渦紋の果て <2>



 リビングでは、議題が尾行のことに移っていた。

 最初の電話連絡から円山球場でのランデブーまで、3日越しの作戦はまったく妨害なく
完了した。全員が警戒を怠らなかったにも関わらず、尾行者の陰すら発見することは
できなかった。これはどういうことだろうか。

 これまで尾行者がいたと確実に考えられるのは誘拐前の陽子とネットカフェで会った
直後の梢。しかし尾行者そのものを見つけたことはない。
 よほど巧みなテクニックを持った相手なのだろうか。今日も一昨日も、8人の行動をすべて
追おうというのなら10人や20人の人手ではとても足らないだろう。敵はそれほどの配下を
抱える組織なのか。そうではないから、尾行者がいなかったのか。

 CIAはそれだけの人手を持っているだろうか。人数がいても、アメリカの機関なのだから
白人が多いはず。やたらと外人が周囲をうろちょろしていれば、素人の彼女たちでも気がつく。
東洋人なら見破りにくいが、警戒している彼女らを欺く高度な尾行技術を持った人員が
何十人もいて、一人もミスをしないというのも過大評価ではないか。

 結果として、セリザワとの会合を遮られることはなかった。彼の持つ情報はCIAからすれば
秘匿すべきもののはず。葛城梁を堂々と指名手配して探さないことからも、隠密裏に彼を
拘束したいのだ。マスコミ関係者も含むターニャたちとセリザワの接触は好ましいものである
はずがない。なんとしても阻止しようとしてくるはずだ。

 葉野香が指摘する。
「だとするとだよ、CIAは私たちのことを知らないってことかな」
「ターニャのことをセリザワさんが黙っていたんだから、葛城梁が他に喋っていなかったら
彼女についてはそうなるよね。葉野香さんがあの事故を調べ始めて、ターニャに出会うまでに
誰か別の人が同じことを調べているなんて話は聞かなかった?」
 鮎の問いに、記憶を遡行して彼女を見つけるまでの3週間を子細にチェックした。
「全然。私がターニャを知ったのだって半分偶然だしね。話を聞きに行ったのは私が最初で
最後のはずだよ」
「なら、CIAもターニャのことは掴んでないのかな」陽子が疑問を呈する。「私たちとの関係から
あの子のことを知ったって可能性はあるんじゃないかい」
「う〜ん。だとすると、今日邪魔が入らなかった理由がわかりませんね。CIAは葛城梁の死を
目撃した3人に接触しようとして当然なのに、話を聞きに来たのは葉野香さんだけ。これは、
事故の直後からあそこで死んだのは葛城梁じゃないとわかっていたからかもしれません。
逆に、死んだという警察の発表を信じて一件落着と思ったのか。どちらにせよ、ここを監視して
いればターニャのことも私たちのこともわかるはずです。それでも今日何もなかったのは、
CIAは葛城梁を追っていても別の手がかりを探しているってことでしょう」

 薫の意見に目を丸くして驚いたのは梢だった。
「じゃ、私のマシンに侵入したのってCIAじゃないの? てっきりそうだと思ってた。それぐらい
簡単にできそうだから。でも違うってことになるのか」
 由子が指をパチンと鳴らした。
「あ、だったら陽子さんを狙ったのもCIAじゃない?」
「その方が筋が通るのは、確かだね」
 性急に結論を出さないように、あえて薫はゆっくりと話す。

 メモを取っている琴梨の手が止まっていた。
「だとすると、余計わかんない。事故を目撃したから葛城梁を追ってた人たちがお母さんを
狙ったんだよね。じゃ、葛城梁は別々の2つの組織に追われているってこと?」
 つじつまを合わせてゆくと、そうなる。
 ここまで、誰もはっきりと決めつけてはいないにせよ、葛城梁を射ったのも、彼の経歴を
抹消したのも、陽子を誘拐したのも、梢のパソコンに侵入したのも、高速道路での死を演出
したのも、一つの組織だというのが共通の認識だった。
 手がかりが増えるたびに、謎は複雑に絡まってゆく。
 この果てにあるはずの真相は、どんな顔をしているのか。

「それじゃ私たちは、CIAには見つからないようにしながら別の組織と対抗するってことになる
ね。ますます難しくなってくるよ。知恵比べだね」
 そう言う梢の表情には、まだミステリーゲームを楽しむような余裕があった。しかし、それを
不謹慎だと思うものはいなかった。こういう闊達な積極性がなくては、出口の見えない、血と
硝煙の臭いでむせ返りそうな迷宮を歩いてなどいけないだろうから。

 葉野香が考えを進める。
「逆にこの『別の組織』ってのは、セリザワさんのことは知らないわけだよね。私たちを監視して
て、梢さんと接触してすぐにハッキングしたのはきっとこいつら。だとすると、セリザワさんも同じ
ように接触されるんじゃないかな」
「電話して、警告しようか」
 琴梨の心配に、口元へ手をやってしばらく思案した薫は首を振った。
「・・・・・やめておきましょう。彼がパソコンを持っているかどうかわからないけれど、国務省で
仕事をしているぐらいなら機密保全の方法ぐらいわきまえているでしょうし。もし彼になんらかの
アクションがあったなら、それは今回の作戦が敵に筒抜けだったという証明になるわ。尾行も
監視もまだ続いているということもね。次に会う時に話すことにしましょう」

 一応の対策が定まったところで、梢が深呼吸をして硬直気味の背筋を伸ばした。それを見て、
葉野香や鮎なども肩を回したりして一日の緊張と疲労で強ばっている体をほぐす。誰にとっても
長い日であった。
 まだ話し合わなくてはならないことはあったが、ひとまず休憩というのが暗黙に了解された。

 琴梨は冷たいものなどを用意しようと席を立ち、鮎と葉野香が手伝いについてゆく。窓を開け、
外の空気を味わう由子。ターニャの様子を見に行く薫と陽子。

 なんとなく取り残された梢はテレビのリモコンを手にした。いつも見ているバラエティ番組でも
と思ったが、生憎野球中継のせいで中止のようだった。札幌にもプロチームのあるサッカーや
漫画ならともかく、スポーツとしての野球に興味はない。チャンネルを次々と替えてみても、
子供向けの動物番組や続けて見ていないとストーリーのわからないドラマぐらいしかやって
いなかった。最後の局で流れていたのは、ネクタイ姿のおじさんたちが大型ディスプレイに映る
地図を背景にした報道番組。諦めて切ろうと思った時に、由子がソファーに戻ってきた。

「あ、この問題の特番やってたんだ」
「これって?」
「シベリアの独立問題。なんか内戦になりそうでさ。そうすると面倒なんだよ。一応隣の国
だからね」
 まぁ、海を挟んでも隣には違いない。
 しかし番組で注目されているのはユーラシア大陸のど真ん中。モンゴルの北くらいの地域だ。
日本から何千キロも離れている。「なんで?」という梢の疑問ももっともだ。
「自衛隊も警戒体制ってやつで休みが削られたりするんだ。日本と関係ないってのに。働か
せる人は気楽にああしろこうしろって言うからね。うまく収まってほしいもんだよ。私の非番の
ために」

 画面がスタジオから外へと移った。
 [衛星LIVE]との字幕が右隅に浮かぶ。
『現在、交渉は行われているんでしょうか』
『はい。自由シベリア党を中心とした交渉団は、昨夜ここ、ノボシビルスクに到着しました。
シベリアの全権代理メイステル氏はロシアの特命大臣ソコロフ氏と2度に渡り会談しています。
しかし、シベリア側は先の選挙結果を尊重することを強く要求し、ロシア側は人民代議員大会
での討議を約束するに留まっていることから、難航しています』
『シベリア側は国連の仲介を受け入れると発表したそうですが?』
『ソコロフ特命大臣は、これはあくまでロシアの内政問題であるとして国連の動きに不快感を
示しています』
『軍隊の動きについては、何か入ってきていますか?』
『すでにシベリア側はクラスノヤルスクから東の地域に駐留している部隊を掌握していると
見られています。一方ロシア側もテレビやラジオを通じて離反した部隊への引き戻し工作を
行っていますが、まだ反応らしいものはないようです。ロシアはこの地域の安定のために西部
国境方面からいくつかの師団を転用すると発表していますが、到着には数週間かかる見込み
です』
『交渉の見通しについては、現地ではどう見られていますか?』
『ロシア側もシベリア側も弱みを抱えています。ロシアの経済は平和を必要としてますし、
シベリア側はここで独立を強行すれば国際社会からの承認を受けずらくなるということもあり、
国家予算の配分方法の是正以上の要求はまだしていません。歩み寄りの余地は充分に
残っていると思われます』
『はい、ありがとうございます。ノボシビルスクから倉沢特派員に伝えてもらいました』

 頭痛薬のCMへと変わる画面。
「わかった?」
「ぜーんぜん」
「だろうね」
 二人が笑ったところに、薫や琴梨たちも戻ってきた。梢はそれを汐時とテレビを消す。
 ターニャはよく眠っているよとだけ陽子が伝える。
 薫も陽子も、白磁のような彼女の頬に目尻から伝わっていた涙の跡を見つけたことは心に
秘めていた。

 大皿に盛られたクッキーを摘みながら、雑談気味に話題を舞わせる。だが、どうしても目の
前のことに収束してしまう。

「国家反逆罪っていかめしい名前だけど、実際はどういうことをするとこれに該当するんだろう
ね」と鮎。
「言葉からすると国に逆らうってことだよね。自分の国の秘密を外国に売り渡したりすること
とかかな。日本だとなんていう違反なんだろう」
 葉野香の疑問に、陽子が席を立つ。
「たしか六法がどこかにあったね。ちょっと持ってくるよ。アメリカの法律とは違うだろうけど、
参考ぐらいには」
 由子は隊で機密保全の講習を受けたことを思い出した
「自衛隊でそういうことすると、自衛隊法違反だね。アメリカだと国家機密保護法ってのが
あるんじゃないかな」
 すぐに陽子は戻ってきた。目次のページを繰る。
「これには自衛隊法ってのは載ってないね。反逆罪なんてのもないね。憲法じゃないし、あ、
似たのがある。刑法。『内乱に関する罪』っての。読むよ。政府を転覆し邦土を・・・」

 刑法の77条以下の条文によって、『内乱罪』とは国家の政治的基本組織を不法に破壊する
ことと定められている。首魁は死刑または無期禁固のみ。さらに81条からは『外患に関する
罪』について規定があり、外国を誘致して日本を侵略させたり、それを手伝ったりするのも
死刑などによって厳しく罰せられることになっている。しかし、実際に適用されたことなどない
ようだ。
 短く解説が載っていた。それによると、仮に日本の総理大臣を暗殺しても、それだけでは
内乱罪の構成要件を満たさない。内閣制度そのものを破壊する目的での犯行ならともかく、
単に総理大臣の政策に不満を持って暗殺をしても、それは単なる殺人罪なのだ。
 つまり組織的に現体制を破壊し、新しい政体へと革命を起こすような行為になって初めて、
内乱罪となる。過激派の爆弾テロなどであっても爆発物取締法や傷害罪で裁かれているようだ。

 葛城梁がかけられた嫌疑が、いかに重いものかを窺わせる。
 国家に対する背信行為。
 通敵。
 売国。

 セリザワは、彼がそんなことをするはずがないと言った。
 そう彼を信じていると。



 ターニャも、信じているのだろうか。






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