クロスワード・サークル <9>



 プラスチック製の、歳月を経て退色したオレンジ色の座席から立ち上がって彼を迎える。
「スティーブ・J・セリザワさんですね。私がターニャ・リピンスキーです。ここまでの失礼をお詫び
します」
 そして深く頭を下げた。

「リピンスキーさん。やっと会えてうれしく思う。スティーブ・J・セリザワだ」
 差し出された日本人と同じ肌の色をした右手を、ターニャの白く華奢な手と陽子の一人娘を育て
上げた手が握った。
「心配なら言うが、怒ってはいない」
 ここまで内心穏やかではないものがあったはずのセリザワは、そんな気配を皮膚の下からちら
とも漏らさない。
「理由さえ話してくれればね。こんなにわけのわからない体験は初めてだ。あなたは?」
 名乗ろうとしない陽子に、暗に促す。
「私はこの子の友達さね。保護者だと思ってけっこうさ。あんたがこの子とどういう話があるにせよ、
私も一緒に聞かせてもらうよ」
「どうしても、ですか」
 不満足なのがターニャにも陽子にもわかる。二人だけで話したいようだが、彼女たちにとって
最大の切り札であり守りたい友人を委ねるわけにはいかない。
「どうしても、だよ」
 陽子はきっぱりと、言葉を返した。譲歩の余地のない態度に、小刻みに自らを納得させるように
首肯してセリザワは陽子の同席を受け入れる。
「わかった。まず、僕からリピンスキーさんに聞くことがある。リョウはどこにいるんだ?」

 それがわかっていたら苦労しないよと、陽子は周辺を警戒してゆっくりと歩き回っている由子を
見ながら思う。
 ターニャの答も一つしかない。
「・・・・・わかりません」
「この国に、この島にいるんだろう? 隠さないで教えてくれ。あいつの身になにかが起こってから
じゃ遅いんだ」
 懇願するような懸命さ。
 それに答える術のないターニャは困惑と自責の念で、端麗な顔立ちを歪めた。
 続きを引き取る陽子。
「この子も私たちも、葛城梁の行方は知らないんだよ。探している真っ最中なんだ」
「でも、リピンスキーさんはあいつの恋人なんだろう? 手紙にそう書いてあった」
「こちらから話すより、あんたに話してもらうことの方が先だね。あんたと葛城梁はどういう関係
なのか、包み隠さず説明してもらいたいね」
「大学の友達さ。座って話した方がよさそうだ」



 セリザワが葛城梁と初めて出会ったのは、梢たちが予想したようにカリフォルニア州にあるスタン
フォード大学でのことだった。
 日系3世で、子供の頃から祖父から日本語を教わっていた彼はその大学の東洋文化関係の
学部に進学した。そこに1年遅れて入学してきたのが葛城梁だった。
 留学生ではなく、新入生として。

 葛城梁は日系2世。ワシントン州シアトル近郊の出身で、当初から語学力を筆頭に学力はずば
抜けていた。更に陸上競技の1万メートル走では州の強化メンバーに真っ先に選ばれるほどの
運動神経の持ち主でもあった。

 住んでいた寄宿舎で隣室になったことがきっかけで友達となり、あらゆることを一緒にした。
陽性のセリザワと控えめな葛城梁の息はぴったりと合い、親友となるのに時間はかからなかった。


「これを」
 彼は内ポケットから一葉の写真を取り出した。
 セリザワと葛城梁が、何かの塔の前で肩を組んでいた。
「大学で撮ったものだよ」
 はにかんだ笑顔は、ターニャですら滅多に見たことのないものだった。


 そしてセリザワは卒業後語学力を活かそうと国務省に入り、日本課のスタッフとなった。翌年、
民間企業からの引く手あまたの誘いを受けていた葛城梁に進路を相談され、彼は国務省への
入省を勧めた。類稀な彼の知性を買ってのことだった。
 そして葛城はワシントンDCにある同じ職場、フォギー・ボトム(国務省)で国に仕えることに
なった。

 しかし1年もせずに、葛城梁は『別の政府機関』に引き抜かれてしまった。
 急なことに驚いて上司に尋ねても詳しいことは教えてくれず、どうやら上司も事情を知らないよう
だった。本人も、「ちょっと訳があってね」としか語らなかった。

 それでも月に1度ほどは会って食事をしたりしていたが、次第に約束が取れなくなりがちになり、
メールで近況を知らせ合うのがせいぜいになってきた。3年前、日本の北海道へ転勤することに
なってからは一度もこれまで会っていないが、札幌にいると聞いていた。


 そして先月。自宅マンションで出勤前の支度をしていた彼を知った顔ではない二人の男が訪れ
た。
 ともにスーツ姿。40代。
 過去の軍隊経験を推知させるクルーカット。
 年上のような一人には口髭。

 ずかずかと部屋に踏み込み、抗議の声などまるで意に介さず部下らしい男が部屋もバスルーム
もトイレもドレッサーも勝手に開けて改める。他に誰かいないかを確かめたようだ。

「お前ら何者だ。警察を呼ぶぞ」
 激怒してそう叫んでも、口髭の男は部屋の中央で腕を組み、部下が「誰もいません」と報告する
まで一言も口をきかなかった。

「我々は政府の人間だ。リョウ・カツラギについて、君の知っていることを全て話してもらいたい」
命令としか受け取れない強圧的な態度に、弁護士に相談してからにすると抗弁したセリザワだっ
たが、「自発的に話さないならFBIが正式に令状を持ってくる。容疑は国家反逆罪の共謀だ」

 合衆国憲法に定める『反逆罪』とは、『祖国の敵に対して援助や便宜を与えること』である。最高
刑は死刑であり、たとえ死刑制度のない州であっても変わらない。
 唖然とし、あまりに破天荒な内容に笑い出しそうになるセリザワの胸ぐらを、不要になった家具か
割れた皿でも扱うような冷徹さで男が掴んだ。
「君が素直に話せば、事を荒立てはしない。問題になっているのは君ではないのだ。しかし、君の
出方次第では拘束する。そうなると、君の揚々たるこれからのキャリアに大きな傷を残すだろうな。
たとえ不起訴になろうと」

「あんたらは・・・・・」
 呻く彼に、残った手で髭の先をいじりながら男は不快な笑い方をした。
「君ほどの知性があれば、もうわかっていると思うがね」

 CIAだ。
 梁がこの局に所属しているのではと以前から思っていた。『別の政府機関』というのはヴァージ
ニア州ラングレーに立つ灰色の城、中央情報局を指すことが多いのだ。

 やむなく、彼は葛城梁との交友を話した。
 ここ暫く彼からの連絡はないこと。
 現在の居場所についての心当たりなどないこと。

 しかし、以前のメールで『オタルに住むガラス職人、ターニャ・リピンスキーと交際している』と
書いてあったことは最後まで隠した。
 彼が罪を、反逆罪を犯すなど到底納得できるものではなかったからだ。

 やがて全米に散らばる大学時代の友人から次々と連絡があった。おかしな男女がリョウ・カツ
ラギのことを聞きに来たと。大がかりなマンハントが行われているらしい。あくまで身分証の提示を
求めると、CIAのIDカードが突き出されて。

 そもそも彼がCIA職員として母国を裏切ったなら、その捜査権はCIAではなくFBIにある。CIAの
任務は国外での情報収集であり、国内での違法行為に対して行動する権限はない。CIA内部にも
職員を調査する機関があるはずだが、そこには国務省のセリザワを逮捕する権限などない。やはり
防諜を担当するFBIが出てこなくてはならないのだ。FBIが逮捕して、裁判にかける。それが筋だ。

 それなのにCIAだけがやって来たのはなぜか。彼の存在に不都合を感じた組織が、抹殺を企図
しているのではないか。何かの事態を彼とともに葬り去ろうとしているのではないのか。そう疑念が
浮かぶ。秘密主義で独善の神を崇めるザ・ハウスならやりかねない。

 東シベリア問題で韓国・日本・アメリカの三国協議が先週ソウルで行われ、随員として同行した
彼はそのまま休暇を取り、アメリカには戻らずに札幌・小樽へとやってきた。
 居場所を知っているに違いないターニャ・リピンスキーを探し、葛城梁から真実を聞こうと。



 いつしか、野球の試合は終わっていた。
 トンボでグラウンドを均す若者たちが、今日のプレイのことでも話題にしているのか、手を止めて
笑い合っている。外野の芝生には、人影がなくなるのを待ちかねたように小鳥がなにかを啄み
ながら翼を休めている。

 その和やかな世界は、まるで劇場のスクリーンのようにターニャと隔絶していた。

「梁が、アメリカの、CIA・・・・・」

 呟く声が、指先が、腕が、あらゆる細胞が震える。
 死にゆく最後の痙攣にも似て。

 CIA。
 Center Intergence Agency。
 中央情報局。
 アメリカの情報活動、つまりはスパイ工作を一手に担い、世界中に要員を送り込み、時には暗殺
ですら行うという組織。

 梁が、その一人だったというのか。

 セリザワが語ったことは、全てが知らないことだった。
 出身。大学。政府職員。情報機関。
 札幌でしていた仕事も、言葉少なに語った過去も、
 なにもかも作り事だったのか。

 微笑みも、いたわりも、優しさも、くちづけも。

 どうして

 どうして・・・・・


 ばらばらになってしまうのを食い止めるように自らを抱く彼女は、鼓動がもたらす痛みに耐えて
いた。


 やはり陽子も衝撃を隠せない。マスコミの人間であってもこんな途方もない話には免疫がある
はずもない。
「嘘じゃないんだろうね」
「嘘をついてどうなる。僕は信じないが彼はCIAに、最悪の場合アメリカ政府そのものに追われて
いる。彼を助けたいんだ」
 こほん、と、話し疲れたのか咳払いを挟む。
「それで、こっちも聞きたい。どうして僕と会うのにここまで手を掛けたんだ。まるで身代金を狙って
いる誘拐犯だ」
「あんたの話で、こちらも手間を掛けてよかったと思えるよ。ターニャと私たちも、正体不明の相手に
狙われているんだ。こうまで慎重に振る舞ったのはあんたが敵か味方かわからないからさ」
 今度はセリザワが驚く番だった。
「狙われている? どんな?」
「それがまだわからない。姿を見せたのは東洋系の外国人で、拳銃を持った奴らだけでね。誘拐
までやらかそうとしたぐらいだから、こっちも甘く考えるわけにはいかないんだよ」

 もちろんセリザワは、アメリカのように銃器を使った犯罪はこの国では珍しいことを知っている。
誘拐という言葉の持つ陰惨な響きも。
「リョウのことと関係が?」
「あるね。だからこそあんたとターニャを会わせたんだ。とにかく葛城梁のことを話してくれてありが
とう。あんた、いつ国に帰るんだい?」
「言っただろう。リョウを助けたいって。まだしばらく休暇は残っている。彼を見つけるまではこの
辺りにいるよ」
 そして彼は当宿しているホテルの名前を挙げた。

 陽子は腰を上げて、ターニャの肩に手を置いた。
「じゃ、また話を聞かせてもらうことがあるかもしれない。その時はこちらから連絡するよ。いいね」
 まだ聞きたいことはいくらでもあるが、ターニャの具合が著しく悪くなってきている。もう限界だ。
「ちょっと待ってくれよ。君達は、何人なのか知らないけれど、彼女とリョウを探しているんだろう?
僕にも協力させてくれないか? 僕一人では限界があるだろうし、この地域にも詳しくない。正直
手詰りを感じていたんだ。どうだろう」
 そう申し出るセリザワには、やっと巡り合えたターニャという手がかりを逃したくないという必死の
思いが漂っていた。

「こちらで相談して返答するよ。でも今日はここまでに。あまり長く屋外にいたくないからね」
 手を貸してターニャを立たせるが、その足元は明らかにおぼつかない。
「手を・・・・・」
 彼女の異状に気づいたセリザワが手を貸そうとしたが、陽子は「彼女に触れないで」と硬質な
声で拒絶した。まだ心を許せる相手ではないのだ。

 何事かと駆けつけた由子が、半ば担ぐように彼女を連れ出す。彼女の手に車のキーを握らせて、
陽子はセリザワに向き直る。
「あんたは、あと30分ここを動かないでいておくれ。いいね」
 自分たちの乗る車を見られたくないからだ。
 理由がわかったのか、セリザワは無言で頷くだけだった。


 ターニャを陽子のチェロキーの後部座席に横たえた由子だったが、呼びかけに返事もできない
荒い呼吸と苦悶の表情に不安がどんどん膨れ上がる。
「薫さん、ターニャの具合が・・・・・」
 幸い携帯はすぐに繋がった。
 薫は症状を聞き、すぐにターニャの鞄から薬を出して服用させるようにと指示した。





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