渦紋の果て <3>



 再びターニャがセリザワに電話を掛けたのは、接触してから2日の間をおいてからのことで
あった。

 最初の接触の翌朝。
 カーテンで日光を遮られた春野家の書斎で目覚めた彼女は、サイドボードに置かれた腕
時計が既に11時を指していることに「えっ?」と息を呑んだ。いつも眠りが浅く、こんなに
寝坊するなんて滅多にないのだ。
 ベッドから体を起こしそっとカーテンをめくると、街は灰色の雨に煙っていた。滴のひとつ
ひとつがざわめきを包んで消しているかのように静寂な風景。

 雨は、好きではなかった。
 いい作品ができないから。
 湿度のせいなのか、気圧のせいなのか、
 それとも気持ちのせいなのかはわからないけれど。

 そんなことを話すと、梁はこう言った。
 「ガラスの傘を作らないか? 雨粒がメロディを奏でるようなのを。ガラスを輝かせるのは、
太陽だけじゃないだろう?」

 本物の傘のようにしたら重たくなってしまうから、彼女は次の雨の日に、彼の手にミニ
チュアの傘を握らせた。
 あの青空の色をしたガラスの傘は、どこにあるんだろう。


 控えめなノックが、あてどなくさまよう意識を呼び覚ました。
「ターニャ、起きた?」
「はい」
 かちゃりとドアが開き、陽子が姿を見せる。
「どう、具合は」
 ターニャは胸に手を置いて鼓動を感じ取る。いくらかの違和感が残っているが、我慢でき
なくはない。
「もう、平気です。ごめんなさい。私・・・」
 下半身を覆う掛け布団をどかし、立ち上がろうとする。両肩に手を置いて制する陽子。
「いけないよ。まだ休んでいなさいな。薫さんがね、今日と明日は横になっていなきゃ駄目
だって言ってたからね。お医者様の言うことは聞くもんだよ」
「でも・・・」
「午後になったら薫さんが顔を出すから。その時に青い顔してたらもっと寝てることになるよ。
休むのも大事なことなんだから、ね」
「ご迷惑をかけてばかりで、本当に、ごめんなさい・・・」
「いいんだよ。娘が増えたみたいで私は嬉しいぐらいさ。今、飲み物を持ってくるから」

 半身を起こしていられるように、いつもは琴梨の部屋にある大きなクッションをターニャの
背中に当ててから、陽子はキッチンへ戻った。娘が用意しておいてくれた林檎風味のアイス
ティーをトレイに乗せて、再びターニャの元へ。

「すいません」
 ターニャはそう頭を下げる。
 陽子にはわかる。
 部屋を出て戻るまで、彼女が窓の外だけを見つめていたことが。
 宙を舞う翼でも、霞んだ住宅街でもなく、彼女自身の空洞を見つめていたことが。

 グラスを手渡すと、ターニャは少しずつ味わって乾きを癒す。陽子は彼女と隣り合わせに
なろうと、ベッドに腰を下ろした。
 半分ほど中身の残ったグラスを両手で包み、琥珀色の水面に揺れる自分の表情を見つめる。
「あの、セリザワさんとのことは、どうなったんですか?」
「万事うまくいったよ。これからも協力してもらおうってことになってね。でもまぁ、それはこれ
からのことさ。どうやらここも安全のようだし、少し間を置こうってことになったんだよ。みんなも
色々と忙しいしね」
「そう、ですか・・・」

 また、あの3文字のアルファベットが拡大されて
 心のスクリーンを埋めてゆく。
 梁・・・・・
 あなたは・・・・


 昨夜の涙の跡が、うっすらと残る横顔を見つめていた陽子が沈思の波に飲まれてゆく彼女に
声をかける。
「・・・・・ねぇ、ターニャ」
「はい」
「ここは、私の死んでしまった夫が使ってた部屋なんだよ」
 そうとは知らなかったターニャは落としていた視線を上げて、机や書棚を見回す。
「あれから、もう12年になるんだねぇ」
 少しだけ目を閉じてから、陽子は話し始めた。


 札幌も30度を越える、8月のひどく太陽のぎらつく日だった。
 結婚してからも仕事を続けていた陽子の休日。
 出張で関西へ向かう春野響をまだ幼稚園生だった琴梨と札幌駅まで送り、買い物をして、
家に帰って、何年経ってもなかなか上達しない家事をこなした。
 車を降り、駅の構内に入る前に「行ってくるよ」と手を振った姿が最後となったことなど知る
由もなく。

 電話は夕方にかかってきた。

 錯綜する情報。
 ただただ安否を確認したいという願いが最悪の形で叶ったのは、夜半過ぎになってからの
こと。

 エンジニアだった夫が、化学工場の爆発事故で落命したと。

 それからのことは、憶えているようで憶えていない。記憶に連続性がなく、アルバムをばら
撒いたかのように音の無い映像だけが残っていて。
 いつの間にか集まっていた親戚たち。
 朝一番の飛行機で関西へ。
 初めての飛行機に眠気も失せてはしゃぐ琴梨。
 タクシーのラジオから流れる事故の報道。
 マスコミが集まる病院玄関。
 霊安室。

 有毒ガスによって絶息した夫の顔は、傷一つなくて。
 それでも、再び「ただいま」と言ってはくれなかった。

 生涯を共にすると誓った人を、彼女の熱い滴が濡らした。

 琴梨はその時、外で大好きな愛田のおじさんとおばさんに遊んでもらっていた。まだ、泣き
笑いという表情の意味がわからずに。

 どうしてめぐみちゃんはいないの?
 おとうさんね、ことりにね、あしたうみにつれてってくれるってやくそくしたんだよ。おじさん
たちもいこう。
 ねぇ、いっしょにいこうよ。


 しめやかに行われた葬儀。
 参列者の前でも、陽子は気丈に応対することだけを考えていた。
 泣いてはいけない。
 琴梨がいるんだから。
 この子には、私しかいないのだから。

 法的にも一切の手続きが終わり、世の中にとって春野響の死が過去のものになった日、
陽子は琴梨を連れて街へ出た。

 初めて二人で出かけた公園。
 いつも待ち合わせていた橋。
 「好きだ」と言われた木陰。
 プロポーズを受けた海岸。

 そのいずれも、枠組みしか残っていない骸骨だった。

 二人の新しい命が宿ったことを話した時、顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
 毎日姓名辞典とにらめっこをして、漢字を選んでいた。
 やっと琴梨を抱き上げた時、ひどい寝不足で眼の下には隈ができていた。
 「会社に遅れるわよ」と何度も言わないと、ベビーベッドから離れようとしなかった。
 初めて立った瞬間を見逃したことを本気で悔しがった。
 昨日「パパ」と娘が言ってくれたと、会社中に言ってまわったらしい。

 陽子の誕生日にも、結婚記念日にも、仕事で家を空けなくてはならないことがあったりもした。
「ごめんな」
「いいから、しっかり働いてくるんだよ」

 本当に、そんなことはよかった。
 ただ、帰ってきてくれれば。


 いつしか、偶然の神様が二人を引き合わせてくれた場所に陽子は立っていた。

 夏の過ぎたばかりのスキー場。
 閉鎖されていて誰の落とす影もなく、野鳥のさえずりだけが動きあるものの証だった。

 どうしてそこにいたのか、よくわからない。
 でも、心のどこかに、少しでもあの人に近づきたいという気持ちがあった。

 追いかけてしまえば。
 一線を乗り越えてしまえば。
 こんなに苦しくないはず。
 こんなに悲しくないはず。
 そんな考えが、じわじわと理性を侵食してゆく。

 許されないことだとわかっている。
 あの人だって、そんなこと望んでやしない。
 でも、この身も心も引き裂かれる痛みにずっと耐えてゆかなくてはならないなんて、辛すぎて。

「ママ」
 手を握る琴梨が呼ぶ声も、どこか現実ではないように聞こえて。
 彼女はずっと、彼方の山嶺と深く切り立った崖だけを視界に入れていた。
 きゅっと、強く握られた。
「ママ、パパ、しんじゃったの?」

 びくりと体が震えた。
 言い知れぬ脅えを感じたせいだ。
 今日まで、誰も父親が死んだとは教えていないのに。
 真実を無理に理解させることなど、できる者はいなかった。

 しかし、疲れ果てた陽子にはもう嘘をつく余裕が残っていなかった。
 痺れた脳が、呟かせた。
「そう、だよ・・・・・」
「いつまで? いつかえってくるの?」
 ゆっくりと琴梨を見る。
 見上げている娘の瞳から、溢れそうな涙。
 わかっているのだ。
 父親がもうこれまでのように一緒にいてくれなくなったことを。
 死というものが、取り戻すことのできない喪失であることを。

「もう、ずっと、ずっと、帰ってこないんだよ。遠くに、行っちゃったからね・・・・・」

 琴梨の目線までしゃがみ、しっかりと抱きしめる。
 そんなのやだよ、やだよと耳元で繰り返す娘。
 首に巻きついた腕はあまりにも細く、か弱かった。

「ことりがいいこにしてなかったから?
ことりのこときらいになっちゃったから?
ちゃんとごめんなさいっていえば、かえってきてくれる?」
 母親の肩が、焼けるように湿った。

 どれほどそうしていただろう。
 自らの涙が止まるまで、陽子は抱きしめていた。

 まだしゃくり上げている琴梨の体をそっと離す。
「パパはね、琴梨のこと大好きだよ。今も、これからも、ずうっと。
・・・・・だからね、琴梨が、パパのことをずっと好きでいれば、いつか、帰ってきてくれるよ、
きっとね」

「ほん、とう?」

「ほんとう。パパはね、どんなに遠くにいたって、琴梨のこと、ちゃんとわかってるんだよ。
いつでも、見守っててくれてるの。パパは、いなくなったわけじゃないんだよ」


「・・・うん。ことり、まってる。パパのこと、まってる。
パパのこと、だいすきだもん」



 一息ついて、部屋の天井を見上げる陽子。
「いろいろなことを考えたよ。最初からあの人と出会ってなければよかった。そうしたら、こんな
思いはしなくてすんだのにって。
 一緒にいた時の思い出のひとつひとつが、切り刻まれるように痛いんだ。夢の中でさえね。
台所のコップも箸も、洗面台の歯ブラシも、玄関の靴も、この家にあるなにを見ても記憶が
引き出されて痛いから、いっそ目が見えなくなった方が楽だった。
 この部屋になんか入れなくてね。時々親戚の人に掃除してもらっていたぐらいさ。引っ越せ
ばってみんなに勧められてね。そしたらね、琴梨が言うのさ。
『パパがまいごになっちゃう。パパのおうちはここだもん』ってね。
私も、苦しかったけど、ここを離れるなんてできなかった。ここは、3人が暮らすために買った家。
余所へ行ったら、そこは2人のためだけの家になるだろ。その方が、もっと辛かった。
 あの人がいて、琴梨がいて、私がいたことは、私たちだけしか持っていられない大切な
思い出なんだから」

 ターニャの手に、手を重ねる。
 あの時の琴梨の手と、どこか感触が似ていた。

「過去を忘れてしまうのは、どんなに辛い過去でも悲しいものなんだよ。悲しく思いながら、
大事にしていれば、いつかきっと一人の時に微笑ませてくれる。前に進む勇気をくれる。
そう、私は思ってるんだよ」

 言葉の余韻がターニャを暖めて、そっとくるむ。母がここにいたら、こう言ってくれるのだろう。

 陽子はほっ、と息をついてから、ベッドから立ち上がる。
「なんだか、つまらない話をしちまったね。お腹が空いただろう。琴梨がボルシチをつくっていって
くれたから、暖めてくるよ。本格ロシア風にしたらしいから、楽しみに待ってなさいよ」

「陽子さん」
 立ち去る背中に、声をかけずにはいられなかった。
「ありがとう、ございます」






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