第5部 渦紋の果て



 ターニャの昏倒。

 この緊急事態を受けて、メンバーは急遽春野家に集合することになった。
 本来は薫のマンションでターニャが、春野家で陽子が二手に別れたメンバーにセリザワから
聞いたことを説明することになっていたのだ。しかし、今日の重要な作戦中でも尾行されて
いる気配がなかったことから、少なくとも現時点では監視を気にする必要性はないだろうと
判断された。

 リビングに揃った彼女たちの表情は冴えなかった。時折、琴梨が薄めに煎れた紅茶を口に
する以外に唇が動くこともない。

 薫がかつて陽子の夫が書斎に使っていた部屋から戻ってきた。
「薫さん、どうでした?」
 待つだけの無力さに耐えかねていた葉野香が立ち上がる。
「もう落ち着いたわ。薬が効いているから、安静にしていれば回復するわ。あのまま寝かせて
おきましょう」
 もう心配ないと、薫は意識して笑って見せた。患者を心配する人を安心させるのも、医師の
職務だ。

 ターニャは意識を取り戻さないままここに運ばれた。マンション前で待っていた薫が必要な
処置を的確に施し、危機を脱した今は、琴梨のパジャマを着せられてベッドに横たわっている。
心臓に抱える病の発作だった。


「話が、よっぽどショックだったんだろうな・・・」
 ソファーに腰を下ろした葉野香が、誰にともなく呟いた。

 薫のために紅茶を琴梨が入れ直す。
 ありがとう、と喉を潤す彼女。
「それで、詳しい話を聞かせてくれますか、陽子さん」
 治療に当たっていた彼女は、葛城梁がCIAらしいということしか聞かされていなかった。
他のメンバーもおおまかな説明を受けただけだ。

 改めて陽子が、最初から会談の内容を再現する。
 アメリカ生まれの葛城梁。
 スタンフォード大学へ進学。
 優秀な学業成績と身体能力。
 国務省からCIAへ。
 日本への転勤。
 そして、国家反逆罪の嫌疑。


 葛城梁がCIAの職員だというのは誰にとっても想像もしていなかったことであった。

 映画や小説で描かれるCIAとは、ハンサムな銃や格闘技の達人が美女と組んで妨害を
乗り越えて、悪人の陰謀を食い止めるというイメージがある。
 その反面、他国に潜入して機密情報を盗んだり、爆弾を仕掛けて破壊工作をしたりする
シーンも多い。
 法や道義を無視し、国益だけを追求するというアメリカの闇の軍勢・・・・・


 007ことジェイムズ・ボンドのように空を飛ぶ車を操ったりするのが絵空事だとは常識で
わかるが、情報活動の実態など彼女たちに知識があるはずもない。
「このことだけでは葛城梁の善悪は判断できないよ」
 そう言ったのは由子だった。
「日本にもCIAみたいなことする機関はちゃんとあるんだから。それにいろんな役割とか
あると思う。事務員とか会計係だっているだろうし。なんていうか、スパイだって決めつける
のは早計だよ」

 スパイ。

 あまりにも陰湿に響く言葉が、どす黒い霧となってテーブルに置かれたターニャと葛城梁の
写真を覆う。
 この青年が、スパイなのか。
 言われてみれば機敏そうな体格をしているし、4年も交際したターニャに過去のことを気取
られることがなかったのは鋭い頭脳があってのことだろう。

 セリザワは言った。
 梁は引き抜かれてCIAに入局したと。
 ただの事務員や会計職員を、わざわざよその役所から連れてくることは現実的にありえない
だろう。
 札幌にいたのだから、日本語の能力を見込まれて日本を対象とする部署に配属されたと
考えるのが自然だ。由子にも、それはわかっていた。

 彼の任務はいかなるものだったのか。

 そして彼はアメリカ政府に追われているという。
 反逆という罪名で。

 彼は何をしたのか。

 葛城梁がCIAの人間なら、下っ端だったとしてもターニャに正式な所属を明らかにしない
のは理解できる。彼が話したくても、職業的な義務で話すことを禁じられているはず。彼女に
職務として接触する理由はないし、梁とターニャの関係は偶然の出会いによって紡がれた
恋愛であろう。
 しかし、アメリカ出身であることやどの大学にいたかを隠す必要があったとも思われず、
家族だっていたようだ。
 こういう嘘をつく理由が見えてこない。

 銃撃された夜、彼を追っていたのはCIAだろうか。
 高速道路で死んだ男もそうだろうか。
 伯父と名乗った葛城啓二もそうだろうか。
 陽子を尾行したり誘拐しようとした男たち。
 梢のパソコンに侵入した誰か。

 どうすれば敵の正体が掴めるのか。

 今日のことで、少なくともセリザワは敵ではないと確認できたように思える。もし敵なら、
こちらからの接触を利用して襲撃を図るなり脅迫するなりできたはずだ。どこにも接触の
様子を探ろうとする気配はなく、周到な計画も空振りに終わった感覚がある。

 問題は、セリザワ自身にある。
 彼が葛城梁の親友だというのは本当だろうか。

 写真という証拠もあったし、説明は突飛ではあったが筋は通っていた。だが敵がこちらを
一網打尽にしようとしているなら、まずターニャたちをを信用させ、内部に潜入しようとする
だろう。

 彼を信用できるか。

 信用しなかった場合、二度と彼と連絡を取ることはない。そうすると、CIAという世界最大
最強であろう秘密組織にこの8人で対抗することになる。既に手がかりはなくなってきている
のだ。一層の困難と危険が予想される。
 信用しないとすれば葛城梁がCIAだという話にも大きな疑問符が添えられるわけだが、
武器を持つ相手に狙われているという事態は変わらない。

 信用した場合、セリザワの情報は極めて貴重だ。こちらが掴んでいる情報を与えれば、
葛城梁がなんのために札幌にいたのかなど抱えている疑問を調べることができるだろう。
政府の役人ならターニャたちでは手の届かない情報源も利用できるのではないか。


 どうすべきか。
 直接スティーブ・J・セリザワの顔を見て話をしたのは薫・由子・陽子・ターニャだ。
 それぞれの印象はこうだった。

 薫。
「不可解な指示を受けて動かされたことに不満はあったようだが、ターニャと会うためならば
あの程度の障害には耐えるという強い意志が見られた」

 由子。
「アイマスクを着用する時に恐怖を感じていたのはわかったが、移動中もよく自制していた。
何度が皮肉を洩らしたように、感情を隠すタイプではないようだ」

 陽子。
「会談の間、周囲の状況に気を払う気配がほとんどなく、話に集中していた。語り口は秩序
立っていて、分析的な思考力の高さが伺えた。日本語はうまかったが一部にアクセントの
違いがある」

 明確にセリザワを疑う根拠はなかった。
 もし陽子誘拐犯の仲間だとしたら、ターニャと陽子が一緒にいたチャンスをみすみす逃す
とは考えにくい。
 葛城梁の友人なら、彼を追い、撃った相手とも無関係のはず。
 しかし、どうしても語尾にはクエスチョンマークが付く。
 彼を見てすらいない鮎も、1時間以上も話をした陽子も、決断できる材料が足りないという
点では同格であった。

「また、あの人と連絡する?」
 琴梨が論点を引き戻した。
 それぞれが目を見交わす。
 やがて由子がためらいがちに口を開く。
「ターニャの判断次第だと思ってたんだけど・・・」
「かなり動揺しているから、今は彼女に結論を強いるわけにはいかないわね」と薫。
 薫も歯切れが良くない。誰もが断定的な発言を避けようとしている。

 テーブルの上でずっと触れられることもなくスクリーンセーバーの画像を泳がせている
パソコンを、梢がぱたんと閉じた。
「でも、選択の余地ってあるの? 最後の手がかりだよね。疑わしい部分もなくはないけど、
この人に協力してもらわないとこれ以上はどうにもならないんじゃない?」
 その指摘は鋭かった。

 セリザワの信頼性など保証できようもない。事ここに至っては、様子を見ながら「チーム」と
連携して謎を探っていくしかないだろう。その結論を下すことを誰もが避けて、結果的に
ターニャに判断を押し付けるような形になりかけていたことを気づかされた。

 葉野香は、まだ知り合って10日もたたないのに、どうしてか親友と呼べる存在になれる
ように感じる彼女が眠っている部屋をじっと見つめた。
「ターニャはきっと、もう連絡しない方がいいって言うな」
「迷惑をかけるからってね」
 鮎も頷く。
「だからさ、私たちみんなで決めたって言おうよ。セリザワって人だって協力したがっているん
だから、それでいいよ」
「うん。そうしよう」
 梢の意見は、全会一致によって承認された。







 白い記憶。

 これは、霧・・・・・?

 雲・・・・・?

 雪・・・?


 そう

 雪

 小樽の雪

 どんな過去も美しくしてくれる祖国の雪じゃない

 こんなに暖かい雪だから



 彼がいる

 うつむいた横顔は、やっぱり寂しそうで

 でも、わかってる

 魔法を一つ使うだけで、彼が微笑むのは

 ガラスの指輪に触れてから、こう言うの

 「梁」

 これだけ

 違う言葉でもいい

 彼が振り向く言葉なら

 「ずいぶん早いんですね。まだ待ち合わせまであるのに」

 「待ちました?」

 「次は、どこに連れてってくれます?」

 今日は、どの魔法を使おう



 なのに、遠くに消えてゆく背中

 彼の姿が、白く霞んでゆく

 追いかけても、追いかけても、雪が彼を隠そうと降り積もって

 手が届かなくて

 声が出てくれない

 魔法の言葉が言えない

 このままじゃ、また私は・・・

 私は・・・・・

 独りきりになってしまう・・・・・








 黒い現実。

 はっと瞼を開けた時、世界は白から黒へと一転した。

 厚いカーテンが閉められ、暗くなった部屋。
 壁の時計が奏でるメトロノームのような単調。
 ドアの四角い形そのままに洩れてくる廊下の灯。

 目が慣れてきて、そこが春野家なんだとぼんやりとわかった。

 もうすぐ記憶に痕跡を残さずに消えてしまう夢が、最後のリプレイをする。

 巡る想い。
 行き着いて、涙が止まらない。
 だから彼女は枕に顔を押しつけて嗚咽を隠した。








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