。携帯は繋がらない、E-mailの返事もなかなか戻ってこない、ワシントン
郊外にあるというフラットを訪ねようにも正確な場所は話してくれない。

 これも推測だが、CIAで様々な訓練を受けていたのではないだろうか。ウァージニア州
シャーロッツヴィルの北西には、『チェスナット・リッジ・ファーム』と呼ばれる広大な敷地の
CIA訓練施設がある。
 通称『ザ・ファーム』
 ここでは肉体的な鍛錬に加えて国外での工作活動に必要な特殊技術を修得するらしい。

 『国外での』と制限をつけたのは、公的にはCIAはアメリカ国内での情報工作活動を禁じ
られているからだ。ウォーターゲート事件の教訓から厳しいものになったルールだ。

 これは民主党のニクソン大統領がCIAにワシントンDCウォーターゲートにある共和党本部の
電話盗聴をさせた事件である。大スキャンダルとしてワシントン・ポスト紙にすっぱ抜かれ、
発覚によって彼は合衆国史上唯一の辞任した大統領になった。

 この推測が当たっているならば、葛城梁は国外でスパイ活動をする諜報工作員として養成
されていたことになる。ただの情報分析官なら訓練は不要だからだ。
 日本語が堪能な彼を中国やイランへわざわざ送り込むはずもなく、想像力を働かせなくても
来日が任務と二人連れだったことは予想がつく。

 日本で、札幌で、3年もの歳月を何に費やしていたのか。






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